2010年5月7日金曜日

kinokuniya shohyo 書評

2010年04月30日

『「私」を生きるための言葉』泉谷閑示(研究社)

「私」を生きるための言葉 →bookwebで購入

「ゼロ人称集団という世間からの解放の書」

 ユニークフェイス当事者と話をしていると避けがたい苦悩として、他者からどう思われているのか、という「とらわれ」がある。気にすることはない、といく ら言っても効果はない。その人は、他者からどう思われているのか、という他者の視線に拘束されているからである。その他者とは何か?と問いかけると、「み んな」という。みんなとは誰か?と問うと、親とか、会社の同僚という。その人たちが具体的にどのようなひどい言葉をかけたのか?と問うと、エピソードが出 てくる。そのエピソード以外にひどい経験はないのですか?と問うと、あまり覚えていないという。なるほど、その会社に2年間いたとして、差別的な出来事は それだけ、ということになりますねと言う。相手は落ち込む。もっとあるのだが、言語化ができないのだろう。
  通りすがりの人に、ひどい目で見られるという。具体的にどういう眼なんですか? 石井さんならば分かりますよね。いいえ、わかりません。僕とあなたとは初 対面なんですから。男性と女性では立場も違いますから。そうですか? そうですよ。で、何があったんです? (沈黙)。

 他者からの視線が気になるというあなたの気持ちは理解します。共感もできます。では、僕がどのように他者からの視線を気にしなくなったか。お伝 えします。ただ、ひとつだけ注意してください。これは僕のノウハウであって、あなたにはできない方法かもしれない。当事者といっても多様ですからね。参考 になればいい。そのくらいの気持ちで聞いてください。

 僕はまず周囲からのひどい好奇の視線は必ずやってくる、という前提で、すべての生活を送っています。(絶句)。

 だって、そうでしょう。僕たちはそういう人生を送ってきたではないですか。客観的事実として。

 ひどい視線を浴びせてくる人がいると、なんでそんなふうに感じるのか。この人の知的水準について考える。初対面の人間の外見を見て、見下すという 態度を隠せないのはなぜか。こういう風に観察と批評の対象にする。こっちのほうが経験豊富なのですから、動揺してはいけません。それから見ず知らずの人で すから、何を言われても、気にすることはありません。本当に他人なんですから。その人が親友ならば、傷ついてもよいでしょうが。何しろ他人ですからね。そ の人は、何かを言うと僕たちが傷ついて崩れおちると想像しているわけですから、その期待にこたえる必要はありません。観察するだけでいいんです。

 若いときは、みんなと一緒、という意識も大切かと思っていましたが、そんな必要はないんです。僕が観察するところによると、ほとんどの人は、ばら ばらです。見下されることに怯えている弱い人間なんですよ。その弱さは僕たちと同じ。ただ、僕たちは、弱みが顔面に露出しているから、選択的に攻撃されや すい。でもね、ここに(顔面)に攻撃がくる、と分かっているのだから、防御する方法は身につけておくといい。

 ノウハウは教えます。そのノウハウを使う大前提は、他者は他者という意識の変更。その人はあなたの分身でも一部でも身内でもない。完全なる他者。 僕は他者の人生も内面も知らない。相手も僕を知らない。知らない者同士が何を言ってもすべては誤解。誤解のなかであなたを解釈する、断定する人のいうこと に振り回される必要はないんですよ。

 そんなことできませんよ。

 いえ、できますよ。訓練をすれば。

 僕たちは、異なる顔面をもった外国人だと思えば良いんです。みんなのことを気にすることはありません。顔が違えば、感じることも違いますから。


 こんなことを当事者とよく話す。禅問答のようである。しかし、この問答が必要なのだ。完全なる他者からの視線を、まるで身内からの視線であるかのように錯覚する心情から脱却する。これが苦悩からの解放の第一歩になるのだから。それは「みんなの一員」意識からの解放だ。

 この「みんな」という空気のような概念は、阿部謹也氏が「世間」として詳述してきた。日本には「社会」はなく「世間」がある、と。

 本書もその世間論の流れをくむ。類書と異なるのは著者が精神科医であること。日本語の言葉のなかに、「世間」がふかくジョイントされているため、日本語で自意識を語ろうとすると、世間的な価値に不可避的に巻き込まれていくという構造を明らかにした点にある。

 先に書いた、ユニークフェイス当事者の自意識は、世間的な価値にとらわれているのである。その世間的価値を無自覚に内面化してしまった普通の人た ちのことを、著者の泉谷氏は「ゼロ人称」の人と定義する。ゼロ人称の人たちは、「私」という主語を使わず、「私」という立場でモノを言わない。話し言葉に 主語を欠落させる。そして欠落しているという意識さえないのだ。ゼロ人称のひとたちの、主語なきコミュニケーションの、本当の主語とは「みんな」であり 「世間」なのである。この「ゼロ人称」の人たちにとって、個人主義とは、「世間」の承認を経たものでなければならない。だから、必然的に個人主義は骨抜き になる。個人主義は、「みんな」が許容できるような枠内での「個人もどき」でなければ、ゼロ人称の人たちで構成される世間は維持されないのだ。

 世間的価値を破壊する勢力が出てきても、表だって抵抗はしない。じわりと世間が包囲して、個人を懐柔するのだ。それも無意識に。集団で。

 この世間を構成している人たちは、不安のなかで生きている。ひとりで世間から飛び立とうとはしない。飛び立つと、世間はその人と絶縁することで制裁する。世間以外の「社会」を知らない人たちは、精神の危機に陥って、精神病になっていくのだ。中には自殺する人もいる。

 これまで世間的価値の培養器は、会社と地域共同体だった。

 精神科医、泉谷医師は、この「世間」が破綻していることを日々の臨床から痛感しているという。

「実際に身近にいる人間との間ではコミュニケーションと呼べるようなものが存在せず、有料の精神療法という特別にしつらえた場面で始めてコミュニケーションが行われる。私はそれが自分の職業でありながらも、とても不自然な現象であると感じずにはいられないのです」

 僕は、この世間の破綻を歓迎する者である。なぜならば個人と個人の対話が始まるからである。

 対話とは互いが避けがたく「孤独」を背負った異質な他者同士であることを認識し、目の前にいる他者に向って「知りたい」「理解 したい」という人間的関心を向け、先入観なしに「聴く」こと。それを双方が行って、多くの「違う」を発見し合うこと。そしてその先に自ずと「同じ」が発見 され、「共感」という「愛」が生ずること」
   泉谷医師の対話には、「孤独な個人」という前提条件がある。

 ユニークフェイス当事者たちは、日本の世間のなかではゼロ人称では生きられない。1人称で生きるにはしんどい。世間が強固に残っている日本では1人称で生きる訓練がしにくいからである。

 いま、「孤独な個人」という属性の人たちが増加している時代である。対話の時代だ。その萌芽はそこかしこにある。萌芽に気づくひとたちは共同体を超えた対話をはじめている。twitterはその萌芽のひとつだろう。

 本書は、孤独な個人として、生きるための良きガイドブックである。

 それぞれの個人が、自分の出自と運命のなかで、対話をして楽しむときがきたのである。

 息苦しい世間の同調圧力のなかで心おれる前に読むべき一冊である。


→bookwebで購入

0 件のコメント: