2011年7月1日金曜日

kinokuniya shohyo 書評

2011年06月29日

『フィギュールⅠ』 ジェラール・ジュネット (書肆風の薔薇)

フィギュール筫 →bookwebで購入

 フランスの批評家は自分の批評原理をあらわす言葉を評論集の総題にすることがすくなくない。ヴァレリーの『ヴァリエテ』、サルトルの『シチュアシ オン』、バルトの『エッセ・クリティック』などである。ジュネットがタイトルに選んだのは『フィギュール』で、現在Ⅴまで出ている(邦訳はⅢまで)。フィ ギュールには文彩、形姿、数字といった意味があり、はからずも物語論やテクスト論を集大成することになる方向性を暗示していたかもしれない。

 さて第一集であるが、冒頭にフランス・バロック期の詩を論じた三篇の評論が掲げてある。これがすばらしいのだ。

 まず、サン=タマンを論じた「可逆的世界」。鳥と魚はわれわれ二次元に縛られている人間と異なり、三次元の立体空間を自由自在に進むことができ る。サン=タマンは「同時に泳ぎ飛ぶ」二つの種族をシンメトリックにとらえ、水の中の世界と大気の世界がたがいに映発しあい、鱗が羽に、羽が鱗に変ずる不 思議を歌う。

燃える日輪の下、私は何度となく見たのだ、
本物の飛ぶ魚が、あたかも天から落ちてくるのを。
それらは波の中で、貪欲な怪物たちに追われて、
その臆病な翼のうちに避難所を求め、
漂う松の木の中に、あらゆる方向から雨降り、
その黄金の体を甲板に撒き散らした。

 バロック詩についてはウンベルト・エーコとジャン=クロード・カリエールが『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』で熱っぽく語っていたが、確かにこれはすごい。

 次の「ナルシス・コンプレックス」ではバロック詩の偏愛する反映のテーマがバシュラールのいう「宇宙的ナルシシズム」に向かう過程を跡づけ、「黄金は鉄のもとに落ち」ではバロック的テーマの網の目がパスカルやラシーヌにも受けつがれていることを明らかにしている。

 ジュネットというとバルトの弟分で構造主義理論を器用にまとめる人くらいにしか見ていなかったが、こんなテーマ批評の傑作を書いていたのだ。もっと早く読んでおきたかった。

 バロック詩の次はプルースト論だが、登場人物が物語の進行につれて見せていく多面的な像が互いに衝突しあい、否定しあううねりがバロック詩の延長で論じられている。ジュネットの物語論はこのプルースト論が発端らしい。本格的に読んでみたくなった。

 「固定しためまい」はロブ=グリエ論である。昔読んだ時はバルトが『エッセ・クリティック』で当惑気味に語ったロブ=グリエ1とロブ=グリエ2の矛盾をうまく整理していているなと思ったが、バロック詩からの流れで読むと別の相貌が見えてくる。

 ロブ=グリエ的世界の特権的な空間である迷路は、かつてバロックの詩人たちを魅了したあの領域、差異と同一性の可逆的な記号がいってみれば厳密な 混同によって結び合う、存在のとてつもない領域である。その鍵となる語はわれわれのフランス語には存在しないあの副詞であるかもしれない。……中略……そ の語とは、似ているけれども違ったようにという副詞である。この単調でかつ当惑をかきたてる作品群においては、空間と言語が無限の増殖 によって消滅していく。ほとんど完璧にたっしているこの作品群は、まったくそれ自身のやり方で、ランボーのことばをもじって言うなら、「固定した」めま い、つまりおこると同時に消されるめまいであるのだ。

 この一節は『囚われの美女』や『グラディーヴァ』など、ロブ=グリエが監督する映画作品を予告しているといっていいだろう。1960年時点でここまで見通したのはみごとだと思う。

 「マラルメの幸福?」はジャン=ピエール・リシャールの『マラルメの想像的宇宙』の書評として書かれた文章で、テーマ批評と構造批評の間に広がる深い溝を語っていて興味深い。リシャールはテーマ批評の側に残ったが、ジュネットはバルトともにこの溝を越えてゆくことになる。

 「羊の群れの中の蛇」ではふたたびバロック期にもどる。バロック期から古典期への変わり目にあらわれた牧歌物語『アストレ』が主題である。『アス トレ』は数年前、ロメールが映画化して『我が至上の愛』という題で公開されたので必ずしもなじみのない話題ではないだろう。映画を見ていれば決して無菌無 害な少女小説ではなく「世界文学全体の中で最も長大で最も愛すべきエロティックなサスペンス」だという評言もうなづける。

 「文学ユートピア」はボルヘス論で、架空の時空がなだれこんでくる「トレーン、ウクバル、オルビス・テルティウス」を中心に無限の繰りかえしの空間を論じているが、ここにもバロックの影がさしている。

 「構造主義と文芸批評」は最も早い時期に邦訳された論文で、日本ではジュネットの名前はこれによって知られたといっていいだろう。ロシア・フォル マリスムと構造批評の関係をきれいにまとめていてトドロフと五十歩百歩という印象を受けたが、今読んでも同じ感想である。ただ、後の壮大な分類体系を予感 させる部分はある。双葉より芳しであろう。

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