2010年05月11日
『もっと知ろう‼ わたしたちの隣人-ニューカマー外国人と日本社会』加藤剛(世界思想社)
「外国人問題」ということばは、「不法滞在」「不法就労」とか犯罪と結びついて取り沙汰されることがある。しかし、本書を読むと、「外国人問題」ではな く、日本の問題であるとことがよくわかる。
編者、加藤剛は、「はじめに」で、つぎのように日本の問題を適確に指摘している。「二一世紀の日本社会が検討すべき課題のいくつかが自ずと浮かび上がっ てくる。ひとつは、本書のテーマと深く関わる外国人移民受け入れの不可避性、ひいては本書第1章でも触れている「移民政策」策定の不可避性である。もうひ とつは、たとえ多くの移民を受け入れたとしても、数千万の移民によって日本の総人口を二〇〇四年のレベルにまで戻すことは不可能だということ、したがって 日本は将来的には、一方で国の借金の返済と高齢者人口の社会福祉負担の増大に対応しつつ、他方で「縮小均衡」経済(略)ないし「人口減少経済」(略)を創 出するという挑戦に立ち向かわざるをえない、ということである。ここでは「答え」を出すことを目的とはせずに、今後どのような検討が必要となるかを、まず は移民政策について考えることにしたい」。
日本には、「移民」がいないという。近代日本では、移民とは外国に出て行く出移民のことをいい、日本に入ってくる入移民という発想自体がなかった。入移 民は、その国に必要だから入ってくるのであって、勝手に入ってきて居座っているのではない。したがって、なぜ、日本が「移民」を必要とする社会になったの かを考えなければならない。それを考えるために、本書は編まれた。
本書は、「この三〇年ほどのニューカマー外国人到来の波を簡単ながらも歴史的に跡づけ、国際労働力移動のグローバルな背景と今後の見通しを検討しつつ、 二一世紀の日本にとっての「移民受け入れ」の喫緊性に焦点を当てることにした」長い「はじめに」(編者は「あとがき」で「まえがき」と言っている)の後、 全8章からなり、「大きく四つの部分に分けることができる」。
「第1章は全体への導入の章で」、「現在どのような外国人が日本に受け入れられているか、あるいは受け入れられていないかについて、国の出入国管理政策 の変遷を中心に概観している」。
「第2章から第4章までは、異なる在留資格の下、異なる業種で働く異なる出身国の外国人「単純労働者」-茨城県の水産加工業で働く様々な国からの外国人 労働者、北海道の農業で働く中国人研修生・実習生、滋賀県の製造業で働く日系南米人-についての事例報告である」。
「第5章から第7章までは、いわば多文化共生に関わる実践報告・現場報告であると位置づけられる。具体的には、第5章は名古屋市中区栄東地区における フィリピン・コミュニテイと地元住民との「一緒に汗をかく活動」を描き、第6章は、流入する多様な外国人によって東京の新宿区大久保がどのように変容して きたかを地元社会の反応を含めて跡づけ、第7章は、著者自身が信仰する宗教、「日本的ではない」イスラームの信徒の間に見られる宗教的な多文化共生の模索 の様子を、モスク(礼拝所)の設立を手がかりに特定地域社会に限定せずに、半分「あちら側」から綴ったものである」。
「最後の第8章のテーマは、日本における外国人受け入れをめぐる議論ではおそらくこれまであまり語られることのなかったテーマ、外国人受け入れの持つ政 治的な含意についてである」。「第8章の論点は、外国人労働者、とくに「不法滞在者」を支援するNGOの活動が、結果的に日本における下からの民主主義の 活性化、それも外国人住民や国内マイノリティなどの社会的弱者の包摂を志向する、多文化民主主義の発展に貢献しているとの結論である」。
編者は、「あとがき」で、「「多文化共生」への道はまだまだ遠い。その道程が遠ければ遠いほど、わたしたちには、自分たちの隣人のこと、ひいてはわたし たち自身のことをもっともっとよく知る努力が必要とされる」と結論している。帯にある「ゆたかな多文化共生社会を目指して」、まずはなぜ目指す必要がある のかを、日本人ひとりひとりが自覚することによって、「外国人問題」は「日本の問題」になる。日本に暮らすのは、もはや日本人だけではない。
