2011年7月19日火曜日

kinokuniya shohyo 書評

2011年07月19日

『sketches』荒木時彦(書肆山田)

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「情緒不安定と詩」

 このところ、ちょっとした詩のブームのようだ。一部の詩集は書店のいわゆる「陽の当たる場所」におかれるようになった。今まで何とも思わなかったもの が、何かのきっかけで急にひりひりと感じられるということはたしかにある。こちらが情緒不安定になると、急にある種の言葉がおいしく感じられるのだ。

 詩の言葉で、情緒は昂進する。詩で、情緒的になりたい欲のようなものが満たされる。でも、そうした「情緒」や「不安定」は詩が読まれる前から用意されてあったものなのかもしれない。それでいいのかなあ、何か違わないかなあ、という気もする。

 そんなことを考えているときに、おもしろい詩集に出会った。荒木時彦『sketches』である。書店では依然として「陽の当たらない場所」に ひっそりと置いてあった。一頁にひとつの断章という体裁で、10文字にも足りないごく短いものから、原稿用紙一枚分くらいのものまで。ぱらぱらとめくり始 めて、いきなり「むむ」と思った。  

パンとシチューを食べられるのは、私が布を織ることができるからだ。
私が布を織ることができなければ、雨水だけが与えられるだろう。(8)

「雨水だけが与えられるだろう」という言い方に引っかかった。どうして急にこんなことを言うのだろう。でも、そういう人らしいのだ。急に陰影のあることを言う人なのだ。この「布を織る人」にはかつて「夫」もいたらしい。でも、今はその夫の「顔を忘れてしまった」という。

 読み進めていくと、すべての言葉をこの「布を織る人」が語っているのかどうかがよくわからなくなってくる。それは言葉が徐々に「私」を越えていくためかもしれない。

人は私となる。幼い頃から育まれた私は、変わることがない。変わることができない。しかし、ある瞬間、たとえば風船が割れる音一つで、私がまったく違ったものとなることがある。(12)

「私」があえて「」なしで語られている。瞑想詩のような、哲学詩のような風情だが、この「」の省略は、哲学してしまわないでこちら側に踏みとどまっ ている証拠だ。だから、そういうものにありがちな、もう読むのをやめてしまいたくなるようなひとりよがりの青臭さもないし、頓狂さをまとった引き際も見事 だ。こういうことができる詩はいいなあ、と思う。こういう「私」との付き合いはなかなかできないものだ。

ある日、私は熱病に侵された。医者に来てもらったが、二週間ほど熱はひかず、口にしたものといえば、重湯くらいのものだった。私 は眼が見えなくなった。最初は隣人がたまにやってきて面倒を見てくれたが、やがて来なくなった。長年住み慣れた家だ。部屋の作りはわかっている。私はま ず、どこに何を置くかを決めた。やかんといくつかの食器をキッチンに。ぶどう酒の瓶をテーブルの隅に。服をかごの中に。それで十分だった。私の部屋は整然 としている。もし眼が見えていたら、部屋をこんなに整然と片付けようなんて考えもしなかっただろう。(14)
町へ出て、友人とカフェでお茶を飲んだ。のどの腫れがひかないらしい。私も、右の足首の痛みがひかない。友人も私も、もう死んでもおかしくない歳だろう。でも、そんなことは友人と話すことではない。(20)

 ひとしきり語ってぷいっと横を向くというパタンだが、自己憐憫にひたるのではなく、きちんとフィニッシュが決まっている。「だろう」「らしい」 「ではない」といった語尾が非常に効いている。そのせいか、どこか「偉そう」には聞こえる。まるで預言者のように。そういえば「隣人」とか「人」とか、あ るいは「パン」とか「ぶどう酒」とか「ヤギ」とか、中近東風で聖書風の語彙が散りばめられている。しかし、考えてみると、預言者が偉そうなのはその言葉が 不安を鎮めるためのものだからだ。この詩集の語尾の妙な屈強さが語るのも、おそらくは不安のテーマである。不安の中から、それでもなお湧きだしてくる言葉 が主人公なのだ。ときに急に、

ジャンヌ・ダルクの窓に、森が殺到する。(38)

というような1行があったりして神秘的な飄逸さも演出されるが、全体を通して見ると泥にまみれた中から言葉がニョキニョキ生えだしてくるかのような、しぶとい力が伝わってくる。

 詩集には「布を織る人」だけでなく、「釣りをする人」も出てくる。「釣りをする人」には妻がいたらしいのだが、逃げられたという。この人には「布を織る人」とは微妙に違う達観の風情が感じられる。

湖で魚釣りをしている。ちょうど昼時で、もってきたサンドイッチを食べている。ハムとオリーブをはさんだだけの簡素なものだ。この場所は、一日いれば五、六匹は釣れる場所だ。まだ一匹も釣れていないが、昼から多分何匹か釣れるだろう。(27)

 「まだ一匹も釣れていないが、昼から多分何匹か釣れるだろう」というとどめ方が絶妙で(「絶妙すぎてよくわからない!」という人もいると思うが)、それが直後に次のような瞑想を呼びこむことにもなる。

疑うということは、それが是か否かについて迷うということだ。人はそれを確かめた時点で納得する。もし確かめられなければ、そのうち忘れてしまうこともあるであろう。しかし、疑い続けるということは可能である。一生をかけて。自分の生の是非について。(28)
人を忘れることも、人から忘れられることも、同じ気持ちにさせる。(29)
 こうしてだんだんと、この詩集独自のルールが際立ってくる。このやり方でしか行うことのできない語りがあるのだ。瞑想も、きっとこういう形でしか行えな いのだ。このような唐突で、やけに局所的で、呆気ない言葉でしか思考できない内容がたしかにある。しかもその背後には「まだ一匹も釣れていないが、昼から 多分何匹か釣れるだろう」という「気分」もある。おもしろいのは、瞑想がやがてこの「気分」に戻ってくることだ。次のように。
朝から湖にきて魚を釣っているが、もう夕方だというのに一匹も釣れない。そろそろ帰ることにしよう。今日の晩飯は、パンにチーズ、そしてぶどう酒だ。(30)
 この力強い肯定感は何なのだろう。どうしてこんなに前向きになれるのか。でも読んでいると、こちらまで静かに幸福になったかのような気がしてくる。この 詩集には疑いや呪いの言葉もあるし、全体にわたってどこまでも沈んでいくような引きこむような死の気配もあるのだが、最後の一連の断章にたどり着くと、こ の詩集を読んだのは実に運が良かったと思わせてくれる。詩集はこんなふうに終わる。
日に一度祈る。娘夫婦と孫の健康を願う。私はもう歳だ。いつ死んでもおかしくない私自身のために祈ることはない。(39)
私は友人のために何ができるだろう。友人は私のために何ができるだろう。私の痛みを友人が担うことはできない。友人の痛みを私が担うこともできない。(40)
今日は特別な日だ。私が生まれた日だ。少し前まで特に何も思わなかった。ここ数年、来年もまたこの日を迎えることができるのだろうかと思うようになった。今日は良い日だ。酒は飲むなと医者から言われているが、今日くらいは、ぶどう酒を飲もう。(41)
誰が誰なのかついに整理できないのに、どの言葉もすっと身体にはいってくるのだ。こんなふうに騙してくれる詩集にはそう巡り合えるものではない。




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