2013年02月11日
『文学フシギ帖』池内紀(岩波新書)
「作家の「フシギ」満載の楽しい一時」
本好きの者にとって、楽しい一冊だ。池内紀はドイツ文学者だが、エッセイストとしての方が名が通っている。エスプリの利いた、軽妙洒脱な文を書くが、 この『文学フシギ帖』には彼の文学的趣味が存分に生かされている。北海道新聞に連載されたものに修正を加えて「─日本の文学百年を読む」という副題をつけ て出版された。短いエッセイの集まりにしては、大きな副題だが、読んでいくと結構納得できる。明治から現代への流れが、しかも、私たちが文学史などで習う ものとは違った流れが感じられるからだ。「はじめに」で池内は「この『文学フシギ帖』は、いつのころからかフシギをつくり出す研鑽にはげんできた人物の覚え帖である。」と述べている。 「不思議」という言葉に不思議はない。しかし「フシギ」には不思議がある。聴覚では捉えられない、書かれて初めて分かる、言霊の持つ微妙な違和感が、私た ちに何かを期待させてくれる。エッセイのタイトルを見るとその期待は更に高まる。「鷗外と高利貸」、「杢太郎のエロス」、「藤村と道化役」、「宮沢賢治の 広告チラシ」・・・何とも興味をひかれる題が多い。
今では読む人も少ないであろうと思われる作家たち、田澤稲舟、中里介山、平野万里、尾形亀之助、織田作之助、梅崎春生などが取り上げられているの も面白い。また、皆が良く知っている作家たちの、余り知られていないエピソードが楽しく、作家像の奥行きが出てくる。例えば、夏目漱石に「吾輩は狸であ る」という作があるらしい。何と『吾輩は猫である』と同時期に書かれているという。本当のタイトルは『琴のそら音』というらしいが、事実を知らない私たち は池内狸に化かされているような気になってくる。
「高村光太郎の贖罪」では、『智恵子抄』の「抄」にこだわる。何故光太郎がわざわざタイトルに「抄」をつけたのか。光太郎と親しかった詩人の草野 心平は「智恵子の『凶暴性を発揮した場合』の詩がないのを惜しん」だ。もしそれがあれば「更に残酷で凄烈な美」を加えたからだという。光太郎は智恵子と自 分の日常に「狂気をもたらした何かのあることをよく知っていたのではあるまいか。」と池内は考える。「その贖罪の意識が哀しく美しいアイドル的智恵子をつ くり上げた。」のではないかと。光太郎の心の襞に一歩近づけたような気がする。
得意の池内流エスプリも充分に利いている。「ダメ男、尾形亀之助」では、尾形のダメ男ぶりを述べながらも、日本が「息あらく軍国主義へと駆け出し ていた時代」に、彼が詩の中で為政者を風刺しているのを見て「そこに語られているのは、文明によって文明が脅かされることのオカシサであり、『人のゐない 街』は、ひたすらケータイに見入っている人たちの住む街とも、ぴったりかさなるだろう。このダメ男の詩は時代をするどく洞察して、予見性にあふれてい る。」と喝破する。
全部で53名の作家が取り上げられているが、人口に膾炙した作品のみならず、日記や書簡等を読み込まないと分からない知識を惜しげもなく披露して くれるのは嬉しいことだ。また、現代作家の選び方には脱帽だ。池波正太郎、三島由紀夫、渋澤龍彦、手塚治虫、須賀敦子、開高健、寺山修司、村上春樹。何と も本好きの琴線に触れる選択である。作家も人間であるという、当たり前のことをしっかりと教えてくれる作品だといえる。
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