2011年10月26日水曜日

kinokuniya shohyo 書評

『兄 小林秀雄との対話 — 人生について』高見沢潤子(講談社)

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「鉄の胃」

 小林秀雄に「母」がいたのは有名だが、妹がいたとは知らなかった。その妹が、兄秀雄とかわした会話をまとめたという本書を読み始めて、筆者は衝撃を受けた。何しろ、あの小林秀雄がこんなしゃべり方をしているのだ。
「なんの鳥かしら。」
「むくどりじゃないかな。」
「なにを食べてるのかしら。」
「みみずを食べにくるんだよ。」
 わたしはうめの木の巣箱をみた。
「しじゅうから、もう卵をうみにきて?」
「ああ、もう巣立っていったよ。いつも、もう一回ぐらいくるんだが、そのあとにすずめがはいっちまったからね、もうこないだろう。」(一三)
 このやさしい口調は何なのだ。あの小林秀雄が「むくどりじゃないかな」とか「みみずを食べにくるんだよ」なんて、いくら妹相手とはいえ、言うんだろうか。イメージ崩壊である。これはすごい。

 日本の批評界の一角には強固に「小林秀雄語り」の伝統がある。別に小林ファンクラブというわけではなく、肯定もすれば否定もする、疑いもすれば畏 れたりもする、でもとにかく小林秀雄について語ることで腕試しをしたり、自分自身の語りの可能性を広げたりということは行われてきた。以前、この欄でもと りあげた橋本治の『小林秀雄の恵み』な どは、そんな中でももっとも洗練された試みのひとつだろう。橋本治などという小林秀雄とは対極にあるような書き手に、むずむずと何かを書かせてしまうくら いだから、きっと小林の文章のトンガリぶりには、良くも悪くも読者に「何か言わずには気が済まない」と根源的な批評欲をそそるものがあるのだ。何とかした い、やっつけたい、と思わせる。たとえ小林秀雄の書いたものに字面的に意味のわからない部分があったにせよ、つまり、論理や意識のレベルで「わかろう」と するのが難しくとも、こちらの無意識の部分に何かが作用しているのかもしれない。

 ところがこの本を読んでいると、まるでそんな「小林秀雄語り」云々が別の惑星で起きている出来事みたいな気がしてくる。いるのは「兄小林秀雄」だけなのだ。(以下、便宜上発話者をこちらで示した。)

(妹)「[非行少年たちには]共通した性格っていうか、特徴っていうものがあるんですって。それは、情緒がないっていうことですって。きれいな花をみても、ぜんぜんきれいだと思わない。」
(兄)「このごろは、勉強、勉強で、知識のことや、頭のことばかりに、みんな夢中になってるだろう。心の問題をすっかりわすれちまってるからね。そういう 情緒のない、不良少年が多くなるんだ。人間には、心とか情緒というものがどんなにたいせつか、ということがわからないんだな。学問だけすすんで、知識がど んなにひろまっても、それで社会はよくなりゃしない。いくら学問をしたって、人間は、それだけじゃだめなんだ。」(一九)
(妹)「恋愛によって、人間は成長もするし、りこうにもなる。」
(兄)「そうだね。恋愛によって、自己が発見できるからね。自分というものがわかってくるし、ふだんねむっている理知が、恋愛によってめざめてくるよ。だから、恋人たちが才能がある、なんていわれるんだ。」(四一)
  これ、ほんとに小林秀雄が言ったんですか?と問いたくなる。しかし、「むくどり」や「みみず」から「非行少年」や「恋愛」へと話題が進み、さらに小林のい わば得意分野の話になってくると、「ひょっとするとほんとに言ったかも知れない」という気もしてくる。たとえば「美」の話題。
(妹)「どういうふうにしたら[美しいものを感じる能力を]養い育てることができるの」
(兄)「しじゅう、怠ることなく、りっぱな芸術を見つづけることだな。そして感じるということを学ぶんだ。りっぱな芸術は、正しく、豊かに感じることを、 いつでも教えている。まず無条件に感動することだ。ゴッホの絵だとか、モーツァルトの音楽に、理屈なしにね。頭で考えないで、ごく素直に感動するんだ。そ の芸術から受ける、なんともいいようのない、どう表現していいかわからないものを感じ、感動する。そして沈黙する。この沈黙に耐えるには、その作品に対す る強い愛情がなくちゃいけない。」(五六)
 あ、これくらいなら小林秀雄がほんとに言いそうだな、と思える。おそらく「芸術」についてのこういう言い方が日本の教育をダメにしてきたし、これからも 害悪をまき続けるだろうなと筆者は確信しているが、その一方で——何とも困ったことなのだが——このような発言をしているときの小林秀雄はもっとも信用で きるのだ。ほんとのことを言ってるな、と思わせる。実に魅力的なのである。

