2013年4月6日土曜日

asahi shohyo 書評

abさんご [著]黒田夏子

[評者]市川真人(文芸批評家・早稲田大学准教授)

[掲載] 2013年04月05日

表紙画像 著者:黒田夏子  出版社:文藝春秋 価格:¥ 1,260

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■究極の「ツンデレ」で知る読書の本質

 「史上最年長の芥川賞受賞」で「75歳でのデビュー 作」で、「横書き」「ひらがなの多用」「固有名詞や指示代名詞、カギカッコなどの回避」などが作風(文体)の特徴なのだと話題され、発売から約1週間で 14万部が刷られたのだという黒田夏子『abさんご』が、気づけば電子書籍にもなっているのだった。
 ぼくがかかわっている媒体・雑誌「早稲田文 学」の新人賞応募作なのだから、「気づけば」などとひとごとのように言うには、作者である黒田さんをこの一年、作品についてはそれより半年ほど前からむろ んよく知ってもいる。けれども単行本に関しては、彼女とふたりであれこれ声をかけた先で手を挙げてくれた版元に委ね、以降はそちらを信じて任せるに留まる 以上、こと電子書籍にかんしては(いずれ出ることは知っていたけれど)気づいたら出ていた、というのが正直なところ。いや、諸事にかまけてひとつきふたつ きあっというまに経ってしまうこちらが見落としていたと言うべきか。
 ともあれ、せっかく電子書籍になったのだからとこの連載で触れようとするのは、「『abさんご』がより売れますように」という話……ではない。
  売れる売れないで言うならこのご時世、実験的に見えるだろう純文学小説が14万部といえば十分な量だし、それが140万部だろうと1億4千万部だろうと (と書くとあまりに荒唐無稽な数に聞こえるが、尾田栄一郎のマンガ『ONE PIECE』は、69巻の累計とはいえ3億冊近く売れている)、ぼくや媒体に もとくにお金が入るわけでないのはもちろんのこと(正確に言えば、媒体に『abさんご』単行本の広告ぐらいは出稿されるから、その広告料くらいは入るだろ うが)、黒田さん自身も「もはやお金の欲しい年齢でもないわ」と実入りのよい講演仕事にもまるで心動かされない恬淡(てんたん)ぶりなのだから、彼女に とって部数が積まれることはひたすら"読まれる機会が(短期的にも、長期的アーカイヴの撒種という意味でも)増える"ことにほかならない。だが、だからこ そ、『abさんご』がはたしてどれほど(売れて、ではなく)"読まれて"いるかは、とても大事なことである。
    *
 とりたてて『abさんご』に限らず、ある本がどの程度「読まれて」いるかを捕捉することは、じつはけっこう難しい。
  テレビ番組なら"視聴率"なるものがあり、ビデオリサーチ社のサイトによれば「全国27地区 6600世帯」を対象に、1分ごとにテレビがついているかい ないか、ついているならどの局を……などが調べられているのだし、この「ブック・アサヒ・コム」なんかも各ページごとのアクセス数や、アクセスがどこから のリンクを伝って行われ、どれだけの時間そのページに滞在したかなどがわかるのだという。
 だけれど本は、その捕捉が容易ではない。出版社や取次 店の営業のひとたちに聞けば、その本がどのていど"売れて"、どれくらいが返品されたかは判然とするが、たとえ"売れた"からといって、どれほど"読まれ た"かは定かでない(いったいどれほどの本を、ぼくたちは「つん読」していることか)。
 もちろんテレビやWEBサイトだって"実際にひとが端末 の前にいて、視線を向けているかどうか"までは今はまだわからないが(韓国のサムスン電子が先日発表したギャラクシーの新機種が"視線の有無を判断できる 機能"を持っていたことを思えば、きっとすぐにわかるようになる)、紙の本の場合は"開かれているかどうか"や"どこまで開かれたか"すら、第三者にはわ からない。せいぜい、古本屋で新品同然の本を手にとって、ページの捲(めく)れ方で"たぶんこのあたりまで読んで投げ出したな"と想像できることがある、 くらいの話だ。
