2013年2月21日木曜日

asahi shohyo 書評

エロス、女だって語りたい SNSが「本音」解放

[文]江戸川夏樹、佐藤美鈴  [掲載]2013年02月21日

表紙画像 著者:蛭田亜紗子  出版社:新潮社 価格:¥ 515

電子書籍で購入する

 女性が「性」を真剣に見つめ始めている。タブー視される傾向にあった女性のためのエロスが、ネットや書籍で本音で語られるようになってきた。背景を探った。
■文学賞が活況
 新潮社の女性編集者によって2002年にスタートした公募新人賞「女による女のためのR—18文学賞」。第12回の今年度は前回より約100作多い、821の応募作が集まった。
 今月2日には、過去の受賞作を映画化した「自縄自縛の私」(竹中直人監督)が公開された。認知度も年々高まっており、応募者も中学生から80代までと幅広い。事務局の西麻沙子さんは「官能や性のタブーが薄まり、生活や風景の一つになった」という。
 エロスが秘め事ではなくなってきたのはなぜか。「本音を語りやすい社会になったからだと思います」と週刊誌an・an(マガジンハウス)の熊井昌広編集長は分析する。
 an・anは毎年1回、20年以上、セックス特集を企画してきた。昨年は歴代2位、通常の4倍となる80万部を売り上げた。
  「ツイッターやブログ、SNSで女性の社会的発信力が強まっている。そこで語りたいのは『本音』。本音と建前の象徴ともいえるエロスに注目が集まるのは自 然の流れです」 長年タブー視されてきただけに根強い抵抗感もある。「ただ、男性には許されてきたエロスを、女性も楽しんでいるというだけ。男女間のバラ ンスがよくなるのはいいことではないでしょうか」

この記事に関する関連書籍

自縄自縛の私

著者:蛭田亜紗子/ 出版社:新潮社/ 価格:¥515/ 発売時期: 2012年11月

☆☆☆☆☆ マイ本棚登録(0 レビュー(0 書評・記事 (1





2013年2月19日火曜日

asahi shohyo 書評

明日の友を数えれば [著]常盤新平

[文]西條博子  [掲載]2013年02月22日

表紙画像 著者:常盤新平  出版社:幻戯書房 価格:¥ 2,625

 先月、81歳で逝去した直木賞作家のエッセイ集。昔なつかしい喫茶店や場末を好む著者が、およそ10年にわたる、老いとつきあう、のどかだが忘れ難い日々を描いた。
  荒川沿いの団地に住んでいたころ、通う喫茶店があり、扉の下から桜の花びらがまぎれこんでいた。先のラブホテルの前の桜を風が散らしていたのだ。当時、都 心に借りていた仕事場の前にも桜並木があり、着物姿で見あげていた老女の営む喫茶店に出入りした。その彼女は看取る人もなく亡くなる。いつのまにか仕事場 のベランダには咲きほこった桜の枝が伸びてきており、その濃厚な匂いを嗅ぎつつ、著者は桜の美しさを体で覚えたように感じる。
 居酒屋で打ち解けた男性は、アラブの馬を2、3頭持っていたが、得た金は酒と女に消えたという。金はうなるほどあるという噂だったが、ふとした拍子に6回の結婚と離婚を聞かされた……。
 肩肘張らないなかの幸せ。「つつましい喫茶店がある街はいい街だ。街の暖かさ、街の誇りだと私は思ってきた」の一文に、温もりが生きている。

この記事に関する関連書籍

明日の友を数えれば

著者:常盤新平/ 出版社:幻戯書房/ 価格:¥2,625/ 発売時期: 2012年11月

☆☆☆☆☆ マイ本棚登録(0 レビュー(0 書評・記事 (1






kinokuniya shohyo 書評

2013年02月16日

『戦争の技術』マキァヴェッリ(筑摩書房)

戦争の技術 →bookwebで購入

「徴兵制のルネサンス」

 ちくま学芸文庫は、玉石混淆の気味はあるものの、相変わらず健闘している。たとえば、二年前の2011年3月10日に出た、マキァヴェッリ『ディスコル シ——「ローマ史」論』。3・11大震災のあおりでそれほど注目されなかったが、国家論の古典新訳が700頁超の大冊として文庫化されたのは、一昔前の 『マキァヴェッリ全集』刊行に続く、慶賀すべき事件であった。そうこうするうちに、昨年夏、今度は『戦争の技術』が文庫になった。遅まきながら読んでみる と、これが無類に面白い。
 ニッコロ・マキァヴェッリ(1469-1527)と言えば、為政者にとって政略は善悪の彼岸にあると説いた『君主論』がまず思い浮かぶ。だが、古代ロー マの政治的英知を調べ上げ、それが同時代に資することを明らかにした『ディスコルシ』(世界の名著版旧訳では『政略論』)にこそ、共和主義者マキァヴェッ リの真骨頂があることは、この書を繙けば明らかである。だが彼には、もう一つ国家論の労作があった。それが『戦争の技術』(1520年刊)である。マキァ ヴェッリの「著作としては生前唯一の出版物」だという(訳者解説、298頁)。

 これも今回初めて知ったが、『戦争の技術(Dell' arte della guerra)』の邦訳はこれまで、筑摩全集版を除いて、三種類もあった。書名は、『兵法論』『戦争の技法』『戦術論』と訳されている。つまり、兵法や戦 術を伝授する実践書として関心をもたれてきたようだ。私も半ばそういう印象を抱きながら手にとって読み始めたが、第一巻を読み進めるにつれ、そこに政治哲 学上の容易ならざる大問題が正面から論じられていることに気づいた。かくて、著者が近代国家論の父祖の一人であることを再認識させられたのである。
 その大問題とは何か。国家にとっての軍隊の意義である。近代における「国民=国家(nation-state)」の成立には「国民軍」の組織化が不可欠 であり、そのことを理論上かつ実践上、先駆的に示してみせたのがマキァヴェッリだった。古代の軍制や戦史に関する並外れた教養にもとづく、「市民軍制」 (31頁)のルネサンスの書がここにある。

 古典というのは率直な物言いをするものだと、いつも感心する。マキァヴェッリはこの対話篇の中で、プラトンの作品で言えばソクラテスに当たるファ ブリツィオに、「職業軍人という仕事には何の価値もない」(23頁)という信念を披瀝させている。古代ローマ盛期には「戦争を稼業とする兵士などいなかっ た」(26頁)、平時に「兵士どもを居座らせる」など「腐敗」(31頁)だ、と。軍人は栄えある職業だと信じていた対話者コジモは、それと真逆を述べ立て るファブリツィオの議論に驚いている。当時の読者も同じだったろう。
 とはいえ、反戦平和主義が常識化している現代日本の読者なら、職業軍人や常備軍に対する批判は、さして驚きではなく、むしろ受け入れやすいはずである。 これに対し、ファブリツィオが自説として展開している議論には、反発を覚えこそすれ、賛同はしにくいと思われる。なぜならそこでは、徴兵制を確立すべしと 説かれているからである。徴兵制にもとづく国民軍制こそ国家の礎なり——これが『戦争の技術』の基本主張なのである。

 1945年の敗戦以後、日本に「軍隊」は存在しないことになっている。当然、徴兵制もない。かれこれ70年近く平和を謳歌してきた日本人の大多数 は、徴兵制の復活に同意しないだろう。軍国主義を想起させる「体罰」は絶対悪と決めつけられ、それに少しでも容喙しようものなら、集中砲火を浴びるほどで ある。その一方で、一部の人びとの間に、徴兵制へのノスタルジーは根強い。隣国の若者は入隊して身心ともに鍛えられるというのに日本の若者は軟弱だ、ここ は軍隊でしごいてもらったほうがいい、と言う人もいる。
 では、その「徴兵制」とはそもそも何か。この点に関しては、はかばかしい議論はない。まさにその議論を、マキァヴェッリはしてくれている。「いざ戦争と いう際には祖国への愛にかけて馳せ参じ、その後和平が戻れば喜んで家に帰るような人びとからなる自前の歩兵団」(29頁)を組織するための召集システム が、「市民徴兵制度」(56頁)であり、これぞ為政の要だ、と言うのである。他国から兵士を雇い入れるのでも、他国の庇護の下に甘んずるのでもなく、「そ こに住む人びと自身が武器を手にして自国を守ろうとしなければ」(42頁)、一国はそもそも体をなさない。言い換えれば、そうした「国民軍制」を備えた政 体こそ、マキァヴェッリの言う「国家(スタート)」にほかならない。

