2013年04月22日
『ハイエク 「保守」との訣別』楠茂樹 楠美佐子(中央公論新社)
「ハイエク社会哲学への招待」
ハイエクは現代経済思想史においてケインズとともに最も有名な名前のひとつだが、彼の思想は経済学というよりは社会哲学全般にまで及ぶ広さをもってい る。一昔前は、ハイエクよりもケインズのほうが圧倒的に人気があったが、サッチャリズムやレーガノミクスの流行を経た1980年代以降、ケインズ主義や福 祉国家を批判するハイエクの本が日本でもよく売れるようになった。ハイエクはフリードマンとともにしばしば「保守主義」の思想家のように紹介されるが、彼 自身は自分の社会哲学が「保守的」だとは考えていなかった。なぜか。本書(楠茂樹・楠美佐子『ハイエク—「保守」との訣別』中公選書、2013年)は、こ の疑問に真正面から答えようとした好著である。初期のハイエクは、『価格と生産』(1931年)に代表されるように、景気循環論や貨幣理論の専門家として知られていた。本書も最初の数章はその 分野でのハイエクの仕事を丁寧に紹介しているが、ケインズ革命以後、「経済理論家」としてハイエクを高く評価する見方は学界ではほとんど消えてしまった。 むしろ、1930年代の社会主義経済計算論争において提示された知識論や競争論(「分散化された知識の有効利用」や「意見形成の過程」として競争を捉える 視点)、そして『隷属への道』(1944年)において提示された全体主義批判などの仕事が「自生的秩序論」(すべての秩序を個人の行為の意図せざる結果で あるとして捉える考え方)を中核とした後期ハイエクの自由主義論へとつながっていく、そちらのラインに注目する見方のほうが主流を占めているといってよい だろう。本書もそのような流れを重視している。
ハイエクによれば、「自由」とは、「個人の努力にたいする直接的統制の放棄を意味するからこそ、自由社会はもっとも賢明な支配者の頭脳が包含するよりも はるかに多くの知識を利用することができる」(『自由の条件』1960年)ものだが、「自由」といっても、どのような概念を思い浮かべるかで見方が違って くる。例えば、「言論・思想の自由」のような精神面にかかわるもの(ハイエクの用語では「知的領域における自由」)と、「職業選択や財産の処分の自由」の ような経済面にかかわるもの(再びハイエクの用語では「行為の自由」)があるとき、世の中では「知的領域における自由」のほうを尊重する傾向がある。しか し、著者が注意を喚起するのは、ハイエクにとって両方の自由は無差別であること、ときにはむしろ「行為の自由」のほうを強調するような見解を述べているこ とである。
「ハイエクにとって、行為することが許されていることこそが自生的秩序の形成にとって決定的に重要なのであって、そういった自由を認めないまま、 思ったり、意見を述べたりすることだけの自由を尊重したところで、それは意味をなさない。……なぜ行為の自由が強調されなければならないかといえば、様々 な知恵は人々の行為の積み重ねの結果、発見されるものだからである。人々は試行錯誤なしに新しい知識に到達することはない。そしてこの試行錯誤は思った り、意見を述べたりすることのみでなされ得るのではなく、実際に行うことによってなされ得るものでもある。あるものを使ってみてその不便さに気付き、改良 したり、他のものに換えてみたり、あるいはあるものの別の用途に気付くことで、知的領域における成果に結び付くことになる。」(同書、84-85ページ)
ハイエクの自由論と知識論が不可分に結びついていることが読みとれるが、著者はさらに「人間の営みに関わる秩序形成において、誰も全体として詳細 を把握できないからこそ自由の価値があるのである」(同書、86ページ)と敷衍する。ハイエクが一見非合理的に見えるけれども長い時間をかけてできあがっ た習慣や制度などを尊重するのもそのためである。「そういった習慣や制度は環境への適応のための不可欠のツールであって、それは絶え間ない改良の過程にあ る。その意味では非合理性を不可避的に伴うものである。そうした状況にありながらも、人々は環境への適応のためにそうした習慣や制度を信頼し、それらに依 存し続けているのである。この非合理性への信頼は自生的秩序の本質的特徴である」と(同書、87ページ)。
習慣や制度さらには伝統を尊重するというハイエクの姿勢は、とかく「保守的」という烙印を押されがちである。だが、著者は、それはハイエクの社会哲学を 全く誤解しているという。ハイエクにとって、「真の保守主義は激しい変化に反対する態度」(『自由の条件』)のことだが、それは変化をよしとする自由主義 の立場とは相容れない。著者は、ハイエクの『自由の条件』に依拠しながら次のように述べる。「保守主義者に足りないのは、『設計されざる変化を歓迎する勇 気』である。一方、『自由主義の立場は勇気と確信にもとづき、どのような結果が生じるかを予想できなくても、変化の方向をその進むにまかせる態度に基礎を おいている』」と(同書、208ページ)。
