2011年10月04日
『聖なる学問、俗なる人生−中世のイスラーム学者』谷口淳一(山川出版社)
朝、アザーン(礼拝への呼びかけ)で目が覚める。なんだか心地よいひびきで、睡眠を妨げられたことも忘れてしまう。クルアーン(コーラン)の朗誦のコン テストもさかんだ。クルアーンはアラビア語で、ムハンマドが属していたクライシュ族の方言で統一されている。翻訳することが許されていないので、アラビア 語がわからないイスラーム教徒の多くは、意味もわからずに朗誦することになる。そのことに疑問をもつ人が本書を読めば、クルアーンの朗誦には唱えている内 容だけではないことがわかる。
イスラームの活力を支えている「イスラーム学者について、少し考えてみようというのが本書の目的である」。ウラマーと総称されるイスラーム学者は、「た んなる知識人ではなく、「イスラーム諸学を修めた知識人、学者」を意味する」が、研究に勤しむだけでなく、「多くは、国政から庶民の生活にいたるまでさま ざまな局面で、イスラームの教えにそって社会を導く役割もはたしている。例えば、イランの最高指導者は高位の学者から選ばれる。その一方で、日常的な問題 に対する解決策を示し、庶民から頼りにされているイスラーム学者も各地に大勢いる」。
そして、現代ではなく、中世の学者をあつかう意味を、著者谷口淳一はつぎのように説明している。「中世のムスリム社会を理解するためには、中世の学者た ちがはたした役割を知っておく必要があるのはもちろんだが、現代について考えるさいにも、中世の学者について知っておいて損はない。例えば、社会における 学者の役割や行動については、現代と中世のあいだに共通する点をいくつもみつけることができる」。
本書は、4章からなり、前半の2章で「学問が「聖なる学問」すなわちイスラームという宗教に深くかかわる学問であったことがそれぞれの論点と深く絡み 合っていることも示していく」のにたいして、後半の2章では「学者たちの「俗なる人生」をあつかう」。3章までは、「中世東アラブのイスラーム学者という 比較的大きなくくりで論じることによって、この時代と地域に共通する特徴をとらえようとし」、「最後の第4章では、シリアの一都市に焦点をあて、特定の地 域におけるイスラーム学者たちの役割と行動を時間軸にそってみていく」。
その共通点の例として、著者は16世紀の中東のアラビア語の読み書きといった初等教育に携わった教師をあげている。かれらを悩ましたのは、「怠惰な生 徒、学力不足の生徒、同級生に暴力をふるったりその持ち物を奪ったりする問題児の存在」だった。 冒頭のクルアーンの朗誦についての話に戻ろう。「クルアーンは朗誦されるべきものなので、一字一句にいたるまで、正しい読み・発音を決めることも重要で あった」。正典テキストができても、文字で記録しておけば充分ということではなかった。「クルアーンのテキストを正しく伝えるということは、テキストの正 しい読誦の方法を伝えるということ」だった。したがって、「写本が各地に送られたさいには、定められた読誦法を教える人物が一緒に派遣された」。その理由 は、「耳で聞いたものは心にしっかり残るうえに、声に出すことによってより注意深く読むようになるからである」。あくまでも「学問上の知識の伝達は口承が 基本で、書写テキストは口承を補助する道具にすぎないということになる」。そして、口承するという行為自体が、信仰に直結した。
キリスト教においても、賛美歌に魅せられて改宗した者がいる。信仰内容だけでなく、その伝えられ方に本質をみる人たちがいる。書写テキストに重きをおく人たちが失ったものを、イスラームはクルアーンの朗唱を通じて守り継いでいるということができる。
イスラームの活力を支えている「イスラーム学者について、少し考えてみようというのが本書の目的である」。ウラマーと総称されるイスラーム学者は、「た んなる知識人ではなく、「イスラーム諸学を修めた知識人、学者」を意味する」が、研究に勤しむだけでなく、「多くは、国政から庶民の生活にいたるまでさま ざまな局面で、イスラームの教えにそって社会を導く役割もはたしている。例えば、イランの最高指導者は高位の学者から選ばれる。その一方で、日常的な問題 に対する解決策を示し、庶民から頼りにされているイスラーム学者も各地に大勢いる」。
そして、現代ではなく、中世の学者をあつかう意味を、著者谷口淳一はつぎのように説明している。「中世のムスリム社会を理解するためには、中世の学者た ちがはたした役割を知っておく必要があるのはもちろんだが、現代について考えるさいにも、中世の学者について知っておいて損はない。例えば、社会における 学者の役割や行動については、現代と中世のあいだに共通する点をいくつもみつけることができる」。
本書は、4章からなり、前半の2章で「学問が「聖なる学問」すなわちイスラームという宗教に深くかかわる学問であったことがそれぞれの論点と深く絡み 合っていることも示していく」のにたいして、後半の2章では「学者たちの「俗なる人生」をあつかう」。3章までは、「中世東アラブのイスラーム学者という 比較的大きなくくりで論じることによって、この時代と地域に共通する特徴をとらえようとし」、「最後の第4章では、シリアの一都市に焦点をあて、特定の地 域におけるイスラーム学者たちの役割と行動を時間軸にそってみていく」。
その共通点の例として、著者は16世紀の中東のアラビア語の読み書きといった初等教育に携わった教師をあげている。かれらを悩ましたのは、「怠惰な生 徒、学力不足の生徒、同級生に暴力をふるったりその持ち物を奪ったりする問題児の存在」だった。 冒頭のクルアーンの朗誦についての話に戻ろう。「クルアーンは朗誦されるべきものなので、一字一句にいたるまで、正しい読み・発音を決めることも重要で あった」。正典テキストができても、文字で記録しておけば充分ということではなかった。「クルアーンのテキストを正しく伝えるということは、テキストの正 しい読誦の方法を伝えるということ」だった。したがって、「写本が各地に送られたさいには、定められた読誦法を教える人物が一緒に派遣された」。その理由 は、「耳で聞いたものは心にしっかり残るうえに、声に出すことによってより注意深く読むようになるからである」。あくまでも「学問上の知識の伝達は口承が 基本で、書写テキストは口承を補助する道具にすぎないということになる」。そして、口承するという行為自体が、信仰に直結した。
キリスト教においても、賛美歌に魅せられて改宗した者がいる。信仰内容だけでなく、その伝えられ方に本質をみる人たちがいる。書写テキストに重きをおく人たちが失ったものを、イスラームはクルアーンの朗唱を通じて守り継いでいるということができる。
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