 マキァヴェッリは、ルネサンス教養人として「古代の制度」(31頁)に倣い、市民軍制の復活を目論んだ。「古代人のやり方を現在の戦争に導入する ことがいかに困難か」(33頁)を自覚したうえで。このフィレンツェ共和国書記官は、軍制改革に着手し、実際に市民軍制を創設したのである。しかも、その 市民軍がスペイン傭兵軍に大敗し共和政は瓦解、みずからも職を失うという憂き目に遭った(1512年)。そうした経験をくぐり抜け、古代徴兵制の復活をな お希望として掲げるのが、『戦争の技術』なのである。
 マキァヴェッリの敷いたフィレンツェ市民軍制——コジモの言う「われわれの徴兵制度」(50頁)——が、「一度敗れたからと言って、これを無益だと思う 必要はない」(41頁)。熟練兵でなくイヤイヤながら従軍しているので役立たずだ、とか、軍の統括者が国を奪うかもしれず内乱の危険がある、とか、当時さ んざん難癖をつけられたようだが、マキァヴェッリの信念は寸毫も揺るがない。市民自身が戦士として国を守るのが最善だということは、「古代の歴史がことご とく例示している」(40頁)。
 当時、この考え方は時代に先駆けすぎて浸透しなかったが、その後次第に、とくにフランス革命と国民国家の成立以後、いわば「国民の、国民による、国民の ための」軍隊が、近代のスタンダードとなってゆく。祖国防衛に馳せ参ずる「志願兵・義勇兵(volunteers)」こそ、国民の鑑だとされる時代がやっ てきたのである。その場合、注意すべきは、国民平等の原則から、「国民皆兵」が必然的に帰結することである。「市民イコール戦士」という古代の観念が、近 代の平等主義と掛け合わされるとき、「戦争の前での万人平等」が成立する。その先には、「総力戦」そして「殲滅戦争」の時代が待っている。
 「階級制度とは他でもなく、その都市の防衛にあたって即座に軍隊を結成するための軍制だ」(44頁)とするマキァヴェッリに、おそらく近代平等主義は予 感されていなかった。だが、「強制だけでも自発だけでもない中間の道」(40頁)による、「多数の人間」(33頁)からなる国民軍の編制を、明確に志向し ているかぎりにおいて、『戦争の技術』は、近代国民国家の水平的構成原理を予言していたのである。紀元前の市民=戦士階級と二十世紀の国家総動員態勢とを つなぐ位置に、マキァヴェッリは立っていた。
 マキァヴェッリの軍制論は、国民国家の枠組では、正論である。国民国家とは、国民軍を擁する政体だと規定できるほどである。たとえばカントは、平和主義 宣言として好んで引き合いに出される『永遠平和のために』(1795年刊)の「常備軍は、時とともに全廃されなければならない」という有名な条項を説明す るさい、「国民が自発的に一定期間にわたって武器使用を練習し、自分や祖国を外からの攻撃に対して防備すること」を、あっさり是認している(宇都宮芳明 訳、岩波文庫、17頁)。マキァヴェッリの考えと同じである。
 国民軍をもたない独立国家はどこまで可能か。——これが、世界史的に見ていまだ実験段階にあることを、われわれは肝に銘ずる必要がある。反戦平和の誓い が、敗戦によって属州に組み込まれ占領軍がいまだ駐留中の隷従状態とどう違うかを、絶えず自問する必要もあろう。再武装や原子力政策も、本国の指令待ちと いうのが現状ではないか。
 それとはまた別に、今日、徴兵制のない国でも「義勇兵」精神を重んずる国民感情は、しぶとく生き延びていることが分かる。「戦地」へと自発的に赴く志願者のことを、近代はフランス革命以来、「ボランティア」と呼んで讃美してきたのであった。

