2013年4月20日土曜日

asahi shohyo 書評

学力と階層 [著]苅谷剛彦

[評者]大澤真幸(社会学者)

[掲載] 2013年04月19日

表紙画像 著者:苅谷剛彦  出版社:朝日新聞出版 価格:¥ 777

電子書籍で購入する

■野口英世は貧困でもがんばれたけど……

 野口英世は、日本人ならば誰でも知っている立志伝中 の人物、偉人の中の偉人である。非常な貧困と幼児期の怪我(けが)という二つの困難を、異様な努力によって克服し、単身アメリカに渡って世界的な医学者に なり、ノーベル賞受賞の一歩手前まで行った。当時、野口は、梅毒、ポリオ、狂犬病、黄熱病など多数の病原菌の正体をつきとめたとされ、パスツールやコッホ 以来の、医学界のスーパースターともてはやされた。
 もっとも、パスツールやコッホと違って、世界的には、野口は現在では完全に忘れ去られた学者 である。彼の研究は、ほとんど間違いであったことが今ではわかっている。イザベル・プレセットの評伝によると、当時その間違いに誰も気づかなかったのは、 野口のパトロンがサイモン・フレクスナーという超大物だったからだ。福岡伸一さんの『生物と無生物のあいだ』は「Hideyo Noguchi」の胸像の 話から始まる。その胸像は、ロックフェラー大学の図書館2階にあるのだが、その胸像が何者であるかを知っているアメリカ人はほとんどいない、と。
 ともかく、日本人にとって野口英世は今でもスーパースターである。その証拠に、千円札の肖像画が彼である。野口英世の伝記は、主に小学生のとき(ほとんど小学生のときだけ)に読んだり、聞かされたりする。野口が教育や学問にかかわる英雄だからだ。
  野口英世について、われわれは次のように考える。彼はたいへん貧困だった「にもかかわらず」がんばった。彼にもう少しお金があれば、もっと楽に出世の階段 を上っていけただろう。さらに言えば、ほんとうはどこかに第二、第三の野口がいたのに、貧困のせいで這(は)い上がることができず、そのまま埋もれてし まったのかもしれない。
 そこでどうするか。学費を安くできるような制度や法律を整えるとか、奨学金の制度を充実させるとか、といった教育の改革 がなされるだろう。このような改革は、次のようなことが前提の上に立っている。「学ぶことへの意欲」とか「努力する能力」のようなものは誰にでも同じよう にある。だから、学ぶための環境さえ整えてやれば、生徒は自然とがんばるはずだ。それで学力に差が出たとしたら、それは自己責任の問題だ、ということにな る。

*学ぶことへの意欲に階層格差

 教育社会学者の苅谷剛彦さんは、本書『学力と階層』の中に収めた論文で、この前提が 完全に間違っている、ということを実証してみせた。学ぶことへの意欲、学びにむけての構えや態度、学習能力、学習へのスキル、こういったところにまず格差 があるのだ。その格差は生まれ育つ家庭環境、つまり社会階層に強く規定されている。学習の結果(学力)の前に、学習能力のところで階層の格差が影響してい るのである。現代社会では、貧困家庭で育った子どもには野口英世がもっていた野心、何としてでも成功しようというあの強烈な野心がないだろう。
  学ぶことへの意欲を含む学習能力のことを、本書は「学習資本」と呼んでいる。それぞれの人の学習資本に、階層に規定された格差がある、というわけである。 苅谷さんの別の著書『階層化日本と教育危機』では「インセンティヴ・ディバイド(意欲格差)」という語が用いられていたが、本書では、この語はあまり使わ れていない。
 学ぶことへの意欲や学習能力の違いに、社会階層が影響を与えている。これは非常に重要な発見である(ちなみに、本書の巻末に、内田樹さんが文章を寄せており、この発見の意義をわかりやすく解説している)。二つのことを指摘しておこう。
  第一に、これまでの教育改革はすべて、学ぶことへの意欲とか学習能力などは、平等に配分されていることを前提にしてなされてきた。この前提に基づいて、教 師が上から押し付ける教育を減らし、生徒が自発的に学ぶ能力を解放するような教育を推進すれば、生徒の間の学力の格差は小さくなるはずだ、と想定されてい たのだ。しかし、もし学習能力のところでもともと格差があるのであれば、こうした教育の改革は、生徒の間の格差を逆に大きくするはずだ。実際、苅谷さんが 調査したところによると、近年の新しい教育は、もともとからあった階層による格差を拡大するように作用している。
 第二に、この問題は学校教育の 中だけではなく、学校の外部に広がる社会、学校を卒業した後の人生においてより効いてくる。現代社会で成功するためには、学校を卒業するまでに蓄積した学 力だけでは不十分だ。激しく変化する社会環境の中で、絶えず学び続けなくてはならない。ということは、学習能力における格差は、学校を卒業した後の人生を 規定してしまうのだ。苅谷さんは、学習能力とその成果である人的資本形成が、社会編成の要となる社会を「学習資本主義」と呼んでいる。学習資本主義は文化 的な階層を拡大し、固定することになるだろう。

