2010年5月12日水曜日

asahi shohyo 書評

会津という神話—〈二つの戦後〉をめぐる〈死者の政治学〉 [著]田中悟

[掲載]2010年4月25日

  • [評者]中島岳志(北海道大学准教授・南アジア地域研究、 政治思想史)

■ 呼び戻された「悲劇」の死者

 「いまだに長州への怨念(おんねん)を抱いている」

 お酒の席でそんな思いを吐露する会津の人と、私はこれまで何度も出会ってきた。幕末の戊辰戦争で長州軍にさんざん痛めつけられ た会津は、いまでもその時の恨みを忘れていないというのである。

 しかし、本書の著者はそのような感情は戦後になって高揚したもので、戦前・戦中の会津では、長州人と同じ「勤皇精神」の持ち主 だという思いが大勢を占めていたという。「長州への怨念」は、戦後に「無垢(むく)な敗者」「近代日本の被害者」というアイデンティティーを獲得する過程 で、あらためて喚起され直した感情だというのである。

 戊辰戦争の死者は、明治政府によって「賊軍」とされ、国民の物語から排除された。しかし、会津の人たちは勝者による物語の独占 に異を唱え、自分たちこそが真の勤皇の志士だったと主張する。そして、国民の物語への吸収を悲願とした。

 この願いは、1928年に会津松平家の節子(勢津子)と秩父宮雍仁(やすひと)の縁組が実現することで果たされる。さらに30 年代後半、徳富蘇峰が各地で行った講演で、「会津は逆賊などではない」と強調し、その「尊王の大精神」を称揚したことによって達成された。そして会津の 「勤皇精神」は「大東亜戦争」中に国民が見習うべき規範という地位を確立し、絶頂期を迎える。

 しかし「大東亜戦争」の敗戦によって、会津の人々はこの物語をリセットし、司馬遼太郎による「悲劇の会津」という新たな物語に 飛びついた。会津人は「軍国主義の寵児(ちょうじ)」という側面を「忘却の淵(ふち)に沈め」、好都合な「司馬史観」に乗り換えたのである。その過程で白 虎隊の「非業」や「純粋さ」が神話として再設定され、会津の観光化の中で利用されていったと著者は主張する。

 会津にとっての二度の敗戦経験は、どのような記憶を紡ぎだし、何を忘却していったのか。本書の問いかけは、会津という空間を越 えて、靖国神社に象徴される「国家と死者」の問題に鋭いメスを入れている。

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 たなか・さとる 70年生まれ。神戸大学助教(政治学)。

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