 以上、『戦争の技術』の第一巻を紹介してきたが、本書は続けて、歩兵vs騎兵、隊列の編制、会戦の戦術、宿営の仕方、城塞の攻防と、さまざまな兵 法を扱っている。なかでも、指揮官の心得とされる権謀術数の教えが興味深い。「巧妙に敵の軍勢を分断」すべく、「敵勢が信頼を寄せる参謀たちに嫌疑がかか るように仕向ける」、たとえば、「その息子たちやかけがえのない人びとは身代金を取らずに返す」(227頁)。また、「一部の敵兵の故郷を攻撃」すれば、 彼らは「郷里の防衛に走らざるを得ず、戦線離脱とあいなる」(228頁)。逆に、「敵方を絶望の極限に追い込まぬよう注意しなければならない」(233 頁)。
 もう一つ考えさせられたのは、「大砲」という新しい軍事技術をどう意義づけるかである。当時すでに、「古代の軍隊の武器や編制」の「すべてが大砲の威力 の前には無駄だ」(126頁)とする議論が横行していた。大砲というテクノロジーが戦争を変えたとする「近代派」に、「古代派」マキァヴェッリは敢然と異 を唱える。「わたしの考えからすると、大砲は、古代のさまざまなやり方を用いたり、古代の力量を露わにするのを妨げるものではない」(132頁)。軍事テ クノロジーをめぐって、「新旧論争」が早々と戦わされたのである。
 この論争は、二十世紀に核兵器が出現したことで、蒸し返されるに至った。ただし問題は、人類が絶滅手段を手に入れた現代、そもそも戦争に意味などあるの か、という問いへと変形された。そういう時代に、徴兵制について、ひいては国民国家について、なお語ることに、どれほどの意味があるのか。われわれはそう 問わざるをえないのである。


→bookwebで購入

Posted by 森一郎 at 2013年02月16日 18:25 | Category : 法律/政治/国際関係





2013年2月17日日曜日

kinokuniya shohyo 書評

2013年02月14日

『錯覚学 — 知覚の謎を解く』一川誠(集英社新書)

錯覚学 — 知覚の謎を解く →bookwebで購入

「目の間違いが、役に立つ」

 筆者の知り合いに探偵小説作家がいるのだが、この方は会議の最中に物思いにふけるような遠い目になるときは、たいてい探偵小説のトリックを考えて いる。あるいは深夜の新宿三丁目のまったりしたバーで、悲しげな無言とともに壁などを見つめているときも、頭にあるのはトリックのことだ。

 おそらく世の中の探偵小説作家たちはみなそうなのだ。いかにも深い自己省察にふけるようでいて、隙あらばトリックのことを考えている。トリックにはつきせぬ魅力がある。人は騙されるのも、騙すのも好きなのだ。

 本書には人の目がいかに騙されやすいかが、豊富な例とともに詳しく示されている。目は人間の緻密で鋭敏な知性を示す知覚器官として近代文化の中枢 を担ってきたが、ときにコロッと騙される。止まっているのに動いて見える、同じ色なのに違って見える、小さいはずなのに大きく見える……。いわゆる「錯 視」である。探偵小説のトリックを助ける素材としても、おそらく錯視は王道をいくものだろう。

 正確な言い方をすると、錯視とは「物理的量と知覚される量との間に存在する乖離を指す」(45)とのこと。筆者はこのところ凝視に凝っていたの で、その延長で錯視のことも気になってきたが、凝視とちがって錯視は学会で発表されたり、Best Illusion of the Yearなどというコンテストまであって、華やかで楽しそうである。「凝視学会」とか、「凝視コンテスト」などというものは聞いたことがないし、あったと してもきっと陰気なものにちがいない。

 人が「錯視」に寄せてきた関心は深く古い。おそらくそれは人間の知性のあり方そのものを体現している。本書に収められている錯視例の多くにはしっ かり発見者の名前がついて、さながら「古典的錯視アンソロジー」である。錯視コンテストでも「見事な錯視ですなあ」「いや、ありがとうございます。長年の 努力が報われました」といった会話が交わされているにちがいない。錯視などという言い方をすると、何しろ「目の間違い」を示すわけだから、失敗、愚かさ、 病いなども含意されそうだが、実際には、錯視と出会うことでこそ私たちは人間の特性を見出してきた。本書でも触れられているように、錯視との遭遇は人を大 いなる知的興奮へと導くのである。おそらくそれは錯視が「知ることについて知る」ための入り口となってきたからだろう。遠く哲学へとつながる「知を知りた い」という野望の発端には、「目の間違い」があった。

 錯視についての本は数多く出版されているが、本書の特色のひとつは「人はなぜ錯視するのか」という難しい領域に果敢に踏みこんでいることだろう。 土台になっているのは進化論的な考え方だから、必ずしも証明ができるわけではないのだが、なるほどという指摘はいくつもあった。たとえば著者は次のように 言う。

 …大きさや角度などの空間的特性に関する錯視は、進化の過程での自然環境の中で接することがないような構図の幾何学図形の観察で生じやすい。平面上に描画された幾何学錯視図形や不可能図形などは、そうした図形の典型例である。(114−115)