 まあ、そうだからこそ、小説に限らず"売っちゃえば勝ち"的な部分も本には長らくあったのだし(もちろん本だけの話ではないけれ ど、文学全集や百科事典のように、読まなくても居間や書斎に飾っておくだけでインテリめいたイイ気分になるという"本"特有の楽しみ方もそれに拍車をかけ た)、本を読むのが仕事の一部なぼくでもそう毎日本ばかり読んでいられるでなし、題名や書き出しや装丁が気に入って買ったはよいものの読めずに日が経つ本 もたぶんもう一生もつくらいあるのだから、あらゆる本はとにかく読まれてほしいとか、みんなもっと本を読むべきだ、とかと言いたいわけではない。"持って いるけれど読まなかった本"も、それはそれで人生の豊かさのうちだと思うことができるなら(たとえば"車庫にあるけれど乗らないバイク"とか"連絡しない が消してもいない異性の連絡先"なんかと同様に)、それも悪くないだろう。
    *
 けれども『abさんご』に限って言えば、それがお そらくは本を手にしたひとの何割かにとって(とりわけ、ひごろ筋を追って小説を流し読むことに慣れているひとに)ひどく読みづらく感じただろうからこそ、 "読まれて"ほしいと思う。なぜなら、『abさんご』の携えたその読みづらさこそがまさに、ほとんどツンデレ的と言いたくなるほどの、"読む"行為への誘 いだからだ。
 いきなり「ツンデレ」などと書くと、なんだかわからなくてこの記事じたいを読み止めるひとがいるといけないから(そもそも電子書籍 についてオンラインで書く批評なのだから、たぶん大丈夫と思うが)、ようは"攻撃的(敵対的)な外見や態度の内側に、ひどく好意的な部分(真意)を隠し 持っていて、それが交互あるいはランダムに表れる"ような人格ないし性質のことととりあえずは説明したうえで(むろん知らないひとへの十分な説明とは言え ないが、興味が湧いたむきには個人的には篠房六郎『百舌谷さん逆上する』を入り口に、谷崎潤一郎『春琴抄』、さらにはフロベール『感情教育』あたりをお薦 めしたい)、『abさんご』の話を続ければ、たとえば、冒頭はこんなふうになっている。
    *
 「aというがっこうとbというがっこ うのどちらにいくのかと,会うおとなたちのくちぐちにきいた百にちほどがあったが,きかれた小児はちょうどその町を離れていくところだったから,aにもb にもついにむえんだった.その,まよわれることのなかった道の枝を,半せいきしてゆめの中で示されなおした者は,見あげたことのなかったてんじょう,ふん だことのなかったゆか,出あわなかった小児たちのかおのないかおを見さだめようとして,すこしあせり,それからとてもくつろいだ.」
 「横書き」 で「平仮名が多」くて「固有名詞や指示代名詞やカギカッコがない」のが特徴と、一義的には説明される『abさんご』だけれど、こうやってWEBベースで引 用してしまえば横書きはいっそ当然のように見えるだろうし、いちばんはじめの会話文をカギカッコに入れて「『aというがっこうとbというがっこうのどちら にいくのか』と〜」としたところで、そう印象が変わるわけではない。平仮名で書かれている箇所を、作者の意図に反することを承知で仮に漢字に置き換えてみ れば、次のようになる。
 1)「『aという学校とbという学校のどちらにいくのか』と,会う大人たちの口々に聞いた百日ほどがあったが,聞かれた 小児はちょうどその町を離れていくところだったから,aにもbにもついに無縁だった.その,迷われることのなかった道の枝を,半世紀して夢の中で示されな おした者は,見上げたことのなかった天井,踏んだことのなかった床,出会わなかった小児たちの顔のない顔を見定めようとして,少し焦り,それからとても寛 いだ.」