編者、加藤剛は、「はじめに」で、つぎのように日本の問題を適確に指摘している。「二一世紀の日本社会が検討すべき課題のいくつかが自ずと浮かび上がっ てくる。ひとつは、本書のテーマと深く関わる外国人移民受け入れの不可避性、ひいては本書第1章でも触れている「移民政策」策定の不可避性である。もうひ とつは、たとえ多くの移民を受け入れたとしても、数千万の移民によって日本の総人口を二〇〇四年のレベルにまで戻すことは不可能だということ、したがって 日本は将来的には、一方で国の借金の返済と高齢者人口の社会福祉負担の増大に対応しつつ、他方で「縮小均衡」経済(略)ないし「人口減少経済」(略)を創 出するという挑戦に立ち向かわざるをえない、ということである。ここでは「答え」を出すことを目的とはせずに、今後どのような検討が必要となるかを、まず は移民政策について考えることにしたい」。
日本には、「移民」がいないという。近代日本では、移民とは外国に出て行く出移民のことをいい、日本に入ってくる入移民という発想自体がなかった。入移 民は、その国に必要だから入ってくるのであって、勝手に入ってきて居座っているのではない。したがって、なぜ、日本が「移民」を必要とする社会になったの かを考えなければならない。それを考えるために、本書は編まれた。
本書は、「この三〇年ほどのニューカマー外国人到来の波を簡単ながらも歴史的に跡づけ、国際労働力移動のグローバルな背景と今後の見通しを検討しつつ、 二一世紀の日本にとっての「移民受け入れ」の喫緊性に焦点を当てることにした」長い「はじめに」(編者は「あとがき」で「まえがき」と言っている)の後、 全8章からなり、「大きく四つの部分に分けることができる」。
「第1章は全体への導入の章で」、「現在どのような外国人が日本に受け入れられているか、あるいは受け入れられていないかについて、国の出入国管理政策 の変遷を中心に概観している」。
「第2章から第4章までは、異なる在留資格の下、異なる業種で働く異なる出身国の外国人「単純労働者」-茨城県の水産加工業で働く様々な国からの外国人 労働者、北海道の農業で働く中国人研修生・実習生、滋賀県の製造業で働く日系南米人-についての事例報告である」。
「第5章から第7章までは、いわば多文化共生に関わる実践報告・現場報告であると位置づけられる。具体的には、第5章は名古屋市中区栄東地区における フィリピン・コミュニテイと地元住民との「一緒に汗をかく活動」を描き、第6章は、流入する多様な外国人によって東京の新宿区大久保がどのように変容して きたかを地元社会の反応を含めて跡づけ、第7章は、著者自身が信仰する宗教、「日本的ではない」イスラームの信徒の間に見られる宗教的な多文化共生の模索 の様子を、モスク(礼拝所)の設立を手がかりに特定地域社会に限定せずに、半分「あちら側」から綴ったものである」。
「最後の第8章のテーマは、日本における外国人受け入れをめぐる議論ではおそらくこれまであまり語られることのなかったテーマ、外国人受け入れの持つ政 治的な含意についてである」。「第8章の論点は、外国人労働者、とくに「不法滞在者」を支援するNGOの活動が、結果的に日本における下からの民主主義の 活性化、それも外国人住民や国内マイノリティなどの社会的弱者の包摂を志向する、多文化民主主義の発展に貢献しているとの結論である」。
編者は、「あとがき」で、「「多文化共生」への道はまだまだ遠い。その道程が遠ければ遠いほど、わたしたちには、自分たちの隣人のこと、ひいてはわたし たち自身のことをもっともっとよく知る努力が必要とされる」と結論している。帯にある「ゆたかな多文化共生社会を目指して」、まずはなぜ目指す必要がある のかを、日本人ひとりひとりが自覚することによって、「外国人問題」は「日本の問題」になる。日本に暮らすのは、もはや日本人だけではない。
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