 たしかに、人間にとって平面との出会いは、立体との出会いよりもずっと遅れて発生したものだ。今、私たちは立体的環境に足を踏み出すことなく、紙 にせよ、スクリーンにせよ、いかに平面上ですべてを理解し処理するかに多大のエネルギーを注いでいる。ときには、立体的環境に直接手を伸ばしたほうがはる かに簡単なときでさえ、である。「省略し縮減し図示する」というのが近代のひとつのキーワードとなってきたのだ。しかし、そのような平面との付き合いは人 間にとってはまだまだ珍しい新しいものでもある。そして珍しく新しいだけに、初期不良が生じやすい。私たちにとっては、立体との付き合いの方がはるかに馴 染みが深いのである。著者は写真を用いた錯視の例に言及しながら、「これらの写真観察で生じる錯視は、進化の過程で獲得された、立体を見るための仕組み が、平坦な画像の観察に誤って適用されたことで生じたのだろう」(115)と言っているが、たしかに平面を理解するのに、誤って立体を知覚するときの要領 でやってしまうという説明には説得力がある。

 また、このような進化論を背景とした考察の中では、「錯視は実は人間にとって合理的な選択なのかもしれない」という主旨の見解も提示される。筆者もおおいに同意する。

 生存のためには、何でも「正しく」見えればよいわけではない。たとえ正確さが犠牲にされて、全体的な構造として は破綻しているような見えが得られたり錯覚が生じたりしたとしても、生存にとって十分な特性さえ見間違えず、大雑把な構造的特性の情報が得られれば生き 残っていける。逆に、時間や労力のコストをかけて錯覚が生じないようにする戦略は、そもそも解にたどり着くのが困難である上、生存における合理性に欠ける のかもしれない。(114)
   

 筆者にとって意外だったのは、高速道路などを走る車輪が逆方向に回転して見えるようなおなじみの錯視について、必ずしもその原因が突き止められて いないということである。これは「ワゴン・ホイール錯視」と呼ばれているそうだが、明滅している光の下で特定のホイールが誤って関係づけられるような状況 ならともかく(ジブリの展示にありますね!)、自然光のもとでなぜそのような錯視が生ずるのかははっきりわかっていないそうである。おそらくは私たちの視 覚処理過程の「周期的特性」に原因があるのではとの説が有力だそうだが、このような身近な錯視でも案外すべてがわかっていないというのはかえって、こちら の知的好奇心をかき立てる。

 本書の後半では運動と色彩をめぐる錯視が中心的な話題になる。いずれも今何かと話題になるテクノロジーと深く関係したホットな領域である。ここで も「運動表象の惰性」(動いている対象の位置が進行方向側に行きすぎて見える)、「コントラスト錯視」(明るさや色相の見え方が、空間や時間における相対 的な関係によって決定される)、「同化現象」(違う色が同じように見える)といった代表的な錯視についての踏みこんだ解説が、短いスペースで手際よくなさ れるが、説明を読みながらあらためて思うのは、このような錯視が目にかぎらず私たちの知の領域全般を覆っているということである。私たちの知は、「進行方 向側に行きすぎる」ことがあるし、「相対的な関係によって決定される」こともあるし、その逆に「違う色が同じように見える」こともあるのだ。

 もちろん、だから気をつけろ!というような単純な議論ではない。私たちはそうした人間の特性と付き合わざるを得ないし、おそらくそれがかえって役 に立つことだってある。巻末でのいわゆる「色覚異常」についての著者の見解も、そういう意味では冷静で合理的なものだ。かつて「色盲」と呼ばれた、通常よ りも少ない色しか見ない「2色覚者」に対する見方は、逆に通常よりも多くの色を見る「4色覚者」もいることを知らされるとがらっと変わるはずである。色覚 のタイプを越えてわかりやすい色彩を提供する「ユニバーサルデザイン」という考え方も、今後はおおいに普及していくだろう。


→bookwebで購入

Posted by 阿部公彦 at 2013年02月14日 17:42 | Category : 心理/認知/身体/臨床







2013年2月15日金曜日

asahi shohyo 書評

武士の家計簿 [著]磯田道史

[評者]最相葉月(ノンフィクションライター)

