2010年5月19日水曜日

asahi shohyo 書評

脳のなかの匂い地図 [著]森憲作

[掲載] 週刊朝日2010年4月23日号

  • [評者]谷本束

■人の脳には「アホ回路」があるのかもしれな い

 五感の中で、嗅ぐ、という感覚はどうも大事にされてない。鼻をくんくんするのも、冷蔵庫の残り物 が傷んでないか確かめる時ぐらいで、活躍してるとは言い難い。

 神経科学の世界でも事情は同じらしい。視覚に比べると嗅覚の研究は30年ほど遅れていて、いろいろわかってきたのはようやくこ こ20年という。脳はにおいをどのように認識するのか、その嗅覚研究の最前線をまとめている。

 鼻腔の奥に広がるにおい分子受容体がにおいをキャッチして、脳底部にある嗅球、嗅皮質へと信号を送る。その伝達の仕組みが実に スマートで美しい。たとえば、におい分子は数十万種類もあるが、におい分子受容体はたった390種類しかない。どうするか。受容体一つ一つがにおいを判別 するのではなく、どの受容体とどの受容体が活性化されたか、その組み合わせがにおい分子を特定する認識コードになっているのだ。

 興味深いのは嗅球だ。マウスの実験で、ある領域の嗅細胞を除いたら天敵への恐怖反応がなくなった。脳が言語野、視覚野などの領 域に分かれているように、嗅球にも天敵のにおいなら逃げる、食べられる物のにおいを学習する、そういう機能別領域があるらしい。まだ仮説の段階だが、著者 はにおい情報を適切な行動に翻訳する上で、におい地図の構造が重要な役割をもつのでは、と述べている。

 ここでふと思い出したのが、スウェーデンのシュール・ストレミングというニシンの缶詰。とんでもなくクサイことで有名で、友人 はこれを食して「ネコのオシッコのにおいだあ」と叫んだ。においの意味は間違いなく「タベルナ キケン」だろう。それを無視して人は食べる。韓国のホン オ・フェという発酵したエイの刺身はアンモニア臭激烈だし、クサヤに豆腐よう、くさい食べ物は世界中にある。人の脳には「危険かもしんないけど、とにかく 食う」というアホ回路があるのかもしれない。

 合理と不合理のつまった人間の脳。だから脳の話は面白いのか。

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