国の死に方 [著]片山杜秀
[文]長薗安浩 [掲載]2013年02月08日
■この日本を"そんなに死なせたいのか"
2011年3月11日以降に顕わになった日本の根深い問題──原発、ポピュリズム政治と官僚組織の弊害、終わりの見えない不況、東京と東北の関係性などと向きあうとき、私たちは何を手がかりに考えればいいのか。
いろいろな視座がある中、片山杜秀は過去、つまり歴史を重視した。〈現在から想起される過去について書くことで、現在を思う糧(かて)が得られるように〉 明治から太平洋戦争前後までの日本の政治史を精察し、この国がかかえる病巣の特質を明らかにしようと試みたのが、『国の死に方』だ。
たとえば第 一章を読めば、どうして権力は低きに流れて官僚支配がはじまるかよくわかる。それを防いで独裁者となったヒットラーの手法が第二章で紹介され、第三章では 明治憲法がかかえた権力者の生まれない構造について知る。第九章にはようやく実施された普通選挙がいかに気分に左右されたか書かれている。その後は、米作 にまつわる東北の苦悩とテロ事件の関係や映画『ゴジラ』が象徴する〈死に体政治に未曾有の国難が迫る〉状況が解説され、敗戦後の国体論の歪みに言及してい く。
誰が最初に言ったかは知らないが、歴史はくり返すらしい。そうならば、現況をどう受けとめ、どこへ向かって行けばいいか迷ってしまったとき、片山がここにまとめた歴史は現在の鏡となる。この本は、不吉な予感とともに打開の種を与えてくれる鏡の書だ。
なお片山は、最終章で里見岸雄という思想家が説いた国体の核心、〈端的に言えば犠牲を強いるシステム〉を取り上げ、こう結んでいる。
〈犠牲社会とは縁を切った国、どんな過酷な事態に至っても誰ひとりにも捨て身の対応を命じられない国、しかも世界に冠たる地震大国が、国中を原子力発電所だらけにしてしまった。そんなに国を死なせたいのか〉
奇妙なタイトルにこめた片山の烈しい思いが伝わってくる。
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