[掲載] 2013年02月15日

表紙画像 著者:磯田道史  出版社:新潮社 価格:¥ 714

電子書籍で購入する

■幕末の暮らしを生き生きと再現

 吉村昭の随筆集『史実を歩く』に、こんな記述がある。資料との出会いに偶然はない。ここぞと見当をつけた場所で必ず見いだすことができる。まるで私が来るのを待っていたかのように、望んでいた資料が顔をのぞかせている、と。
 ここで吉村のいう必然とは、探す目があって初めて手にできるものではないか。史実に忠実な歴史小説を書き続けた吉村の、資料と向き合う真摯(しんし)な姿勢を見てそう思う。
  『武士の家計簿』の著者、磯田道史と「金沢藩士猪山家文書」の出会いも、本人は僥倖(ぎょうこう)と書くものの、長きにわたり全国の武家文書を渉猟してい たからこその、まったき必然ではなかったか。古文書販売目録で見た一枚の写真をきっかけに著者が発見したのは、温州みかんの箱に収められたほぼ完璧に近い かたちの入払帳、今にいう家計簿だった。記録されていたのは、天保13年から明治12年まで約37年間。同じ箱には家族の書簡や日記まで入っていた。幕末 から明治大正という時代の転換期を生きたある家族の生活を生き生きと映し出す、まさにタイムカプセルである。
 猪山家は五代にわたって加賀前田家 に仕えた御算用者、すなわち、会計のプロだった。加賀藩の御算用者は、ほかの藩とは位置づけが違う。普通の藩では、郡奉行といわれる民政部門の中に会計部 門が設置されているが、加賀藩では、御算用場といわれる巨大会計機構の中に郡奉行が置かれていた。つまり、会計は加賀百万石の政治を司(つかさど)る中心 的存在だった。猪山家は下級武士でありながらも、政治に近いところで働く有能な実務技術をもつ一族だったのである。
 ここまで精巧な家計簿がほぼ 完全なかたちで残された背景には、猪山家が陥った借金苦がある。江戸城大奥から迎えた姫君の婚礼具や装飾品を買い調える「姫君様御勘定役」として江戸詰の お役目を仰せつかるうちに出費がかさみ、ついに年収の約2倍にまで負債が膨らんだ。これではこの先立ち行かなくなると考えた猪山家8代目の直之が、「二度 と借金を背負わないように計画的に家計を管理しよう」と一念発起し、家財を売り払うと同時に完璧な家計簿を付け始めたのである。
 著者は、現代人 の生活感覚と照らし合わせながら家計簿を読み解く。たとえば、猪山家の年収は銀3076.19匁(もんめ)で、米に換算すれば51.388石だが、現在の 玄米価格に直すと250万円程度にしかならない。召使を2人も雇って住み込ませている家にしては低すぎる。そこで視点を変え、大工見習のアルバイトをして 生活した場合の賃金から金銀の価値を割り出すと年収は約1230万円になる、という具合である。
 財産売却リストも壮観だ。父・猪山信之の茶道具、母や妻の衣装、直之本人の書籍も書見台も、価値あるものはほとんどすべて売り払われている。総額は現代の1000万円以上とは、覚悟のほどが偲(しの)ばれる。
 収入も借金も万事この調子で現代感覚に換算されているため実感が伴い、わかりやすい。著者もまた、算術と会計技術に通ずる現代の御算用者ではないかと思うほどだ。
  では、決して安くはない年収がありながら、猪山家はなぜここまでの借金地獄に陥ったのか。著者がここで新しく提示する概念は、「身分費用」である。「その 身分であることにより不可避的に生じる費用」を意味し、具体的には、家来や下女の給金や生活費、儀式費用などを指す。身分費用の中でとりわけ大きな割合を 占めるのが、親戚付き合いを始めとする祝儀交際費だ。先祖祭祀(さいし)、葬儀、婚礼、出産、病気見舞い、昇進、引っ越しと、武士が武士という身分格式を 保つために必要な費用が家計を圧迫していた。直之の小遣いが月額5840円というから、いかにもバランスが悪い。給金が保証され、地元に帰れば田畑をもつ 家来たちと比べて、果たしてどちらが豊かなのかという疑問もわく。