興味深いのは、原則というものがない保守主義者であっても、それは道徳心が欠けているという意味ではなく、彼らは社会主義者と同様に自分たちの価値を他 人に強いる資格があるとみずから信じていることである。それゆえ、著者は、社会主義からの転向者が保守主義者になりやすいというハイエクの文章に注目しな がら次のようにいう。「ある価値を他人に強制しようとしてきた者がその価値を放棄するとき、新たなより所となる価値を他人に強制しようとするということ だ。その点では社会主義と保守主義は同根ということになる」と(同書、211ページ)。
ハイエクの社会哲学への理解は、法の支配における「ルール」の重要性をあわせて押さえておくとさらに深まるが、本書の解説は簡潔だが要領を得ている。ハ イエクが「一般的行動ルール」というとき、主に人間社会の中で自生的に進化してきた慣習や伝統などが念頭に置かれているが、市場秩序との関連ではどのよう に理解すればよいのか。著者はいう。
「調整の効率性に優れた市場秩序に属する集団は繁栄し、その伝統や慣習がそうでない集団に伝播され、あるいはある集団が消滅するなどして試行錯誤が 繰り返されることになる。結果、より安定し、より普遍的な伝統や慣習が確立する。ハイエクは市場秩序の自生性を説くと同時に、市場秩序を規律するルール の、市場の自生的秩序形成過程を通じた自生性も説いているのである。」(同書、115ページ)
ただし、ハイエクは、議会改革を通じた「ルール」の意識的な改変の余地を否定しないという。この辺の記述はもう少し詳しい解説が必要だったかもし れない。とくに、「群淘汰」(group selection)を通じるルール進化論が、ハイエク思想の中で最も脆弱な部分として専門家の間で議論されてきたのならなおさらそう思われる。
それとは反対に、本書の中でハイエクの全体主義批判を解説する部分は最も文章の冴えを感じさせる。実際、著者もハイエクの全体主義批判を「ハイエク哲学の中で最も力強く、魅力的な部分である」と述べている(同書、158ページ)。
「知識と教養を身に付けた者はどうしても意識的に合理的な社会秩序を形成できると考えがちである。計画された財政政策や金融政策を通じて景気を適切 な水準に合理的に設定し、あるいはその循環を適切な枠内に合理的に抑えることができると考えがちである。その方が学者冥利に尽きるし、知識人の自負心を維 持できるだろう。知識と教養を身に付けた者はそのような誘惑に駆られる傾向がある。同様に、道徳心に溢れ、自ら利他的に行動できる人々は、個人の目標追求 とは切り離された全体としての目的をもつ社会正義によって世の中を治めるべきであるし、それが可能であると信じている。自らを犠牲にして、全体に奉仕でき る人々は、道徳心に溢れた素晴らしい人々に違いない。そういった人々に社会正義の幻想を突き付けるのには躊躇するだろうし、そういった人々の前では説得力 をもたないかもしれない。
予想される反発を乗り越えてでも、設計主義の誤りと社会正義の幻想を説かなければならないハイエクの全体主義批判の核心部分には一体何があるのか。それ は、現代に生きる我々が『開かれた社会』に属しているという、厳然たる事実である。つまり、開かれた社会を前提とする限り、我々はその性質と相容れない設 計主義の誤りに気付かなければならないし、社会正義の幻想から目覚めなければならない。」(同書、160ページ)
はたして「知識と教養を身に付けた者」がこのようなハイエク哲学に説得されるかどうかわからないが、この点を少なくとも理解しなければ、ハイエク の著作のどれを読んでも時間の無駄になるだけだろう。「知識と教養を身に付けた者」は、「彼(ハイエク)にとって最も警戒すべきは、自由資本主義体制を前 提にしながら、全体主義の特徴を伴う福祉国家政策を一見整合的な体裁を取りながら接木的にもち込もうとする一連の議論と勢力であったといえるだろう」(同 書、161ページ)という文章には反発を感じるかもしれない(例えば、ケインジアンを思い浮かべてみればよい)。さらには、設計主義によって支配されるく らいなら、「法の支配の要請を満たすという条件付きという意味で『制約下にある』独裁制を敷いたほうがまだましであるという、ハイエク社会哲学の中で最も 理解され難く、そうであるがゆえに攻撃にさらされやすい民主主義批判の主張につらなっていくのである」(同書、161ページ)という文章にはある種の恐れ さえ感じるかもしれない。ただ、著者が何度も強調しているように、ハイエクは、「民主主義」という言葉の前にすぐ「思考停止」状態になってしまうインテリ の弱点を突いているのである。
ハイエクの社会哲学は、一見「保守的」でありながら現代ではかえって「ラディカル」な面を多分にもっている。多方面にわたるハイエクの仕事を「選書」と いう枠の中にすべて解説するのは難しいことだが、本書は、ハイエク社会哲学を受容するにせよ拒否するにせよ、重要な論点のほとんどすべてを取り上げた好著 だと思う。ハイエク入門書としては、ハイエクの重要論文から精選して編訳した本『市場・知識・自由』田中真晴・田中秀夫編訳(ミネルヴァ書房、1986年)を挙げてきたが、これからは本書も一緒に参照するようにすすめることにしたい。
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