*統計学のための老婆心的注釈

 本書の最も重要な創見は、数量的な社会調 査による実証研究から導かれている。一番めんどうな部分でも、大学で社会調査法や初歩的な統計学を勉強したことがある人にとっては、難なく読むことができ るのだが、そうした勉強は誰もがやってきたわけではない。その数理統計の部分で、「難しそう」と感じて読書を放棄してしまうと肝心な含意を理解できなく なってしまうので、ここで老婆心的な解説を付けておく。統計学や社会調査の知識がある人は、この項は読み飛ばしてもかまわない。
 たとえば、最も 大事な部分で「重回帰分析」という手法が使われている。統計学になじみがない人には、いかにも難しそうな名前だが、あることY(たとえば学習意欲)が、互 いに独立の複数の原因、X1(文化階層が上位かどうか)、X2(父親の学歴)、X3(塾に通っているか)……によって規定されているのではないか、と考え られるときに、それぞれの原因が結果にどのくらい影響を与えているかを統計データから推定するのが、重回帰分析である。
 とても一般的な手法だ。原因(独立変数)X1、X2、X3と結果Y(従属変数)の間には、中学生でも理解できる次のような一次方程式の関係がある。
 「Y=aX1+bX2+cX3+d」
 X1、X2、X3という各変数についている係数a、b、cが、それぞれの原因がどのくらい効いているかを示している。この係数の値がどのくらいになるのかを決定するのが重回帰分析である。うしろに付いているdはX1、X2、X3の三つ以外の未知の原因の分である。
  ここでaが大きければ、X1が大きく影響しているということなのだが、少しだけ注意が必要だ。この係数aの大きさは、X1やYの目盛りの取り方でいかよう にもなる。だから、数字だけ聞いたのでは、それがbやcと比べて大きいのか小さいのかわからない(隣町までの距離が500だと言われても、それが500m なのか500kmなのかわからなくては遠いのか近いのかわからないのと同じである)。そこで、すべての変数の「分散」が1になるように調整する。これを 「係数の標準化」と呼ぶ。
 たとえば、本書のあるページの表に、こんなことが書いてある。中2の「新学力観型授業への関与」Yの度合いについて重回帰分析したところ、「文化階層上位(かどうか)」という変数Xについて次のような結果が出た、と。
 「非標準化係数0.415 標準誤差0.116 標準化係数0.116」
  非標準化係数というのは、上の一次方程式の係数aにあたるものだ。標準誤差というのは、この方程式で導かれる理論上の値と実際のデータの間にどのくらい違 いがあったか、実際のデータが理論上の値の周りにどのくらい散らばっていたかということを示している。そして標準化係数は、今述べたように、変数の分散を 1にしたときの係数ということだ。
 この分析について、「p<0.01」と書いてある。これは次のような意味である。まず、重回帰分析の結果を見 ると、標準化係数が0.116である。この数字は、「新学力観型授業に積極的に取り組む態度があるかどうか」ということに関して「しつけがきちんとできて いるような文化階層の上位の家庭で育ったかどうか」ということが、そこそこ影響を与えているということを示しているように思える。しかし、調査はすべての 中学2年生に対して行ったわけではない。一部の中2、このケースでは千人程度の生徒のデータしかない。この千人をもとにした結果が、全国の中2生に対して も成り立つかどうかはわからない。たまたま偏ったタイプの生徒がいて、文化階層の影響が出てきたのかもしれない。
 「p<0.01」というのは、 そのようなサンプルの偶然の偏りによってこの結果が出た確率は1%未満である、ということを示している。つまり、千人程度のデータから推定したことは 99.9%、全体についても成り立つ。ということは、この調査結果はかなり信頼できる、ということになる。
 他に、ロジスティック回帰分析という 手法が出てくる。これは重回帰分析の延長上にあるやり方で、従属変数Yの部分が量的変数ではなく、質的変数である場合に使う。たとえば、テストの点数など は量的変数である。しかし「合格水準以上か未満か」「男か女か」などということは、数量的な違いではないので「質的変数」という。
 もう一つ、知 らないと戸惑う用語は「ダミー変数」。社会調査に関連した報告書や論文には頻繁に使われる。統計的に処理するとき、性別とか職業とか国籍とかを分類するた めに、これらに数字を対応させる。男は0、女は1とか、である。しかし、これらは単に分類上の便宜のために使われている数字であり、数字の本来の意味はな い。だから「ダミー」と言われるのだ。
 このくらいの知識があれば、本書の数量解析の部分も挫折せずに読めるだろう。