 ただ、権力と威信と経済力が一手に得られない、社会学の言葉でいう「地位非一 貫性」こそが江戸社会の安定を解く鍵だと著者は書く。なぜなら、〈身分による不満や羨望(せんぼう)が鬱積(うっせき)しにくく、身分と身分が、そこそこ のところで折り合って、平和が保たれるから〉。武士の気位の高さを表す「武士は食わねど高楊枝(たかようじ)」という俚諺(りげん)は、もしかして、社会 システムを保持するための呪文だったのかもしれない。
 それにしても、新書にして220ページあまりの本書には、まるで歴史小説のような躍動感が ある。幕末から明治維新にかけての変動期を猪山家の人々や士族たちがどう生きたか、古文書や書簡を通して当時の生活に分け入り、直之の目となり耳となっ て、細かいこともおろそかにせずに日々の暮らしを再現したからだろう。
 廃藩置県で金沢藩が消滅すると、加賀百万石を支えた膨大な士族たちは路頭 に迷った。出稼ぎに行く者、慣れない商売に手を出して失敗する者、雑役夫になった者もいた。会計技術をもつ猪山家は、新政府の実務官僚として抜擢(ばって き)されたが、親族でも、官員として出仕できた士族とそうではない士族では、収入に大きな格差が生まれたという。
 海軍省の高等官となって東京で 働く9代目成之に宛てた手紙によれば、直之は、家禄の廃止や鉄道の開業、太陽暦の導入などの変化に大いに戸惑いながらも、牛肉や牛乳を食するなど、いち早 く文明開化を楽しんでいたことが読み取れる。孫たちも海軍に入れようと、教育には相当熱心だったようだ。成之に十分な稼ぎがあったためだろうが、直之の晩 年は比較的穏やかで、政治的に動くこともなければ、新たな事業にチャレンジするそぶりもない。変化を従容として受け入れている。
 実直な会計技術 者だったからというだけではないだろう。家計簿はたんに数字の羅列ではなく、家族一人ひとりの声であり、家族が生きた証である。家計簿をつけることによっ て自らの行いを振り返り、家族と対話する。そんな静かな日々の積み重ねが、直之自身を支えていたのではないかと思えてならない。
    ◇
 ところで、本書を原作とする映画が公開された同じ年に、石崎建治著『加賀藩御算用学者 猪山直之日記』(時 鐘舎)が出版された。家計簿がつけられた背景を知る格好の資料だと思って併読したところ、磯田の先行研究に敬意を表しつつも、控えめに異論を呈した箇所が 目に留まった。数え二歳の長女の健康を願う「髪置」の祝いに必要な大鯛が準備できずに、「絵鯛」(絵に描いた鯛)で済ませたという涙ぐましいエピソードに ついてである。
 直之の日記を研究した石崎によれば、直之のくずし字では「糸」偏と「魚」偏がよく似ており、家計簿にある「絵」(旧字は、絵= 繪)は「鱠」(なます)の誤記である可能性があるという。同じ日の日記に「絵」という文字がない代わりに「鱠」とあることもそれを示唆しており、日頃から 子どものための費用は惜しまない直之の暮らしぶりから考えても、髪置の儀式だけ絵に描いた鯛で済ますことには疑問があるという。
 実は私自身、 『武士の家計簿』を初めて読んだ時に少々引っかかりを覚えたところで、日記からうかがえる直之の冷静沈着な人物像からみても、「絵鯛」のような「奇手」 「奇策」とは縁遠かったのではないかという石崎の指摘には一定の説得力を感じた。「絵鯛」は本編だけでなく予告編やポスターでも大きく採り上げられて私た ちの記憶に深く刻まれた印象的な場面であるだけに、今後さらなる検証が待たれるところだ。
 ……いやはや、ことほどさように、古文書は奥が深い。

