2011年07月23日
『哲学の歴史 01 哲学誕生』 内田勝利編 (中央公論新社)
中央公論社は創業120周年を記念して2008年から『哲学の歴史』全13巻を刊行した。近年にない大規模なシリーズで2008年度の毎日出版文 化賞特別賞を受賞しているが、難解な専門書ではなく新書に近い手軽さで読めることがわかったのでこれから一年かけて紹介していこうと思う。
各巻は目次の後、「イメージの回廊」として地図や写真、図版が12頁にわたっておさめられている。第1巻でいうと哲学者の彫像の写真が2頁、『ニ コマコス倫理学』の15世紀の写本の書影が1頁、エーゲ海をはさんで小アジアからギリシアにかけての地図が見開き2頁、ギリシア的な世界観の基本である四 大元素(地・水・火・空気)関連の図版が9頁である。
責任編集者の総論につづいて、ソクラテス以前の哲学者からアリストテレス学派まで、8章にわたって専門の研究者による各論がつづく。章の末尾には 数頁のコラムがつく。たとえば「ギリシア七賢人」では選ばれる顔ぶれにかなりのバリエーションがあるが、その多くは政治家であり、ギリシア人の考える叡智 の原型が示されているとし、「プラトンとアトランティス伝説」ではアトランティスに関する史料はすべてプラトンにさかのぼり、プラトンの創作の可能性を否 定できないと指摘した後、プラトンがアトランティスにこめた意図を忖度している。
巻末には索引と参考文献、執筆者略歴、年表、代表的な哲学者の生没年を図示したクロノロジカル・チャートがおさめられている。参考文献は各章ごと に「原典と翻訳」と「研究文献」にわけて記載されており簡単なコメントがつく。パルメニデスの「原典と翻訳」では井上忠氏と鈴木照雄氏の著書があげられて いるが、コメントはこんな具合である。
現在参看できる日本語の専門的研究書はこれら二書のみ。両書が描き出すパルメニデス像は比較することが意味をもたないほど異質である。
こんなことを書かれたら、読みたくなってしまうではないか。
さて、第1巻である。「総論 始まりとしてのギリシア」ではタレスからアリストテレスにいたる250年間の営みをまず次のように一筆描きする。
もともと彼らのあいだにあっては、哲学とは何か一個の学術として固定されたものではなかった。本質をなすのは「知」それ自体ではなく、むしろ既成の知に満足することなくそれを超え出てさらなる知の高みを求めようとする意欲(ピロソピアー=知の愛求)にあった。
次いで本巻の構成にしたがって、時代順に政治情勢をからめながら学派を紹介していくが、最後に哲学史はアリストテレスが創始したものであり、今日 に伝わる断片はアリストテレス学派の学説誌を経由してきたこと、したがってアリストテレスの着目した観点以上に「より広汎な「知」の伝統が、けっして無視 できない力で、哲学の形成を促してきた」ことに注意を喚起している。
各論に移ろう。
「1 最初の哲学者たち」
タレスとミレトス学派をあつかう。ギリシアの知の営みはオリエントの先進地域と接した小アジアのイオニア地方ではじまったが、ギリシア人は複数の先行文化に直面することによって、単に受けいれるのではなく相対化しつつ脱神話化して摂取することができたとする。
タレスでいえば、水に着目したその思想の背後にエジプトやバビロニアで一般的だった水神創世神話があったのは確実だが、単に水の神を受けいれるのではなく、宇宙全体を水という統一的視点から把握しようというスタイルはタレス独自だったというわけだ。
宇宙全体を統一的に把握しようとするタレスのスタイルはアナクシマンドロスやアナクシメネスという後継者をうることで確固とした知の営みとして発展していくが、ペルシアの圧力によってイオニアは衰退し、ピュタゴラスらは南イタリアに移住することになる。
「2 エレア学派と多元論者たち」
哲学の新たな中心となったのは南イタリアのエレアで、この地で生まれたパルメニデスは初期ギリシア哲学の分水嶺となった。パルメニデスはあるもの はあり、あらぬものはあらぬと同語反復のようなことを説いたが、これはあるものはずっとあり、あらぬものはずっとないということであり、あらぬものからあ るものが生じることはないという変化の否定を含意している。ゼノンの有名な背理もこの変化否定の応用問題にすぎない。