 さらに乱暴に(かつてのシドニィ・シェルダン作品の「超訳」さながらに)、文をところどころ切断したりつないだり、表現をいくらか変えたりと、ただ「筋」がわかるようにと加工して、ついでに句読点も用いれば、たとえば次のようになるかもしれない。
  2)「学校にあがる前の百日ほどのあいだ、私が出会った大人たちは、みな口々に『あなたはaとbどちらの学校におあがり?』と聞いた。けれども、そのころ には町を離れることがもう決まっていたから、aとbどちらの学校に行くか、迷うこともなかったのだ。なのに、半世紀後の夢のなかで、当時選ぶ余地のなかっ た「a」「b」ふたつの選択肢を、私はあらためて示されることになる。見上げることのなかった教室の天井や踏むことのなかった床、出あわなかった級友た ち……それらを思い浮かべて私は、abどちらを選ぼうかと少し焦り、それからとても寛いだ」
 これでもまだ筋がわかりづらいなら、橋本治の桃尻語テイストにすればこんなふうだ。
  3)「幼稚園ももうすぐ終わりって感じのクリスマスごろから、アタシは大人たちに「aとbとで、どっちの学校にいくの?」ってよく聞かれた。入学する前に 引っ越したから、アタシは結局どっちの学校にも行かなかったけど、それから半世紀たった今になってなぜだか、選択を夢のなかで迫られてる。「もしもaに 行ったら」「それともbに行ったら」……アタシが勝手に頭に思い浮かべた、架空の教室の天井や床、それから同級生たちを、あれこれ想像しながらどっちかひ とつを選ぼうとして、アタシは少し焦ったんだけど、そのあととっても寛いだの」
 もはやまったく『abさんご』とは違う何かになってしまって著者に怒られそうだが、こうやって読み比べてみると、いくつかのことがわかってくる。
 ひとつに、もとの『abさんご』が描いていた情景それじたいはけっして特異なものではない(少なくとも、作品の日本語ほどに珍しげには映るまい)こと。
 もうひとつに、その半面2)や3)のように言葉、とりわけ主語(ここでは仮に「私」)を補ったり、語順を入れ替えたりするとかき消えてしまう「読みがたさ」があること。
  そしてなにより、その読みがたさによって隠されている文章の跳躍(百日にわたって「会う大人たちが口々に聞く」疑問に対して、abどちらとも「ついに無縁 だった」つれない結論が訪れる一文目や、夢の中であらためて提示された選択が当然の混乱を生じさせたあとでなぜだか語り手を「とてもくつろ」がせたという 二文目の結語の飛躍が)。原文と3)を読み比べていただければ、「くつろいだ(寛いだ)」というわずか一語のもたらす驚きや落差が、まるで違っていること が感じられるはずだ。
    *
 前者のような驚きにたどりつくためには、そこまでの言葉が一語一語、丁寧に意味を拾って読まれなければ ならない。「ぱっと見でわかりそうで、わからない」記述や、「わからなさそうだが、よく読めばわかる」記述を、ほとんどじらされるように、しかし一歩ずつ 「わかり」ながら読み進めた先だからこそ、その先で「くつろいだ」は、初めて出会う唐突さと無根拠として印象づけられる。
 それだけならば、理解 を重ねた先でなお出会う"コミュニケーション不能な他者"のようなものに見えるかもしれない。だが、その「くつろぎ」がなぜ訪れたのかは、すぐ次の文で 「そこからぜんぶをやりなおせるとかんじることのこのうえない軽さ」として説明される。加えて、そこで「やりなおせる」と感じた「ぜんぶ」がどのようなも のだったかという"子と親との物語"が、ここから先の全編を費やして語られるのだとすれば(事実、そうも読める)『abさんご』は、読者に冒頭いきなり疑 問を抱かせる攻撃性=ツンを、その後百枚をかけて解決してゆく、きわめて好意的=デレな小説なのだと読んでもよいのだし、そのようなデレは、冒頭のツンを きちんと受け止めることや、物語全体の「読みがたさ」を流し読みによって解決するのではなくひとことずつを丁寧に読んでいくことによって、初めて見出すこ とができるはずだ。