『加賀藩御算用学者 猪山直之日記』を購入する

この記事に関する関連書籍


史実を歩く

著者:吉村昭/ 出版社:文藝春秋/ 価格:¥560/ 発売時期: 2008年07月

☆☆☆☆☆ マイ本棚登録(0 レビュー(0 書評・記事 (0







asahi shohyo 書評

保守主義から「右傾化」へ 中北浩爾さんが選ぶ本

[文]中北浩爾(一橋大教授 政治学)  [掲載]2013年02月10日

緊急経済対策について会見する安倍晋三首相 拡大画像を見る
緊急経済対策について会見する安倍晋三首相

表紙画像 著者:グループ一九八四年  出版社:文藝春秋 価格:¥ 735

■自民党政治の行方

 安倍首相は、参院選を控えて、アベノミクスと称される経済政策を前面に押 し出し、安全運転に努めている。しかしながら、国防軍創設や天皇元首化を盛り込む憲法改正、歴史認識に関する政府方針の改訂などに向け、機会をうかがって いるようだ。しかも、改憲案が谷垣前総裁の際に決定されたことからみると、こうした自民党の「右傾化」は、安倍総裁の下での一時的な現象とはいいがたい。
  かつての自民党は違った。1986年、当時のブレーンの佐藤誠三郎東大教授らが出版した『自民党政権』(中央公論社・品切れ)は、自民党が特定のイデオロ ギーにとらわれず、派閥や個人後援会、族議員などを通じて、多様な要求を汲(く)み上げ、変化に柔軟に対応してきたからこそ、長期政権を続けられているの だと主張した。
 現在、こんな派閥擁護論を説いたら、間違いなく守旧派のレッテルを張られてしまうであろう。しかし、佐藤は、学習院大学の香山健 一教授らとともに、80年代、行政改革などに尽力した。ローマ帝国の滅亡に事寄せつつ日本の行く末に警鐘を鳴らし、土光敏夫経団連会長を驚嘆させた論文と して、昨年、37年ぶりに話題になった『日本の自殺』は、現状肯定の上に立つ彼らの改革宣言であった。

■中庸という美徳
  ところが、このような自民党のあり方は、94年の政治改革を契機として正当性を失ってしまう。しかも、社会党に代わって、自民党離党者を一翼とする民主党 が台頭してくると、自民党はアイデンティティー・クライシスに陥った。かくして自民党は、理念が希薄な民主党に対抗し、保守主義を強調するようになる。
 2009年から2年間にわたり自民党の機関紙に掲載された文章をまとめた櫻田淳『「常識」としての保守主義』は、その過程で生まれた最良の成果である。伝統を尊重しつつも、柔軟に新しいものを取り入れ、中庸を美徳とする、そうした態度を保守主義の本質とみる。
  これは以前、谷垣総裁が唱えた「おおらかな保守主義」に近いといえるが、民主党との違いが必ずしも鮮明ではない。また、北朝鮮の核開発や尖閣問題など日本 を取り巻く国際環境も厳しさを増している。結局、自民党は、同書が「保守」と峻別(しゅんべつ)すべきだと指摘するナショナリスティックな「右翼」へと傾 斜していった。

■草の根の組織化
 かつて安倍首相は、アメリカの共和党に言及しながら、「草の根保守」を組織化する必要性について語ったことがある。この間の自民党の変化も、民主党との対抗上、地方組織を重視し、「草の根民主主義」を標榜(ひょうぼう)したことが一因と考えられる。
  ただし、ジェンダーフリーに対するバックラッシュを分析した山口智美・斉藤正美・荻上チキ『社会運動の戸惑い』を読む限り、日本の「草の根保守」の運動 は、既存のイメージに反して、まとまりに欠け、持続性が乏しいようにみえる。さらにいえば、こうした運動に関わらない一般の国民は、各種の世論調査による と、自民党政権の景気対策には期待を寄せても、憲法改正などには懐疑的な眼差(まなざ)しを向けている。
 安倍首相の安全運転は、次の参院選までのはずだ。「右傾化」する自民党を信任するのか否か、有権者が判断を迫られる日は、アベノミクスの熱気の背後で確実に近づいてきている。

 ◇なかきた・こうじ 一橋大教授(政治学) 68年生まれ。著書に『一九五五年体制の成立』など。近著に『現代日本の政党デモクラシー』。

この記事に関する関連書籍

日本の自殺

著者:グループ一九八四年/ 出版社:文藝春秋/ 価格:¥735/ 発売時期: 2012年05月

☆☆☆☆☆ マイ本棚登録(1 レビュー(0 書評・記事 (1


「常識」としての保守主義

著者:櫻田淳/ 出版社:新潮社/ 価格:¥777/ 発売時期: 2012年01月

☆☆☆☆☆ マイ本棚登録(1 レビュー(0 書評・記事 (1


社会運動の戸惑い フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動

著者:山口智美、斉藤正美、荻上チキ/ 出版社:勁草書房/ 価格:¥2,940/ 発売時期: 2012年10月

☆☆☆☆☆ マイ本棚登録(2 レビュー(0 書評・記事 (2


一九五五年体制の成立

著者:中北浩爾/ 出版社:東京大学出版会/ 価格:¥6,825/ 発売時期: 2002年12月

☆☆☆☆☆ マイ本棚登録(0 レビュー(0 書評・記事 (1


現代日本の政党デモクラシー

著者:中北浩爾/ 出版社:岩波書店/ 価格:¥840/ 発売時期: 2012年12月

☆☆☆☆☆ マイ本棚登録(0 レビュー(0 書評・記事 (0