*二つの外在的コメント

 苅谷さんのこの本の成果をさらに発展させてもらうために、二つほど外在的なコメントを付けておく。
  第一に、私が気になっているのは、つい最近(2013年3月)公表された調査結果、朝日新聞社とベネッセが協力して実施した小中学校保護者意識調査の結果 が示していることである。この調査によると、「所得の高い家庭の子どもがよりよい教育を受ける傾向がある」ことは「やむをえない」と容認している親が半分 以上いる(52.8%)。08年の調査では、このような親は4割程度だったので、大幅な増加である。
 本書の苅谷さんの研究によると、われわれが あまり気づいていないところでも、階層差が効いている。それでも、多くの人は、家庭の階層差が生徒の教育成果に影響を与えるのはよくないことだ、と考えて いた。たとえ十分に有効な対策がとられていなかったとしても、とにかく、こうした平等への指向性は広く支持されていた。しかし、格差を容認してしまうとど うなるだろうか。われわれが「そこまでは許せる」と暗黙のうちに想定していた水準をはるかに超えて、生徒の学力や学ぶ意欲の格差は大きくなるだろう。
  第二に、いわゆる「スクールカースト」との関連である。本書で論じている「階層」は、学校の外に広がる社会における、家庭の収入や職業に基づくランクであ る。この「階層」は、学校にとっては「外部環境」である。それに対して、今日では、生徒たちの間で自然発生した生徒の間の階層化がある。これを、「スクー ルカースト」などと呼ぶらしい。「上/中/下」とカーストがあり、生徒たちは、これを明確に自覚している。このランクは、主として生徒たちの間での人気や 異性に「モテるかどうか」といったことで決まり、学力との関係は希薄である(鈴木翔、本田由紀の著書『教室内(スクール)カースト』によると、下の生徒の 成績がほんの少しだけ低い傾向があるが、上と中の間には、ほとんど学力差はない)。
 おそらく現在の中学生や高校生にとっては、学力に関して自分 がどの順位にいるかということよりも、スクールカーストの中での自分のポジションの方がより重要だ。私が知りたいのは、この学校内の階層(スクールカース ト)と社会一般における階層との間の関係である。社会階層と学力との間には強い関係があることは知られている。さらに苅谷さんによれば、学力を規定する意 欲や学習能力も、生徒の家庭がどの社会階層に属しているのか、つまりどの社会階層に属する家庭の中で生まれ育ってきたのかということに関係している。それ では、スクールカーストはどうだろうか。今後の研究を待ちたいところだ。