 果たして、この本に出てくる小林秀雄はどれくらい本物なのだろう?単行本は1968年刊というから、本人もまだまだ存命。いや、それどころか 1902年生まれの小林はまだ66歳で『ドストエフスキー』を刊行してまもなくである。『本居宣長』の出版まではまだ五年以上あるという時期だ。本人はこ の本を手にとって、いったいどんな反応をしたのだろう。本書にはこの企画を話すと兄に「いやだ」と言われたと書いてある。しかし、そこで「いやだ」という 小林秀雄も何だかいつもと様子が違う。

「むずかしいことがらを、やさしくするのは、それこそ、いちばんむずかしいことなんだぜ。むずかしいというより、不可能といったほうがいい。いいな おせないんだ。もとの意味とちがってくるからな。それより、むずかしいと思ったら、もっとよく読むことだ。おれのものを全部、じっくり読みなおすんだな。 それからだね。書くのは」(224)

 う〜ん。なんかいつもとちがってやさしいなあ、と思う。とはいえ、兄が「いやだ」と言っていたのは間違いない。著者の高見沢潤子がすごいなのは、 そんなふうに「いやだ」「いやだ」と言っている兄の存在をすぐそばに感じながらも、驚くほどのマイペースぶりで小林秀雄を消化してしまう、鉄の胃めいた吸 収力を持っているところである。

 本書の根本にあるのは、若い人に兄の思想をわかりやすく伝えたい、という願いである。この目的のために妹は、兄の持っていた自意識や構えなどとい うものを「こんなものいらないでしょう?」とばかりにあっさり捨ていくのである。その結果、「非行少年」や「恋愛」についての小林秀雄の発言などは無残な ほど�ふつう�に見えるかもしれない。しかし、そんな気の抜けた風景の中から、妹の屈強な「鉄の胃」の消化力に負けずに、ごちごちしたかたまりのまま出て くるものもやはりある。とりわけ目につくのが、「書く」というテーマである。

(妹)「にいさんのいうことをきいていると、文学者は、頭で、あれこれと考えているより、正確なことばを選ぶほうがだいじだっていうようにきこえるわ。」
(兄) 「そりゃ考えることは、まただいじさ。ただ文学者にとっては、考えることと、書くことが区別できないんだよ。まず書くっていうことは、まず考えるっていう ことなんだ。とにかく、書いてみなけりゃ、なんにもわからないから書くんだよ。創造というものは、わかってるものをつくるんじゃない。わからないものをつ くるからこそ、創造っていうことになるんだろう。創作だって、わからないものを、書くからこそ、創作といえるんだよ。」(八九)

そこがわからない、と高見沢潤子は思う。そして、そこがわからないからこそ、ここまで徹底的に強面の小林秀雄像を粉砕して消化吸収しえたのであり、それだけでもたいした功績だが、著者の本領はそこからのねばりにもある。

「にいさん、考えることと、書くこととは、ぜんぜん別なことでしょう。」
「そりゃ、別だよ。」
「それが、考えることと、書くことは、区別ができないって、このまえいったでしょう。それがよくわらかないのよ。」
「だから、文学者は、っていったろう。文学者は、その考えが浅ければ、浅いことしか書けないっていうことだよ。�文章ではうまく現わせないけれども、考え ていることはもっと深刻なものがあるんです�なんていうのはうそだ。正直なもので、文章には、その人が考えていることだけしかあらわれないもんだよ。」 (一三三)
 どこかかみ合っていないような会話と見えなくもないのだが、そうでもない。たとえば注意するといいのは、 やり取りの多くが兄の発言で終わっているということである。妹は「あ、そうなの!な〜るほどね♪」などという愚かな発言で会話を終わらせたりはしない。と にかく兄が言って終わる。そこからは、わかろうとわかるまいと、兄の言葉がずぶっと妹の心に沈み込んでくる様子がよく伝わってくるのだ。