 そうして、そのような行為こそがまさに、未知のものを「読む」ことにほかならない。それは、「泣ける」と帯に書かれた物語を 読んで泣くとか、「あるある」が保証された物語を読んで予定調和的に安堵(あんど)するといった、一見「読んでいる」ように見えてそのじつ自分や自分の属 する社会の惰性や慣習を確認する行為と、真逆(まぎゃく)のものなのだ。
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 そのようにして未知のものを「読む」とき、むろん、 その読み方に「正解」も「不正解」もない(だから、そのように読んだ先で泣いたり「あるある」と発見することは、ありうることだ。もちろんまったく別の読 み方でもいい)。著者はしばしば、インタヴューなどで「自由に読んでいただければ」と言う。それは、もちろん文字通りの「自由」であると同時に、しかし、 一作に十年近くをかけるという彼女の磨きに磨いた言葉の運動につきあった先で(「読む」行為こそが、それに「つきあう」ことだ)はじめて訪れる自由であ り、解放である……ほら、ツンデレでしょう?
 もちろん、最後にデレが待っていないとツンデレは成立しない。だが、たとえば芥川賞の選評で、選考 委員のひとり宮本輝が、「二度も読む気になれないにもかかわらず、なにかしら心に残るものがあって、結局、私は三回読み返した」ところ、「彼等の住む家 と、三十年余に及ぶ時間」が見えてきて「夢のなかの確かな皮膚感覚として心のどこかで長くたゆたう」ことに気づいたと書くとき、彼もまた、ツンデレさんご に魅入られたひとりに違いない。ゆっくりと、驚きを手放さずに読み進んだとき、なまじの「感動大作」よりもはるかに情趣に満ちて心に響く物語が浮かび上 がってくるだろうことは、この作品を新人賞の応募作として最初に読んだぼくも、保証する。
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 もちろん、そうした読み方すらも、 唯一の正解でなどないのが、『abさんご』のおもしろいところだ。語り手が誰なのか、いちおうの主人公とおぼしき「子」が男か女かすら、読みようによって 違って見えてくる。そう思えば、「史上最年長」だの「芥川賞」だのと、いかにも宣伝めいた文句の言われた百にちほどで読み終えたり、まして読みやめてしま うのはもったいない。ああ読んだ、こう読んだ、とくちぐちに言われることが(ほんとうは『abさんご』に限らず、あらゆる小説にとって)いちばんなのだ し、それに向いた作品だからこそ『abさんご』の電子書籍版は、紙をそのままデータに落とすだけではちょっともったいない。たとえば「ニコニコ静画」(ニ ワンゴ)のように、読んだひとがどんどんコメントや解釈を書き込んでいけるプラットホームに『abさんご』があったなら、「泣いた」「笑った」「今年一 番」のようにあってもなくても同じなコメントでもどこに書き込まれるかがまるで違ってくる以上、そこには常に意外性と創造性がありうるはずだ。
  『abさんご』の最初のバージョンが書き上げられたのは、じつは(これもすでに著者が公表していることだが)いまから20年前の1993年のことだとい う。書き始められたのはさらに数年前だというのだから、いまぼくたちが目にしているのは、いわば"25年かけて届いた星の光"のようなものだ。それをある 種のノスタルジーとして捉えるか、それとも四半世紀を経て日本の文化がようやくこの作品を受容できたと捉えるかもまた、読む者の自由であっていいと思う。 ただ、それが遠い星の光である以上は、ぼくたちがどんな解釈をしどう読もうとも、作品は変わらずそこに輝いている。そのことこそがきっと、『abさんご』 という小説の最大の魅力なのだ。

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