パルメニデスの命題は同語反復だけに反論のしようがない。しかし変化はある。変化をどう説明したらいいのか。
この難題を解決するために編みだされたのがエンペドクレスの四大に「愛」と「争い」をつけくわえた宇宙論であり、万物は不生不滅の原子の組みあわせからなるとする古代原子論である。
「3 ソフィスト思潮」
前5世紀はじめにペルシャの侵攻をスパルタとともに阻止したアテナイは政治的にも経済的にも文化的にもギリシア世界の中心となる。アテナイは成人 男性市民による直接民主政で治められており、弁論術を柱とする市民教育の需要が増大した。こうしてギリシア各地から一流の知識人が集まった。
彼らはソフィストと呼ばれ、弁論術を教えるところからいかがわしいと見なされることが多かった。普通のアテナイ市民から見ればソクラテスやプラトンもソフィストの一味である。
ソフィストは多彩な背景を持った人々であり一致した教説があったわけではないが、法律・慣習はポリスごとに異なるという相対主義では共通しており、本章ではそれを「ソフィスト思潮」と呼んでいる。
「4 ソクラテス」
ソクラテスはペルシャ戦争勝利後のアテナイの高度成長期に青年時代をすごした。『弁明』では否定しているが、若い頃イオニア自然学にかぶれたことがあるのは確実だろうという。
しかし40歳の頃、繁栄に酔いしれていたアテナイはスパルタとペロポネソス戦争に突入し、20年間の戦いの末に敗北することになる。同盟国は離反し、政治は混乱をきわめる。ソクラテスに対する告発と刑死はこの混乱の中で起きた。
中年以降のソクラテスは自然学探求から離れ倫理の問題に集中するが、この方向転換の説明がクセノポンとプラトンでは異なる。この違いから「無知の知」を深めていく条が本章の読みどころだろう。
「5 小ソクラテス学派」
ソクラテスの一面を引きついだとされるキュレネ学派、キュニコス(犬儒)学派、メガラ学派をあつかう。
不可知論で快楽主義のキュレネ学派、芝居がかった詭弁を弄するキュニコス学派、屁理屈のメガラ学派がいずれもソクラテスから出ているとされているのは興味深い。
「6 プラトン」
プラトンはペロポネソス戦争のさなかに生まれた。23歳の時にアテナイは全面降伏に追いこまれ、その5年後、師であるソクラテスが刑死する。プラトンも亡命を余儀なくされ、以後十年以上にわたって地中海各地を遍歴しギリシア以外の思想にふれることになる。
40歳でアテナイにもどったプラトンはアカデメイアを創設し教育と執筆にたずさわることになる。本章の筆者は「優れた資質をもって名家に生まれた アテナイ市民たる者が、国家公共の場から身を退いてあたかもソフィストたちが行っているような仕事に専念することは、途方もなく果敢な決断を要したはずで ある」と指摘しているが、決断にいたったのは祖国の混乱と師の刑死に直面して教育の重要さに目覚めたからであろう。
プラトンといえばイデア説だが、本章ではプラトンを懐疑主義者と見なす古来からつづく解釈の大きな流れに注目している。プラトンは対話篇を通して イデア説を語ったが、対話篇の中ではイデア説は対立する教説の一つにすぎない。実際、プラトンの没後、アカデメイアは懐疑主義の拠点となるのであるが、本 章の筆者はプラトンがあらゆる言説を相対化していたと見なすのは短絡だとしている。「ソクラテスの対話的活動が対話相手の思いなしを客観的な吟味の場に引 き出すことを意図していたように、「対話篇」とは知と真理を客観的なものとして成立させるためのスタイルであった」というわけだ。
『パルメニデス』以降の後期思想にもかなりの紙幅をさいている点も本章の特徴だろう。最後の対話篇である『法律』やオカルト好きの間で重視されて いる『ティマイオス』の宇宙論を紹介し、「ミレトス学派以来の「生ける宇宙」を継承・賦活せしめるとともに、より深い意味をそこに込めたもの」としてい る。
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