 ただ、そんな一方通行的で専制的なやり取りを通して、妹はしぶとく兄の何かを生け捕りにしてもいく。わかる部分は容赦ないナイーブさで理解し、わ からない部分はボトッとそのまま投げ出しても、それでも妹がしっかりとらえた部分がある。本書の最後のセクションにあたる第四部は伝記のような書かれ方を しているのだが、情報量がそれほど多いわけでもないのになかなか読みごたえがあって、母を捨てた小林、女に苦労した小林、生活力があるとは思えなかった小 林、そして何と言っても「書く人」として小林の像があざやかに立ち上がってくる。とにかく書くことが彼を生かしていたのである。

 以下にあげるようなちょっとした一節からもそれは十分伝わってくる。文芸評論家・佐古純一郎の「書く人はみな苦しいからしようがないんですよ。小 林先生の苦しみぶりは、まったくひどいですよ。わたしは、どこかの旅館で、小林先生が仕事をしていらっしゃるところをみましたがね。へやの中を四つんばい になって、はいまわっていましたよ。」という発言をうけて、著者は考える。

その苦しみは、できることなら自分の肉親には味わわせたくないと兄は思う。だからひとり娘のはる子のことを、
「あの子が文学をやりたい、なんていいださなくてよかったよ。」
と、かつて兄はいった。それはほんとうにしみじみした口調であった。そんなに苦しんで仕事をしているのだから、わたしは、兄のところにいっても、昼間はけっして書斎には顔を出さない。
  昼間仕事をした兄は、夜は絶対に仕事をしない。夕方ふろにはいり、夕食をたのしみながら長い時間をかけて食べ、もう一度入浴して、いちばん先に寝てしま う。だから、わたしが兄とゆっくり話しあえる時間は、夕食のときだけだといっていい。そのときはほんとにたのしい。(二〇七)

 「昼間仕事をした兄は、夜は絶対に仕事をしない」というのは、壮絶だなと思う。昼も夜もできてしまう仕事など、たいしたものではないのだ。これだけでも、もう一度小林秀雄を覗いてみようかなと言う気にさせる一節である。

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asahi shohyo 書評

宮台教授の就活原論 [著]宮台真司

[掲載]2011年10月23日   [ジャンル]社会 

表紙画像 著者:宮台真司  出版社:太田出版 価格:¥ 1,260

 就活=就職活動は学生にとって、いまや大学入試以上の難事業かもしれない。社会学者で首都大学東京教授の著者は以前、大学の就職支援委員会委員長 としてこの問題に取り組んだ。その経験から、学生と企業の双方の勘違いを指摘し、学生に心得を説く。いわく「先行き不透明な時代、企業は『適応』でなく 『適応力』を求めている」「自分にぴったりの仕事なんてない」「CMのイメージで就職先を決めるな」——。そして理不尽でデタラメな社会を生き抜くため に、帰還場所=ホームベースをつくれという。人生はいいとこ取りはできない、と。真っ当な原論。就活の実践に即座には役立たなそうだが、長い人生には効き 目があるかも。
    ◇
 太田出版・1260円

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2011年10月19日水曜日

kinokuniya shohyo 書評

2011年10月18日

『イスラームから見た「世界史」』タミム・アンサーリー著、小沢千重子訳(紀伊國屋書店)

イスラームから見た「世界史」 →bookwebで購入

 著者は、「アフガニスタン出身、サンフランシスコ在住の作家」、「アメリカにおける複数の世界史の教科書の主要執筆者である」。著者は大人になってから 気づくのだが、「驚くほどヨーロッパ中心的な歴史叙述で、無神経な人種差別に満ち満ちた」本を最初の愛読書として育ち、10歳のころ住んでいた小さな町を 通りかかったトインビーと同席する機会を得、本をプレゼントされるという希有な体験をもつ。

 著者は、本書をつぎのようなものだという。「本書は教科書でも学術書でもない。いうなれば、喫茶店で談笑中に「もう一つ(パラレル)の世界史ってどうい うこと?」と聞かれたときに、日常的な言葉で答えたようなものだ」。そして、著者がめざしたのは、「「実際に生じた」出来事を掘り起こすこと」ではなく、 「実際に生じたとムスリムたちが思っている出来事を読者に伝えること」だった。「なぜなら、それこそが、ムスリムをこれまで動かしてきた原動力であり、世 界史における彼らの役割を理解する手立てとなるからだ」。

 著者は、これまでわたしたちが思ってきた「世界史」とはどういうものか、つぎのように述べた後、「もう一つの世界史」とはどういうものか、説明してい る。「世界史とは常に、いかにして「私たち」が「現状の状況」に到達したかを物語るものであるがゆえに、そのストーリーは必然的に「私たち」とは誰か、 「現在の状況」とは何を意味するのか、によって変わってくる。西洋版の世界史は伝統的に、「現在の状況」を民主的で工業化した(ないしは脱工業化した)文 明社会と規定している。アメリカではさらに、世界史は自由と平等という建国の理想の実現に向かい、その結果アメリカが地球を未来に導く超大国(スーパーパ ワー)として興隆する、と想定されている」。

 それにたいして、「イスラームの歴史には時の流れ全体を「以前」と「以後」に画然と分かつ独自の境界、西洋世界とは異なる境界が存在するからだ。ムスリ ムにとっての紀元元年は、預言者ムハンマドがマッカからマディーナに移住し、それによってムスリムの共同体が生まれたヒジュラ〔聖遷〕の年である。この共 同体は「文明化」という概念を体現するものであり、かかる理想的な共同体を完璧に実現することこそが、歴史を形づくり、その方向を定めてきた原動力だった ように思えるのだ」。「ところが、過去数世紀のあいだ、ムスリムは歴史の流れがどこかでねじれてしまったと感じてきた。ムスリム共同体はもはや拡大するこ とはなく、混乱の度を深め、本来進むべき歴史の方向に抗う破壊的な逆流にいつしか呑みこまれてしまった。ムスリムの伝統の継承者として、私たちは勝利では なく敗北の中に歴史の意味を探ることを余儀なくされ、二つの衝動のあいだで葛藤してきた。歴史の流れに合わせてムスリム独自の「文明化」の概念を変えるべ きか、あるいは、それに歴史の流れに合わせるために闘うべきか、と」。「現在、イスラーム社会はムスリム共同体の理想から遠くかけ離れた停滞した状態に置 かれている」。

 著者が、現状を充分に認識したうえで「世界史」を物語ろうとしていることは、「後記−日本の読者へ」で2011年5月8日までの状況を把握していること からもよくわかる。否、著者は、現状をよりよく理解するために、「世界史」を物語ろうとしているのかもしれない。現状のイスラームの位置づけを、つぎのよ うに述べている。「西洋が拡大したために、非西洋社会は突然侵入してきた外来の文化に適応することを余儀なくされ、それに伴って世界各地で軋轢(あつれ き)と反発が生じた。今日では東洋世界と西世界洋(ママ)[西洋世界]の勢力はほぼ拮抗しつつあり、成長著しい中国は日本と肩を並べる世界有数の強国と なった。韓国などの東アジア諸国も急激な発展を遂げて国際経済を牽引している。これは東アジアが西洋化したというより、「西洋」が先導した科学技術の飛躍 的な進歩を東アジア社会がその文化的枠組みに取りこんだということだろう。その結果、東洋世界と西洋世界はますます結びつきを深めており、その相互作用の 中から両者をともに包摂する世界史の物語が生まれでようとしている」。「とはいえ、世界は西洋と東洋だけで成り立っているのではない。中国とヨーロッパの あいだには、インド北部から中央アジアのステップ地帯にまで広がるミドルワールドが存在している。私たちがイスラーム世界というとき、それはこの広大な地 域を指しているのだ。この地域に居住する一群の社会集団は今日にいたるまで西洋流の近代性に異議を申し立て、西洋そのものに敵対してきた」。

 本書で、イスラームの発展の特徴を最もよくあらわしているのは、つぎのようなところだろう。「アッバース朝の貴族たちはこれらの思想におおいに関心を抱 いた。ギリシア語、サンスクリット語、中国語、あるいはペルシア語の書物をアラビア語に翻訳できる者は、誰もが高額の報酬で雇われた。プロの翻訳者が各地 からバグダードにやって来た。彼らは首都や主要な都市の図書館に、さまざまな言語で著わされた古代の文献のアラビア語版を大量に提供した。いまやムスリム の知識人は史上初めて−たとえば、ギリシアとインドの数学および医学、ペルシアと中国の天文学、さまざまな文化圏の形而上学を−直接比較できるようになっ たのだ。彼らはこれら古代の思想について、いかにすればそれらを互いに、あるいはイスラームの啓示と調和させられるのか、霊性と理性を関連づけられるの か、宇宙全体を説明しうる単一の枠組みに天と地を組みこめるのか等々を探求しはじめた」。

 本書は、「イスラームから見た」ものであるが、イスラームを過度に美化しているわけではない。たとえば、ジハードについても、歴史的に冷静な目で、つぎ のように見ている。「私はしばしばアメリカ在住のリベラルなムスリムが「ジハードとは単に『よい人間になるべく努力すること』を意味するに過ぎない」と述 べ、この言葉を暴力と結びつけるのは反ムスリムの偏狭な人間だけだと主張するのを耳にする。だが、彼らは、預言者ムハンマド自身の生涯にまで遡る歴史の過 程で、ムスリムにとってジハードが意味してきたものを無視している。ジハードは暴力と無関係だと主張する者は、最初期のムスリムが「ジハード」の名のもと に遂行した戦争について説明しなければならない。初期のムスリムは彼ら独特のジハード観をもっていたが、われわれ現代のムスリムはジハード(と、イスラー ムのそのほかの諸側面)を全面的に定義しなおせる、と主張したい者は、ムスリムが長い年月をかけて練り上げてきたイスラームの教義と正面から取り組まなけ ればならない」。

 「もう一つの世界史」である本書は、西洋版を意識して書かれた。その本書が日本語に翻訳されると知って、著者は東洋があることに気づいたのだろうが、東 洋版「世界史」については知らない。本書も、西洋版と同じく世界性をもった「世界史」ではない。イスラーム世界だけでも、本書で扱ったのはミドルワールド だけで、その全体像は描けていない。17世紀後半まで西洋世界とイスラーム世界のふたつの物語は、交差することはなかった、と著者はいうが、今日、もはや アメリカを含む西洋世界に対峙するだけでは、イスラーム世界は理解できなくなっている。本書の「イスラーム世界」のなかに入っていない東南アジアやサハラ 以南のアフリカ、ロシア、中国などのことも考えなければならなくなっている。本書でいう「世界」は、地理的な地球規模という意味ではなく、自分たちの「世 界」、自分たちとは違う「世界」の「世界」にすぎない。それを克服するために「世界史」ということばを使わず、「グローバル史」ということばを使う人たち がいる。「世界」ということばを使うのは難しい。

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2011年10月18日火曜日

asahi shohyo 書評

日本の大転換 [著]中沢新一

[評者]中島岳志(北海道大学准教授)  [掲載]2011年10月16日   [ジャンル]科学・生物 社会 新書 

表紙画像 著者:中沢新一  出版社:集英社 価格:¥ 735

■原発の超克へと、渾身の文明論

 久々に出会った壮大な文明論だ。著者は原発事故を思想的に考察し、世界が目指すべき新たな道を構想する。
  人間は地球で生きていると言っても、表層部のわずか数キロの範囲でしか生活ができない。原発は、この生態圏の外部(太陽圏)に属する物質現象からエネル ギーを抽出しようとする。地震や津波は、生態圏内部の現象なので、生態圏に備わっている力によって回復できる。しかし、太陽圏からのエネルギーの持ち込み である原発は、いったん事故が起こると、その傷は生態圏の力では治癒できない。
 中沢氏は、この構造を一神教のあり方に見いだす。一神教の絶対者は、環境を超越している。この外部的存在を軸とする「超生態圏」的な思考が、現在の科学技術文明の深層構造に決定的な影響を及ぼしている。「原子力技術は一神教的な技術」である。
  この文明は、資本主義と密接に結びついて拡大した。人間同士が人格的交差によってつながっていた時代、交換には「+α」の要素が組み込まれ、常に贈与の側 面が付随した。そこでは自己の存在は自然との交差の中にあり、共感覚が発生する。東北の伝統は、農民や漁民が土地・海と霊的な一体感をもつことにより支え られてきた。しかし、資本主義は共感覚を崩壊させる。
 中沢氏は、原発—一神教—資本主義が結合する近代文明を、次の段階に昇華させるべきだと訴 える。そして、その革命は「電子技術で模倣された植物光合成のメカニズム」を用いた太陽光発電に集約される。人工的光合成によって太陽が放出したエネル ギーを媒介的に変換し、生態圏でのエネルギーとして活用することを、中沢氏は「エネルゴロジー」(エネルギーの存在論)という造語で捉え、「太陽からの贈 与」に依拠した文明の転換を迫る。
 原発を存在論的に超克しようとする渾身(こんしん)の文明論を、しっかりと受け止めたい。
    ◇
 集英社新書・735円/なかざわ・しんいち 50年生まれ。明治大学野生の科学研究所長。『アースダイバー』など。

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江戸尾張文人交流録—芭蕉・宣長・馬琴・北斎・一九 [著]青木健

[掲載]2011年10月16日   [ジャンル]人文 

表紙画像 著者:青木健  出版社:ゆまに書房 価格:¥ 1,890

 松尾芭蕉が名古屋の門人たちと歌仙「冬の日」の興行をしたのは1684年。俳諧の新潮流である「蕉風(しょうふう)」発祥の地の石碑が市内にある そうだ。本書に登場する文人たちは、京都に起こり、江戸、名古屋へと波及した出版ジャーナリズムを舞台とした点が、決定的に新しいと著者はいう。芭蕉真筆 の懐紙を店に掲げて精神的支柱とした風月堂、37年がかりで『古事記伝』44冊を出し、「北斎漫画」の初編も手がけた永楽屋、滝沢馬琴に広告文を書いても らった貸本屋大惣……名古屋の代表的な大店(おおだな)と文人たちのつながりを織っていくと、江戸期の文化状況が従来とは違う照明を浴びて浮かび上がって くる。
    ◇
 ゆまに書房・1890円



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著者:本居宣長、倉野憲司  出版社:岩波書店 価格:¥630

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古事記伝 3

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著者:本居宣長、倉野憲司  出版社:岩波書店 価格:¥882

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古事記伝 4

古事記伝 4

著者:本居宣長、倉野憲司  出版社:岩波書店 価格:¥1,071

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モラルのある人は、そんなことはしない—科学の進歩と倫理のはざま [著]アクセル・カーン

[評者]辻篤子(本社論説委員)  [掲載]2011年10月16日   [ジャンル]科学・生物 社会 

表紙画像 著者:カーン・アクセル、林昌宏  出版社:トランスビュー 価格:¥ 2,625

■生命操作の技術をどう考える

 カズオ・イシグロ原作の映画「わたしを離さないで」の切ないシーンがよみがえった。クローン技術で臓器提供のためだけに生まれてきた少年少女の物語だ。
 この想定こそ荒唐無稽に思えても、きょうだいへの移植を目的にこどもをつくることを認めるかどうか、そんな議論は現実に起きている。
 生殖補助医療や臓器移植、遺伝子操作と、生命を操作する技術が急速に進む。私たちはどう考えればよいのか。
 フランスの著名な遺伝学者である著者が多くの具体例をもとに思索をめぐらす。その根底にあるのは「他者の尊重」という原則だ。
 表題は子ども心に刻み込まれた、教育者だった父の言葉「良い子はそんなことを言ってはいけない」に由来する。
 市民がそれぞれ考えるためには専門家による情報提供が欠かせない。その専門家が、自身が望む方向に世論を誘導しようとしたとき、民主主義は危機的状況に陥る。この指摘はずしりと重い。
    ◇
 林昌宏訳、トランスビュー・2625円



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わたしを離さないで

わたしを離さないで

著者:カズオ・イシグロ、土屋政雄  出版社:早川書房 価格:¥840

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