2010年5月27日木曜日

kinokuniya shohyo 書評

2010年05月27日

『シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々』ジェレミー・マーサー(河出書房新社)

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「伝説の書店、そのユートピア思想と混乱ぶり」

本書のタイトルを見て、イギリスではなくパリの街を思い浮かべた人は、この書店の元祖についてご存知の方だろう。戦前のパリにその名を馳せた伝説的な書店 で、ガートルド・シュタイン、ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、ジッド、ヴァレリーなどが出入りし、ジョイスの『ユリシーズ』を最初に出版したことで も有名だ。

その書店を率いたのはシルヴィア・ビーチという女性だが、この元祖の書店がドイツ占領下で閉店となったあと、彼女の仕事に大きな霊感を受けて同じ名 の店を開いたのは、ジョージ・ホイットマンという男性だった。店はいまもセーヌ川を挟んでノートルダム大聖堂と向かいあうビュシュリ通りで営業をつづけて おり、上階のアパートにはジョージ自身も住んでいる。

書店の目的は本を売ることだが、それのみならず、本を介して場を作れるところがほかの商店とちがう。ドラッグストアーが売り物で場を作ることはむず かしいが、本ならばトークショーや朗読会というふうにさまざまな方向に広がっていける。人と人をつなぐメディアとなり、知を引き渡す役を果すものとして、 本の上をいくものを探すのはむずかしい。いまの若い人たちがカフェやギャラリーなどで古書を一緒に売るのも、そうした本の潜在力をどこかで直感しているか らだろう。

2000年のはじめにこの書店にカナダ人の青年がやってきた。所持金が尽きかかっているのに、国にもどれない事情があり、にっちもさっちもいかない 状態でこの書店に拾われたのだった。店主のジョージは無類の読書家と理想主義の行動家というふたつの顔をあわせもち、開店当初から行き場のない人に宿と食 事を提供してきた。書店が無料宿泊所も兼ねていたのである。

こうしてジェレミー・マーサーは店の手伝いをしながら数ヶ月間滞在した。当時20代後半だった彼がそこで出会った人々や見聞きした出来事を綴ったの がこの本だが、だれもが自意識過剰で、文学をかじり、物書きを夢み、根拠のない自信と、根拠のあるコンプレックスのあいだを揺れ動いていて、書店にたむろ する人に共通のにおいが立ちこめている。21世紀のことが書いてあるのに、60,70年代のシーンを見ているような感じもある。

その理由はなによりもジョージ・ホイットマンその人にあるのだろう。名前を見ておわかりのとおり、フランス人ではない。1913年、アメリカ東海岸 に生まれ、子どものときから本の虫だった。十代で破天荒なビジネスマンの父に連れられて家族とともに中国で1年過ごし、その後アジアと中東を巡る。この父 親ゆずりの冒険心がジョージにも乗り移り、大学のジャーナリズム科を卒業した後、世界放浪がはじまる。やがてパリに定着し、シルヴィア・ビーチと同じよう に「パリのアメリカ人」となったのだが、これはパリが異邦人に居心地のいい街であるだけが理由でなく、アメリカで反共運動がはじまり、共産主義の思想に燃 える彼のような人物がいずらくなったことも大きかった。

異国に長くいると母国語の本に飢える。だから書店の萌芽が彼が最初に住みついたパリの一室で芽生えたという話は、よく理解できる。英語の蔵書がうず たかく積み上げられたその部屋には旅人がよく本を借りにきた。ジョージはつねにパンとスープを用意し、彼らをもてなしながら書物談義にふけった。そうなる と宿を提供するまでもう一歩である。本好きで知性を共有できる相手しか来ないから、本が人を選んでくれているわけで、彼のユートピア思想は膨らんでいく。

だが、人通りの多い路上に書店を構えるのは、小さなアパートに人を招きいれるのとはわけがちがう。何年もろう城している詩人がいるかと思えば、無責 任にやってきて去っていく人があとをたたない。理想主義者のジョージは物事の管理には一切興味はなく、秩序を保つものはむずかしい。もちろん経営状態もお もわしくない。

ジェレミー・マーサーは、そんな書店の混乱ぶりを、出会った仲間や自分のライフストーリーと織り交ぜながら語っていく。少々話が広がりすぎで、だれ がだれやらわかりにくいところもあるが、ジョージには店に出入りする奇人が束になってかかってきてもゆらがない分銅のようなキャラクターがあり、混乱しが ちな小宇宙の羅針盤になっている。現実感覚に乏しく、理想を追い求め、私利私欲ではぜったいに動かないところが徹底しているのだ。

ジョージが体現してきた「異邦人」「放浪」「本」という3点セットの価値観が、清水のように流れていて、現代の物語にもかかわらず、そうと思えない ような懐かしさが漂っている。矛盾した人間性と前後をかえりみない彼の行動力に、歴史を生きてきた人の重みがにじんでいて印象深い。ネット社会がいくら浸 透しても、この3点の普遍性は変らないだろう。人間が人間であるかぎりは。



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