この記事に関する関連書籍

学力と階層

著者:苅谷剛彦/ 出版社:朝日新聞出版/ 価格:¥777/ 発売時期: 2012年08月

☆☆☆☆☆ マイ本棚登録(2 レビュー(0 書評・記事 (2


学力と階層

著者:苅谷剛彦/ 出版社:朝日新聞出版/ 価格:¥---/ 発売時期: ---

☆☆☆☆☆ マイ本棚登録(0 レビュー(0 書評・記事 (1


学力と階層 - 教育の綻びをどう修正するか

著者:苅谷剛彦/ 出版社:朝日新聞出版/ 価格:¥---/ 発売時期: ---

☆☆☆☆☆ マイ本棚登録(0 レビュー(0 書評・記事 (1


学力と階層

著者:苅谷剛彦/ 出版社:朝日新聞出版/ 価格:¥---/ 発売時期: ---

☆☆☆☆☆ マイ本棚登録(0 レビュー(0 書評・記事 (1


学力と階層 教育の綻びをどう修正するか

著者:苅谷剛彦/ 出版社:朝日新聞出版/ 価格:¥1,890/ 発売時期: 2008年12月

☆☆☆☆☆ マイ本棚登録(1 レビュー(0 書評・記事 (2


階層化日本と教育危機 不平等再生産から意欲格差社会へ

著者:苅谷剛彦/ 出版社:有信堂高文社/ 価格:¥3,990/ 発売時期: 2001年07月

☆☆☆☆☆ マイ本棚登録(0 レビュー(0 書評・記事 (1


教育と平等 大衆教育社会はいかに生成したか

著者:苅谷剛彦/ 出版社:中央公論新社/ 価格:¥882/ 発売時期: 2009年06月

☆☆☆☆☆ マイ本棚登録(1 レビュー(0 書評・記事 (0


教育再生の迷走

著者:苅谷剛彦/ 出版社:筑摩書房/ 価格:¥1,680/ 発売時期: 2008年11月

☆☆☆☆☆ マイ本棚登録(0 レビュー(0 書評・記事 (0


学校って何だろう 教育の社会学入門

著者:苅谷剛彦/ 出版社:筑摩書房/ 価格:¥735/ 発売時期: 2005年12月

☆☆☆☆☆ マイ本棚登録(2 レビュー(1 書評・記事 (0


教育の世紀 学び、教える思想

著者:苅谷剛彦/ 出版社:弘文堂/ 価格:¥2,625/ 発売時期: 2004年12月

☆☆☆☆☆ マイ本棚登録(0 レビュー(0 書評・記事 (0


なぜ教育論争は不毛なのか 学力論争を超えて

著者:苅谷剛彦/ 出版社:中央公論新社/ 価格:¥798/ 発売時期: 2003年05月

☆☆☆☆☆ マイ本棚登録(0 レビュー(0 書評・記事 (0


グローバル化時代の大学論 1 アメリカの大学・ニッポンの大学 TA、シラバス、授業評価

著者:苅谷剛彦/ 出版社:中央公論新社/ 価格:¥882/ 発売時期: 2012年09月

☆☆☆☆☆ マイ本棚登録(1 レビュー(0 書評・記事 (0


杉並区立「和田中」の学校改革 検証 地方分権化時代の教育改革

著者:苅谷剛彦、清水睦美、藤田武志/ 出版社:岩波書店/ 価格:¥609/ 発売時期: 2008年09月

☆☆☆☆☆ マイ本棚登録(0 レビュー(0 書評・記事 (2


大卒就職の社会学 データからみる変化

著者:苅谷剛彦、本田由紀/ 出版社:東京大学出版会/ 価格:¥3,360/ 発売時期: 2010年03月

☆☆☆☆☆ マイ本棚登録(0 レビュー(0 書評・記事 (1



教室内(スクール)カースト

著者:鈴木翔、本田由紀/ 出版社:光文社/ 価格:¥882/ 発売時期: 2012年12月

☆☆☆☆☆ マイ本棚登録(13 レビュー(2 書評・記事 (3





0 件のコメント: