2011年7月29日金曜日

kinokuniya shohyo 書評

2011年07月28日

『マヤ文明 聖なる時間の書』 実松克義 (現代書林)

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 青木和夫氏は『古代メソアメリカ文明』で日本人が仏教という外来宗教から神仏習合の日本仏教をつくりだしたように、マヤ人も多神教的なフォーク・カトリシズムをつくりだしたと指摘しているが、現代マヤ人の精神世界とはどのようなものなのだろうか。

 まさにその疑問に答えてくれる本がある。宗教人類学者の実松克義氏の『マヤ文明 聖なる時間の書』である。実松氏はグアテマラ太平洋側のキチェー地方を1994年から1999年まで6年間フィールドワークし、現代マヤのシャーマン(みずからをサセルドーテ・マヤと呼んでいる)から聞きとり調査をおこなったが、本書はその記録である。

 キチェー地方はマヤの『古事記』というべき『ポポル・ヴフ』 が発見された土地でマヤ文化の色彩が濃く、現在でも多くのサセルドーテ・マヤが活躍している。キチェーのサセルドーテ・マヤは『ポポル・ヴフ』を特に重視 しており、本書の後半は『ポポル・ヴフ』(著者は『ポップ・ヴフ』と表記すべきだという立場に与しているが)の話になる。

 先住民の呪術師というと教育のない貧しい拝み屋さんというイメージがある。確かにそういうサセルドーテ・マヤが多いが、著者の出会った中には大学 教育を受けたインテリもいる。実業家として成功していたり、大学で教えていたり多士済々で、人気のあるサセルドーテ・マヤのところには国外からも依頼者が 来ている。教育があるのになぜイニシエーションを受けて呪術師になるのだろうか。重病をサセルドーテ・マヤに治してもらい、自らの運命に目覚めるというパ ターンが多いようだ。

 サセルドーテ・マヤは宗教を聞かれると一様にカトリックと答えているが、やっていることはおよそカトリックではない。神聖暦で占いをし、壇を築い て火の儀式をおこなう。十字を切るものの、マヤ十字という別の意味あいの十字である。グアテマラのカトリックはマヤ古来の信仰と混淆しているのである。

 シンクレティズムの象徴というべきはサン・シモンという神格である。サン・シモンというといかにもカトリックの聖人のようだが、聖書に出てくる9 人のシモンとは関係がなく(関係があると言い張っている人もいるが)、シモン兄さんとかシモン兄貴と気安くお願いできる現世利益の神様として広く信仰を集 めている。

 サン・シモンは10月28日が誕生日だったり、「五人の博士」という治癒神になったり、マシモンという怖い神様に姿を変えたり得体が知れないが、 研究者によると信仰の歴史は古くはなく150年ほど前、教会の土着信仰弾圧を期にはじまったらしい。サン・シモンといういかにもカトリック的な装いをまと わせることで土着の神の温存を図ったということだろう。

 マヤ十字も興味深い。マヤに十字架のシンボルがあったことはパレンケのレリーフでも明らかだが、もともとは世界樹だったマヤ十字がキリスト教の十 字架と習合してしまい、「父と子と聖霊、聖人の名において」という祈りの言葉は同じながら、心の中では死霊の住むマヤの世界が表象されているというのだ。 マヤ十字の詳しい意味あいについては人によって異なるが、十字架の横棒が黄道、縦棒が黄道と交差する銀河、さらに十字架の二次元に垂直に雨の軸が貫き、マ ヤの立体的な宇宙像をあらわすという解釈まである。

 260日周期の神聖暦も考古学上の遺物ではなく占いの暦として普及していて、日本の神宮暦くらいにはポピュラーなようだ。

 神聖暦にはいろいろな解釈があり、サセルドーテ・マヤごとに違うといっても過言ではないらしい。しかし時間を生命の動きそのものとしてとらえるという点では共通しているようだ。

 最後に『ポポル・ヴフ』だが、これが一筋縄ではいかない。16世紀にキチェー人の貴族がアルファベットで音写したキチェー語の原本を18世紀にフ ランシスコ・ヒメネス神父がチチカステナンゴで発見し、筆写してスペイン語訳を付して書庫に残した。それが150年後に再発見されるという経緯をたどる が、ヒメネスがつくった写本しか残っていないのでテキストの信頼性に疑問がもたれているのである。

 『ポポル・ヴフ』には十を超える現代語訳があるというが、その中でキチェー語のテキストを本来の形に復元するところからはじめたチャベスの翻訳があり(『ポップ・ヴフ』はチャベスが復元した発音)、キチェーのサセルドーテ・マヤの多くから支持されているというのである。

 本書の後半ではチャベス訳を評価するヴィクトリアーノ・アルヴァレス・フアレスと彼が主宰するグアテマラ・マヤ科学研究所の見解が紹介されている。実松氏はチャベス訳について『マヤ文明 新たなる真実』という本を別に書いておられるので、興味のある方はそちらを見られたい(中公文庫の『ポポル・ヴフ』とはまったく違う)。

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kinokuniya shohyo 書評

2011年07月28日

『病院の世紀の理論』猪飼周平(有斐閣)

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「現代社会が待望する医療史研究、ようやく現る!」

以前当ブログで取り上げたアーサー・フランク『傷ついた物語の語り手』(2006年6月)に ついて、「回復の物語(the restitution narrative)」が私たちにとって基本的な概念であることを述べました。ここでの「回復(restitution)」は「すっかり元通り」という意 味ですが、私たちの社会は、発達した医療によってあらゆる病いが「回復(restitution)」に導かれることへの期待が高まってきた社会だといえま す。このことを「病院」(そして、とりわけ「医師」)という観点からはっきりと物語る研究がこの本です。

著者の猪飼周平さんは、現在一橋大学大学院(社会学研究科)の准教授を務めておられますが、彼が東京大学大学院(経済学研究科)在籍中、いわばお隣にあた る人文社会系研究科に所属していた私と研究仲間による「ミクロ社会学研究会(通称名:はげけん)」に、足しげく出向いて参加されていたことがありました。 彼の学際的な知的好奇心と、専門外の場でもものおじしない闊達さには、一同大いに感服し刺激を受けたものですが、この本はその当時を彷彿とさせるようなユ ニークで質の高い内容になっています。

この本の位置づけを一言で表現するならば、伝統はあるのだけれどなぜか理論的に刷新されてこなかった医療史研究を、現代社会的な感覚にフィットするようリニューアルさせた一冊、といえると思います。

伝統的な理論の代表格として挙げられているのが「医療の社会化」論です。これは、日本社会が資本主義化する中で開業医は営利主義化し、農村部などの 医療を見捨て荒廃させた、だから公共的な医療供給による医療システムへ転換すべき、と主張するものです(『病院の世紀の理論』138ページ)。これに対し て猪飼さんは、内務省『衛生局年報』という資料をもとに、1910年、1913年、および1927年の公立/私立病院の市部/郡部別分布を描き出し、公立 病院よりも私立病院の方が郡部に高い比率で分布していたことを示します(同書162ページ)。たとえばこのような点をふまえると、農村部の医療が完全に荒 廃してしまわずに済んだのは、開業医による病院が農村部に比較的近いところにもある程度分布していたから、という見方が可能であり、つまり、開業医は「営 利化」して農村を見捨てた、という見方が史実に合致しない一面的な見方である(むしろ、開業医による病院の存在が医療の地域格差の拡大に一定のブレーキを かけていた)と見えるわけです。このように、残された資料を駆使して、日本社会の医療供給システムの成り立ちと経緯をあぶり出し、先行研究と史実との食い 違いを明らかにしていくところは、まさに歴史研究のだいご味であり、この本の基本的な魅力にもなっています。

さて、上に述べたような開業医は、日本社会において長らく安定的に機能した医師養成システムによって、供給されてきました。この養成システムは、 20世紀前半に徐々に形成されてきたものですが、特に戦後には「医局」と呼ばれる非公式な組織が重要な役割を果たします。若手の医師は、この医局によって ローテーション的な研修を義務づけられます。そして多くの場合40代以降、ある程度専門性を深化させた「一人前」の医師として認められ、そこからのひとつ のキャリアパタンとして「開業」が選択されるわけです(同書第8章)。こうしたやり方は、イギリスともアメリカとも違う日本独特なやり方で、20世紀の病 院に医師を安定的に供給し、その存立を支えてきました。そのおかげもあって、20世紀は「病院の世紀」として、私たちが「病気になった。病院に行った。元 通りになった」という「回復の物語(the restitution narrative)」を語りやすい(かのように思える)時代の空気を産み出した、と考えられます。

しかし、猪飼さんは、「病院の世紀」は早晩終焉を迎える(その変化は既に現在進行中のものかもしれない)ことに、読者の注意を促します。ひとつに は、治療医学の進歩それ自体によって、病院を医療資源としての効率的に運用するという指向性が出てこざるをえないと考えられます。つまり、治療必要度の高 い急性期の患者に治療技術を集中的に振り向けるための場として機能するようにならないと、運営上の効率も悪いし、医療従事者の技能形成にとってもマイナス 面がでてきます(同書223ページ)。また、生活習慣病や、その他の慢性疾患、あるいは終末期医療などが前面に出る時代の流れにあって、医療は、もはや 「回復(restitution)」に直接結びつけられるとは限らず、むしろ、生活の質(Quality of Life=QOL)という多様で曖昧さがつきまとう目標を達成するための(不可欠だがあくまでもひとつの)手段、という位置づけへと変化していくと考えら れます(同書第7章)。こうした流れに沿って考えれば、私たちが体験する病いの物語において、病院はある限られた場面でのみ舞台場となる、というイメージ が今後社会的により広がっていくかもしれません。

私たちにとっての「病院」がどのような存在なのか、その20世紀的なありようを丁寧な資料分析をもとに描き出すと同時に、「病院」の今後の姿はどう なるのかという現代的な関心にも応えようとする一冊です。一見とっつきにくく見える専門書ではありますが、歴史研究としての面白味は、随所にある図表(さ ながら、マニアが作る精巧なプラモデルのよう)から感じることができるでしょうし、また、現代社会における医療の趨勢に関心のある人ならば、特にこの本の 後半各章に引きこまれ、いろいろと考えさせられるだろうと思います。


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kinokuniya shohyo 書評

2011年07月26日

『マヤ文明の興亡』 エリック・S・トンプソン (新評論)

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 本書は1975年に亡くなるまでマヤ学の最高権威として君臨したエリック・S・トンプソンの主著であり、「20世紀最大のマヤ文明のベストセ ラー」ということである。初版は1954年、第二版が1966年だが、邦訳が出たのは最近で2008年に日本のマヤ研究の第一人者である青山和夫氏によっ て訳出された。

 第二版からでも半世紀近い時間がたっている。半世紀が短いか長いかだが、この間にマヤ像は一変している。本書の第二版が出版された頃からマヤ文字 の解読が急速に進み、碑文から王朝の歴史が読みとれるようになったからだ。今日のマヤ学を代表するマイケル・コウは第二版の出たのと同じ1966年に『古代マヤ文明』を出版したが、現在までに6回改訂版を出している。

 コウの『マヤ文字解読』 によると、トンプソンは取りまきとともにマヤ文字の解読の動きを攻撃しつづけ、解読の成果を頑なに受けいれなかった。トンプソンの説は現在では多くが否定 されており、本訳書では本文中の現段階で誤りとされている箇所にいちいち脚注をつけ、「その後の調査では……」とか「現在の解釈によれば……」と訂正をお こなっている。さらに巻頭の「訳者序文」ではトンプソンの時代・地域区分を現在の区分の違いを解説し、巻末の「訳者解説」では最新のマヤ文明観を略述して いる。

 現代のマヤ学の水準から取り残された過去の遺物を青山氏はなぜ半世紀もたってわざわざ翻訳したのだろうか。

 青山氏は困難な野外調査をおこない20世紀前半までのマヤ学を総合したトンプソンの功績を評価する一方、テレビや一般書でおもしろおかしく描かれ る「歪められたマヤ文明観」の源流がトンプソンの神秘的マヤ観にあること、20世紀半ばまでのマヤ学がトンプソンに代表される欧米の上流階級出身の趣味的 なマヤ学者によってになわれ、彼らの価値観が「神官支配階級と農民の二階層社会」や「農民の反乱による衰退」といった事実にもとづかない解釈を生んだこ と、現在のマヤ学がトンプソンの学説との対決を通じて形成されたことを指摘している。いくら過去の遺物とはいっても、議論を細かいところまで理解するには 暗黙の前提となっている本書を読んでおく必要があるのである。

 しかし、それだけならマヤ学をこころざす人が原書で読めばすむ話だろう。わざわざ一冊まるごと翻訳したのは青山氏に本書に対するなみなみならぬ思 いいれがあったからではないか。本書は注釈を欧米の本のように同じ頁の下部に脚注として組みこんでいる。脚注の方が参照しやすいが、組版に手間がかかるの で日本の本ではめったにおこなわれていない。脚注を実現したのは相当なこだわりである。

 わたし自身が本書に興味をもったのはコウが『マヤ文字解読』でトンプソンを愛憎半ばする筆致で描きだし、彼の文体を次のように酷評するのを読んだからだ。

 エリックの発表したものを私が手放しで賞賛しかねる第一の原因は、彼の文章スタイルではないかと思う。彼の学識の深さときたら、並大抵のものでは ない。論文や本にはいつも、文学や神話からの重々しい引用が詰め込まれている。代表作『マヤ象形文字』では、各章の冒頭に、内容と関係ないイギリスの詩人 や散文作家の言葉が引用されているが、私はそれをひどく不快に感じる。そうしたもったいぶった書き方は、わずらわしいだけである。だが、悲しいかな、考古 学者、とりわけラテンアメリカの学者には、非常に魅力的にみえるようだ。

 ここまでボロクソに書かれると、逆に読んでみたくなる。本書が3年前に邦訳されていたことを知り、古典というにはまだ早すぎる本をなぜ今訳すのだろうといよいよ興味をそそられた。

 読んでみてわかった。コウは酷評しているが、トンプソンは第一級の文章家であり、ほとんど文学作品のレベルに達しているのである。

 古典期の繁栄の末期に向けて、マヤの諸都市は秋の紅葉のような明るい色合いをなし、その後、落ち葉が落ち始めた。一枚また一枚と、諸都市における 様々な活動が停止した。新たな石碑は建立されず、神殿や「宮殿」が建設されなくなった。いくつかの都市では、建設活動が急に停止したために、その上に建物 を建てるべく建造された基壇の上に何も建てられずに放棄された。そしてワシャクトゥン遺跡では、最後の建物の壁が未完成のまま残された。マヤ文字の碑文に 刻まれた最後の日付から、こうした諸活動が停止した時期を最も正確に推定することができる。
 コパン遺跡では、シャルルマーニュがローマ教皇から西ローマ帝国の帝冠を受けた後800年に、石造記念碑に最後の碑文が刻まれた。

 訳注によればコパン遺跡の最後の日付は822年であることが判明したということであるが、この文章を読むとそれくらいの間違いはどうでもいいという気分になる。

 野外調査を回想した条は神秘とロマンにあふれている。

 小道は南の方へ曲がっていたが、再び熱帶雨林の中に入る急な坂道の前で西に向きを変えた。突然、私たちは畏敬の念を起こさせる光景をちらっと見 た。ティカルの大神殿ピラミッド群のうちの4基が、周囲のジャングルの上に聳え立っていたのである。それらは、草木の葉で覆われていた。石灰岩製の古代の 神殿を基壇の上に戴き、空を背景に、灰色がかった白色で、まるで頂上に白い雲がかかった緑茂る火山のようだった。私たち「巡礼者たち」は、新世界のカンタ ベリー市の入口まで来ていたのである。

 トンプソンはティカル入城をチョーサーの『カンタベリー物語』のイメージに重ねて語っている。文学趣味に淫しているといえばその通りであり、コウ が論文はヘミングウェイのように簡潔に書くべきだといまいましげにいうのもわからないではないが、文学畑の人間としてはトンプソンのスタイルに魅せられる のも事実だ。勝手な推測だが、青山氏が本書をわざわざ日本語にしたのもトンプソンの文章に惚れこんだからではないだろうか。

 コウが批判するトンプソンのマヤ文字観はどのようなものだったろうか。

 マヤ文字の研究は、今や不確定で欲求不満の段階にある。一部の学者たちは20世紀の半ばから、解読の鍵を見出したと主張しているが、その方法や結 果は一致しない。ある1つの文字素について、碑文研究者の数だけ解読があり得る。マヤ文字は部分的に音節文字であり、アルファベット的であるという主張が なされているが、これは承認し難い。遠く離れたシベリアでコンピュータ解析が行われ、この説が提示されているが、コンピュータはソーセージ製造機のような ものである。

 「欲求不満」は「挫折」と訳すべきだろう。1960年代前半の時点で碑文学者の数だけ解読があるような状態だったかどうかはわからないが、「遠く 離れたシベリア」とは明かにレニングラードのクノローゾフを指している。レニングラードをシベリア呼ばわりとはひどい言い方だが、トンプソンはクノローゾ フの名前をまったく出さずにコンピュータが自動的に解読したかのような揶揄的な書き方をしている。なまじ文才があるだけに印象操作はお手のものだ。

 しかし多くの間違いと偏見を含んでいるにしても、本書は読みふけらずにはおれない本である。神秘とロマンのマヤという古いマヤ観を悪魔祓いするためにも、本書の翻訳は意義があるだろう。

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kinokuniya shohyo 書評

2011年07月27日

『古代メソアメリカ文明』 青山和夫 (講談社選書メチエ)

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 『マヤ文明の興亡』の訳者解説がよかったので、同じ青山和夫氏による本書を読んでみた。表題の「古代メソアメリカ文明」とはコロンブス到達以前に中米地域(メソアメリカ)に勃興した文明のことで日本の室町時代に相当する期間までを含み、一般的な意味での古代のことではない。2007年の刊行だが、一般向け概説書としては最新の内容といえよう。

 著者はまず旧大陸中心の「四大文明観」を批判し、メソアメリカと南米中央アンデスにもエジプトやメソポタミアに匹敵した文明が誕生していたとして 「六大文明観」を提唱する。アメリカ大陸の文明は金属器を生みださなかったが、高度に発達した石期と土器だけで農業を基盤とした都市を築き、エジプトに匹 敵するようなピラミッドを建造した。2世紀から隆盛したテオティワカンはローマをもしのぐ人口を擁し、碁盤の目状の整然とした計画都市を作りあげた。中 米・南米ともに大河はないが、乾燥地でも育つトウモロコシやジャガイモ、サツマイモ、カボチャなどが貧弱な野生種から品種改良され、現在では世界中に広 まって重要な食料となっている。「六大文明観」に異論のある人はいないだろう。

 本書はメソアメリカの文明を発祥順にオルメカ、マヤ、サポテカ、テオティワカン、トルテカ、アステカとたどっていく。

 メソアメリカでは旧大陸やインカのような大帝国は誕生せず、各地域の文明はゆるいネットワークで結ばれていたが、そこで重要な役割を果たしたのは 翡翠や鳥の羽、工芸品といった威信財だった。密林などに阻まれて大量の物資を輸送するのは困難だったが、支配層は持ち運びのできる希少な威信財で自らの権 力と権威を正当化したわけである。

 まずオルメカである。オルメカはメキシコ湾の南岸に自生したメソアメリカ最古の文明であり、黒人を思わせる巨石人頭像から以前はオルメカ=アフリ カ起源説が唱えられたこともあったが、巨石人頭像のような風貌は現地の先住民に見られ、現在ではオルメカの美術様式と考えられているそうである。

 従来はメソアメリカの他の文明を生みだした「母なる文明」と考えられていたが、現在ではオルメカでモニュメントが作られる以前からメソアメリカの さまざまな地域の間で遠距離交易があって刺激をあたえあい、その中で最も早く文明を形づくったのがオルメカだとする「姉なる文明」説が有力になっていると いう。

 著者は「姉妹文明」説を踏まえながらも、オルメカには「母なる文明」という面があったのではないかとしている。オルメカ衰退後にメソアメリカ各地 で文字と長期暦が同時多発的に発達しており、オルメカに起源があった可能性があるのである。特に文字については2006年にサン・ロレンソ近くのカスハル 遺跡でメソアメリカ最古の文字が発見されている。

 文字と暦の起源は置くとしても、オルメカが他地域に先行して政治経済組織を発達させたことは間違いなく、他地域でもオルメカ様式をとりいれた工芸品が作られていた。オルメカの影響は絶大だったのだ。

 次はマヤであるが、『マヤ文明の興亡』の訳者解説に加筆したようなよく似た文章である(ところどころ同じセンテンスがある)。刊行は本書の方が一年早いから、本書のマヤの章を圧縮したのが『マヤ文明の興亡』の訳者解説なのかもしれない。

 コウの『古代マヤ文明』にも書記や絵師、彫刻師の社会的地位が高いことは書かれていたが、著者はアグアテカ遺跡で石器の摩耗痕の調査をおこない、貴族が工芸品を作っていた事実を突きとめている。

 研究の成果としては、第一に、発掘されたすべての支配層住居跡から、美術品および実用品の半専業生産の証拠が見つかり、王家の人びとおよび高い地 位の宮廷人をふくむアグアテカ支配層のあいだで、手工業生産が広くおこなわれていたことが明らかになった。男性の支配層書記は、石碑の彫刻や、貝・骨製装 飾品や王権の宝器のような美術品の製作をおこなった。支配層の女性も、調理だけでなく、織物や他の手工業生産に半専業で従事した。熟練した支配層工人が生 産した、石彫、多彩色土器、貝・骨製品、織物などの美術品は価値が高く、製作活動自体が超自然的な意味を包含したと考えられる。こうした洗練された美術品 の製作は、知識教養階層の王族・貴族と被支配層との地位の差異を拡大し、宮廷における権力争いでも重要な役割を果たした政治的道具であったといえよう。

 マヤでは貴族が職人と神官を兼ねていたのである。また焼き畑農業に依存していたというのも正しくはなく、焼き畑と集約型農業を併用していたそうである。

 マヤよりすこし遅れて紀元前500年頃、メキシコ盆地の南に位置するオアハカ盆地の中央にモンテ・アルバンという都市が築かれる。モンテ・アルバ ンはオアハカ盆地を統一し外部に勢力を広げて紀元後700年頃まで繁栄をつづけることになる。これがサポテカ文明で、「踊る人々」と呼ばれる人身御供にさ れる戦争捕虜を描いたレリーフやマヤに次ぐ複雑な文字体系を作りあげたが、日本人研究者がいないので日本での知名度は低いということである。

 サポテカ文明がオアハカ盆地の外に進出しはじめた頃、メキシコ盆地の中央でテオティワカンが出現する。テオティワカンの人口は最盛期の紀元後 250~500年には20万に近く、ローマをもしのぐ規模だった。モンテ・アルバンとの関係はよくわかっていないが、軍事的に対立していたことはなく友好 的な関係だったらしい。

 テオティワカンは黒曜石交易を独占した一大帝国とされていたが、その後黒曜石の大半は域内で消費され、メソアメリカ最大の商業中心地ではあっても、直接統治していた領土はメキシコ盆地に限られていたことがわかっている。

 しかしテオティワカンの権威は絶大で、マヤの王の中にはテオティワカンの衣装をつけた像を作ったりしてテオティワカンとの関係を誇示する者が多 かった。テオティワカン人が征服したという説もあったが、被葬者の調査ではマヤ出身であることがわかった。権威づけのためにテオティワカン風の衣装を利用 していただけだけのようだ。

 紀元後800年頃になるとテオティワカンとサポテカが相次いで衰退し、メソアメリカは群雄割拠の戦国時代の様相を呈するようになる。その中で頭角をあらわしたのがメキシコ盆地北部にトルテカ人が築いたトゥーラである。

 トゥーラはトルテカ帝国としてマヤまで支配下においていたという説があったが、実際は国際商業都市にすぎなかった。トゥーラを実像以上に持ちあげたのはアステカ人で、トルテカ人との系譜を捏造しトルテカ人の文化を誇張することで自らを権威づけようとした。

 さて最後のアステカだが、貨幣として使われていたカカオ豆の贋物が出回っていたというのには驚いた。カカオ豆の外皮の中に蠟や他の豆の粉を挽いた練り粉や泥を詰めこんであるそうだが、中国人もびっくりである。

 終章ではスペインの征服は従来考えられていたほど完全なものではなく、常に反乱が起こってスペインの統治の及ばない地域が存在しつづけていたこ と、先住民は強制された文化要素を取捨選択したり自己流に解釈したりして新たな文化を創造しつづけていたことを指摘している。先コロンブス期の文明は「現 代から隔絶したものではない」というのだ。

 先住民のしたたかさを示すエピソードを最後に紹介しよう。アステカがコルテス率いるわずか160人のスペイン遠征隊にやすやすと敗れたのはアステ カ人が白人を見てケツァルコアトルの再来と勘違いしたからだという説が広まっているが、これは先住民支配層の捏造だというのだ。

 モクテスマ二世王が、10世紀にトゥーラを追放された、トピルツィン・ケツァルコアトル王の一行が「一の葦」の年にあたる1519年に帰還すると いう「神話」を信じて、コルテスを神格化したケツァルコアトル(羽毛の生えた蛇神)の再臨と勘違いしたともいう。これに対して、フロリダ大学のS・ジレス ピーは、民族史料を詳細に検討して、アステカ人の王族・貴族が、屈辱的な敗北を正当化するために、「神話」を捏造したことを明らかにしている。

 マヤの都市間の権謀術数を知っている人ならさもありなんと思うだろう。メソアメリカの人々は一筋縄ではいかないのである。

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kinokuniya shohyo 書評

2011年07月26日

『英国メイドの日常』村上リコ(河出書房新社)

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 小学校中・高学年のとき、「演劇」と称するごっこ遊びが流行っていて、それはたいてい、シンデレラをはじめとするお姫様もののおとぎ話や、『小公女』や『嵐が丘』や、それを下敷きにしたような少女マンガや昼メロドラマがまぜこぜになったお話なのだった。

 舞台は西洋風のお屋敷。奥様、お嬢様(やさしいお嬢様と意地悪なお嬢様がいる)、そして召使いがおきまりのキャスト。脚本があるわけではなく、 やっているうちに何となく話が進んでいくもので、たいていはなんの創造性もないベタな筋書きだが、たまに、誰かの不意の台詞やアクションが思いもよらない 展開を呼んだりもする。しかし、あそこで皆がしたかったのは、「意地悪な金持ち奥様・お嬢様VS貧しいメイド」の図そのもの、俗に言う「プレイ」みたいな ものだったのだと思う。

 そしてみな、いじめられる側のメイド役をやりたがるのだった。これに抜擢された子は、黒いワンピースを着て、胸当てのあるエプロンをし、頭にはあ の、フリルの飾りをつけた「つもり」になって、奥様やお嬢様にこき使われ、いじめられるのである。かねてから、あの頭の飾りは何というものなのだろうと 思っていたが、装飾機能だけを残して小さくなった、もとはといえば帽子なのだと本書によって知った。

 本場英国のメイド達にとって、メイドキャップはいやがおうにも自らの階級を思い知らされる「隷属の証」として忌むべきものだったと本書にはある。

 「ひとたびメイドのキャップとエプロンをつけたら、自分は卑しい召し使いになるのだということはわかっていた。誰でもない人間、立場をよくわきまえた。一番下の棚の売れ残りみたいな存在だ」

 これは、「一九一四年に生まれ、コッツウォルズのコテージでジェネラルメイドとして働いたウィニフレッド・フォリー」の手記である。

 十九世紀から二十世紀にかけてのイングランドとウェールズでは、職業を持つ女性の最多数がメイドだったという。彼女たちは、どのようにして仕事に 就き、どんなところで寝起きし、どんなものを食べていたのか、どんな買い物をし、どんな休日を過ごし、どんな恋愛をしたのか、そしてその未来は? 本書は、歴史の表舞台にあらわれることもなく、文学のなかでは脇役に過ぎない「いちばんふつうの女の子たち」に光をあて、その仕事と生活を紹介する。

 メイドが描かれた風俗画やポストカード、雑誌の図版や広告、主人によって撮られた集合写真やチープや名詞写真など、さまざまな図像が豊富におさめられていて見飽きることがないが、文中のそこかしこに引用される、メイド経験者たちの自伝や回想録での、「証言」も興味深い。

 自伝だけでなく、料理書や小説もものして人気作家となったマーガレット・パウエルの『階段の下(Bellow Stairs)』(1968)。各地の大邸宅に勤めたアイリーン・ボルターソンの『カントリーハウスの裏階段の生活(Backstairs Life in a Country House)』(1982)。ロジーナ・ハリソンの『ローズ:使用人としての私の人生(Rose:My LIfe in Service)』(1975)。ジーン・レニーの『1週おきの日曜日(Every Other Sunday)』(1955)。バーナード・ショウやチャーチルにも仕え、ロバート・アルトマン監督のカントリーハウスが舞台の映画『ゴスフォード・パー ク』では使用人生活のアドバイザーを勤めたというヴァイオレット・リドルの『善き方、偉大な方に使えて(Serving the Good and Great)』(2004)等々。

 英国では元メイドが綴った当時の話がこうして出版されているらしい。本書にとりあげたものの中では、ウィニフレッド・グレースという元メイドが 語った当時の生活をまとめた『イギリスのある女中の生涯』(シルヴィア・マーロウ編、徳岡孝夫訳、草思社、1994)が邦訳されているくらいで、どれも日 本語で読めないのが残念だ。

 それはともかく、名ばかりでその実体を知ることのなかったメイドの事細かな日常を詰め込んだ本書の�盛りのよさ�はすばらしい。当時の文学を読む ときの一助にもなるだろう。時代背景や階級制度、女子教育についてなどのコラムも充実している。私がうれしく読んだのは第6章「メイドの制服」のなかに あった「モスリンってどんな布?」というコラム。ここには、モスリンをはじめサージ、サテン、タフタといった、かつてどこかで読んだり聞いたりしたことは あるが、正確には知ることのなかった生地の素材や織り方や用途が記されていて、長年の胸のつかえがとれた。「タフタのドレス」なんて、その西洋的な語感を 感じるだけで、素通りしていたのだ。

 思えば、子どもの頃のごっこ遊びの、「つもり」のメイドスタイルは、西洋へのあこがれのなせる業だった。現実には、メイドは最下層の労働者で、現 在の常識からすれば不当ともいえる低い賃金で過酷な労働を強いられていた歴史があったとしても、戦後昭和の日本の女の子たちの目には、それは西洋風のすて きな衣装に映っていた。
 著者は、ヴィクトリアン時代を舞台にしたアニメーションの時代考証の仕事もしているという。本書もまた、昨今おなじみとなった、「つもり」ではない実際のメイドスタイルに影響を及ぼすのかもしれない。


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2011年7月26日火曜日

asahi shohyo 書評

慈しみの女神たち(上・下) [著]ジョナサン・リテル

[評者]斉藤環(精神科医)

[掲載]2011年7月24日

表紙画像著者:ジョナサン リテル  出版社:集英社 価格:¥ 4,725


■凡庸な虐殺者へ執拗な問いかけ

  恐るべき小説だ。二段組上下巻計一〇〇〇頁近いその浩瀚(こうかん)さもさることながら、執筆時三十八歳という作者の年齢、ハイパーリアルな筆致で描き込 まれた細部の膨大さ、ゴンクール賞とアカデミー・フランセーズ文学大賞ダブル受賞という栄冠に加え、全世界で130万部を売った問題作。すべてが桁外れ だ。

 語り手である主人公は、もとナチ親衛隊将校で、フランス人として戦後を生き延びたマックス・アウエという老人だ。ナチスを主題 としたフィクションは数多いが、その多くは犠牲者視点かヒトラーその人に焦点化したものであり、こうした視点は珍しい。さしずめ副題は『凡庸な虐殺者の肖 像』ともなろうか。

 そう、問題はこの凡庸さにある。これは、ホロコーストに深く関与して戦後処刑されたアイヒマンについてハンナ・アーレントが述 べた「倒錯してもいずサディストでもなく、恐ろしいほどノーマル」(『イェルサレムのアイヒマン』)という形容を念頭においてのことだ。ただしそれは、 けっして「凡庸=ノーマル」という意味ではない。

 法学博士のアウエは、常にポケットにフロベールの『感情教育』を携行し、あろうことかアイヒマンとカント倫理学について議論す るような青年だ。「個人の意志の原理が〈道徳律〉の原理となりうるようにすべし」という〈定言命法〉は、「自らの意志を〈総統〉の意志として」とあっさり 言い換えられ、ユダヤ人殲滅(せんめつ)を正当化する原理にすり替えられる。死体の臭いに吐き気をもよおしつつも、導入部では「殺す者は、殺される者と同 じように人間なのであり、それこそが恐るべきことなのだ」などと、ぬけぬけと語るアウエ。

 教養人として申し分がないほど〈凡庸〉なアウエが殺人に関わっていく過程は、いかなる病理とも無関係だ。複雑きわまりない指揮 系統と人間関係の集積からなる、時に退屈な日常が彼を変えていく。明晰(めいせき)な意識と十分な内省能力を持ってしても、〈殺人〉は防ぎ得ないというこ と。いまや私は確信する。ホロコーストの問題は、ドゥルーズの言う「潜在性」の問題にほかならないのだと。それは「あなたもそれをなし得た」という「可能 性」の問題とは決定的に異なる。むしろそれは「なぜそんなことがなされえたのか?」という執拗(しつよう)な問いとして、私たちにつきまとう。

 この種の潜在性を確実に抑圧するには、別の〈現実化〉の回路が必要だ。本作の真に「恐るべき」功績は、こうした〈現実化〉のための、この上なく見事な形式を発見したことによって極まる。

    ◇

 菅野昭正他訳/Jonathan Littell 67年、米国生まれ。米仏で育ち、現在はスペイン在住。

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慈しみの女神たち 上

著者:ジョナサン リテル

出版社:集英社   価格:¥ 4,725

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慈しみの女神たち 下

著者:ジョナサン リテル

出版社:集英社   価格:¥ 4,200

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感情教育 上 (河出文庫)

著者:ギュスターヴ・フローベール

出版社:河出書房新社   価格:¥ 893

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感情教育 下 (河出文庫)

著者:ギュスターヴ・フローベール

出版社:河出書房新社   価格:¥ 893

kinokuniya shohyo 書評

2011年07月23日

哲学の歴史 01 哲学誕生』 内田勝利編 (中央公論新社)

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 中央公論社は創業120周年を記念して2008年から『哲学の歴史』全13巻を刊行した。近年にない大規模なシリーズで2008年度の毎日出版文 化賞特別賞を受賞しているが、難解な専門書ではなく新書に近い手軽さで読めることがわかったのでこれから一年かけて紹介していこうと思う。

 各巻は目次の後、「イメージの回廊」として地図や写真、図版が12頁にわたっておさめられている。第1巻でいうと哲学者の彫像の写真が2頁、『ニ コマコス倫理学』の15世紀の写本の書影が1頁、エーゲ海をはさんで小アジアからギリシアにかけての地図が見開き2頁、ギリシア的な世界観の基本である四 大元素(地・水・火・空気)関連の図版が9頁である。

 責任編集者の総論につづいて、ソクラテス以前の哲学者からアリストテレス学派まで、8章にわたって専門の研究者による各論がつづく。章の末尾には 数頁のコラムがつく。たとえば「ギリシア七賢人」では選ばれる顔ぶれにかなりのバリエーションがあるが、その多くは政治家であり、ギリシア人の考える叡智 の原型が示されているとし、「プラトンとアトランティス伝説」ではアトランティスに関する史料はすべてプラトンにさかのぼり、プラトンの創作の可能性を否 定できないと指摘した後、プラトンがアトランティスにこめた意図を忖度している。

 巻末には索引と参考文献、執筆者略歴、年表、代表的な哲学者の生没年を図示したクロノロジカル・チャートがおさめられている。参考文献は各章ごと に「原典と翻訳」と「研究文献」にわけて記載されており簡単なコメントがつく。パルメニデスの「原典と翻訳」では井上忠氏と鈴木照雄氏の著書があげられて いるが、コメントはこんな具合である。

 現在参看できる日本語の専門的研究書はこれら二書のみ。両書が描き出すパルメニデス像は比較することが意味をもたないほど異質である。

 こんなことを書かれたら、読みたくなってしまうではないか。

 さて、第1巻である。「総論 始まりとしてのギリシア」ではタレスからアリストテレスにいたる250年間の営みをまず次のように一筆描きする。

 もともと彼らのあいだにあっては、哲学とは何か一個の学術として固定されたものではなかった。本質をなすのは「知」それ自体ではなく、むしろ既成の知に満足することなくそれを超え出てさらなる知の高みを求めようとする意欲(ピロソピアー=知の愛求)にあった。

 次いで本巻の構成にしたがって、時代順に政治情勢をからめながら学派を紹介していくが、最後に哲学史はアリストテレスが創始したものであり、今日 に伝わる断片はアリストテレス学派の学説誌を経由してきたこと、したがってアリストテレスの着目した観点以上に「より広汎な「知」の伝統が、けっして無視 できない力で、哲学の形成を促してきた」ことに注意を喚起している。

 各論に移ろう。

「1 最初の哲学者たち」

 タレスとミレトス学派をあつかう。ギリシアの知の営みはオリエントの先進地域と接した小アジアのイオニア地方ではじまったが、ギリシア人は複数の先行文化に直面することによって、単に受けいれるのではなく相対化しつつ脱神話化して摂取することができたとする。

 タレスでいえば、水に着目したその思想の背後にエジプトやバビロニアで一般的だった水神創世神話があったのは確実だが、単に水の神を受けいれるのではなく、宇宙全体を水という統一的視点から把握しようというスタイルはタレス独自だったというわけだ。

 宇宙全体を統一的に把握しようとするタレスのスタイルはアナクシマンドロスやアナクシメネスという後継者をうることで確固とした知の営みとして発展していくが、ペルシアの圧力によってイオニアは衰退し、ピュタゴラスらは南イタリアに移住することになる。

「2 エレア学派と多元論者たち」

 哲学の新たな中心となったのは南イタリアのエレアで、この地で生まれたパルメニデスは初期ギリシア哲学の分水嶺となった。パルメニデスはあるもの はあり、あらぬものはあらぬと同語反復のようなことを説いたが、これはあるものはずっとあり、あらぬものはずっとないということであり、あらぬものからあ るものが生じることはないという変化の否定を含意している。ゼノンの有名な背理もこの変化否定の応用問題にすぎない。

 パルメニデスの命題は同語反復だけに反論のしようがない。しかし変化はある。変化をどう説明したらいいのか。

 この難題を解決するために編みだされたのがエンペドクレスの四大に「愛」と「争い」をつけくわえた宇宙論であり、万物は不生不滅の原子の組みあわせからなるとする古代原子論である。

「3 ソフィスト思潮」

 前5世紀はじめにペルシャの侵攻をスパルタとともに阻止したアテナイは政治的にも経済的にも文化的にもギリシア世界の中心となる。アテナイは成人 男性市民による直接民主政で治められており、弁論術を柱とする市民教育の需要が増大した。こうしてギリシア各地から一流の知識人が集まった。

 彼らはソフィストと呼ばれ、弁論術を教えるところからいかがわしいと見なされることが多かった。普通のアテナイ市民から見ればソクラテスやプラトンもソフィストの一味である。

 ソフィストは多彩な背景を持った人々であり一致した教説があったわけではないが、法律・慣習はポリスごとに異なるという相対主義では共通しており、本章ではそれを「ソフィスト思潮」と呼んでいる。

「4 ソクラテス」

 ソクラテスはペルシャ戦争勝利後のアテナイの高度成長期に青年時代をすごした。『弁明』では否定しているが、若い頃イオニア自然学にかぶれたことがあるのは確実だろうという。

 しかし40歳の頃、繁栄に酔いしれていたアテナイはスパルタとペロポネソス戦争に突入し、20年間の戦いの末に敗北することになる。同盟国は離反し、政治は混乱をきわめる。ソクラテスに対する告発と刑死はこの混乱の中で起きた。

 中年以降のソクラテスは自然学探求から離れ倫理の問題に集中するが、この方向転換の説明がクセノポンとプラトンでは異なる。この違いから「無知の知」を深めていく条が本章の読みどころだろう。

「5 小ソクラテス学派」

 ソクラテスの一面を引きついだとされるキュレネ学派、キュニコス(犬儒)学派、メガラ学派をあつかう。

 不可知論で快楽主義のキュレネ学派、芝居がかった詭弁を弄するキュニコス学派、屁理屈のメガラ学派がいずれもソクラテスから出ているとされているのは興味深い。

「6 プラトン」

 プラトンはペロポネソス戦争のさなかに生まれた。23歳の時にアテナイは全面降伏に追いこまれ、その5年後、師であるソクラテスが刑死する。プラトンも亡命を余儀なくされ、以後十年以上にわたって地中海各地を遍歴しギリシア以外の思想にふれることになる。

 40歳でアテナイにもどったプラトンはアカデメイアを創設し教育と執筆にたずさわることになる。本章の筆者は「優れた資質をもって名家に生まれた アテナイ市民たる者が、国家公共の場から身を退いてあたかもソフィストたちが行っているような仕事に専念することは、途方もなく果敢な決断を要したはずで ある」と指摘しているが、決断にいたったのは祖国の混乱と師の刑死に直面して教育の重要さに目覚めたからであろう。

 プラトンといえばイデア説だが、本章ではプラトンを懐疑主義者と見なす古来からつづく解釈の大きな流れに注目している。プラトンは対話篇を通して イデア説を語ったが、対話篇の中ではイデア説は対立する教説の一つにすぎない。実際、プラトンの没後、アカデメイアは懐疑主義の拠点となるのであるが、本 章の筆者はプラトンがあらゆる言説を相対化していたと見なすのは短絡だとしている。「ソクラテスの対話的活動が対話相手の思いなしを客観的な吟味の場に引 き出すことを意図していたように、「対話篇」とは知と真理を客観的なものとして成立させるためのスタイルであった」というわけだ。

 『パルメニデス』以降の後期思想にもかなりの紙幅をさいている点も本章の特徴だろう。最後の対話篇である『法律』やオカルト好きの間で重視されて いる『ティマイオス』の宇宙論を紹介し、「ミレトス学派以来の「生ける宇宙」を継承・賦活せしめるとともに、より深い意味をそこに込めたもの」としてい る。

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kinokuniya shohyo 書評

2011年07月24日

『マヤ文字解読』 マイケル,コウ (創元社)

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 『古代マヤ文明』の著者でマヤ学の泰斗であるマイケル・コウがあらわしたマヤ文字解読史である。

 古代文字の解読史は面白いに決まっているが、マヤ文字は面白さが倍加する。ヒエログリフと楔形文字は19世紀、線文字Bは20世紀前半に解読され たが、マヤ文字は16世紀から知られていたのに20世紀後半になってやっと解読されたからだ。しかも解読に功績のあった研究者は著者の直接の友人なのであ る。マヤ文字の解読はわれわれの同時代の出来事なのだ。

 解読に四百年もかかったのにはいろいろな理由がある。まずマヤ文字の正確な模写がなかなか出なかったこと。ヒエログリフはナポレオンによって文化 財と認められ、遠征軍にしたがった学者と画家による碑文の精密な模写が出版され、ヨーロッパ中で解読を競う体制が整ったが、マヤ学の場合、宣教師によって 樹皮紙本が徹底的に焚書にされただけでなく、碑文の初期の模写はマヤ文明ユダヤ起源説やヒンドゥー起源説といった思いこみで歪曲されたり描き足された混乱 をまねく代物だった(ヨーロッパ人には遺跡周辺に住む肌の茶色いインディオが輝かしいマヤ文明の担い手だったとは受け入れがたかったらしい)。

 ドレスデン絵文書の正確な複製は1829年に出版されていたが、巨大で高価な稀覯本だったために図書館の書庫の中に埋もれてしまった。今日ではメソアメリカ研究振興財団のサイトで自宅にいながらにして見ることができるが、昔はそうはいかなかったのである。

 それでも20世紀になると資料が出版され、1920年代にはいると碑文や絵文書の暦部分の解読がはじまった。おなじみのマヤ・カレンダーである。

 暦の解読は着実に進んだが、暦以外の部分は長らく足踏み状態だった。表意文字仮説という思いこみが解読を妨げていたのだ。

 現在でも漢字を表意文字と思いこんでいる人がいるが、漢字は表意文字ではなく、一文字で一単語もしくは一形態素をあらわす表語文字である。そもそ も表意文字は数学の記号とか交通標識といった人工的な記号体系としてしか存在しない。自然発生的な文字はすべて単語(形態素)、音節、音素といった言語の 単位をあらわすのである。

 マヤ文字は漢字にあたる表語文字とカナにあたる音節文字を併用する混合表記体系であり、日本語の漢字仮名交じり文とよく似た構造をしている(表語 文字には漢字の偏旁のような内部構造まである)。シャンポリオンがヒエログリフの解読にあたり古代エジプト語の末裔であるコプト語の知識を手がかりにした ように、マヤ文字の解読にはマヤ語の知識が不可欠だが、碑文学者でマヤ語のできる者は一人もいなかった。その気になれば現代のマヤ人からいくらでも学べる というのに。

 致命的だったのはマヤ学の最高権威とされていたジョン・エリック・シドニー・トンプソンが表意文字仮説の頑固な信奉者だったことだ。トンプソンは マヤ文字は音声言語とは何の関係もない純粋な概念体系であると信じこんだ。もちろん彼はマヤ語を学んでいなかったし、学ぶつもりもなかった。

 古代文字に興味をもつ言語学者の中にはマヤ語の知識を用いて解読を試みる者もいた。サピア=ウォーフの仮設で知られるベンジャミン・ウォーフもそ の一人で、コウが「五十年進んでいた」と絶賛するほど筋のいい見通しを立てていたが、トンプソン一派によって些末な間違いを攻撃され、すべて間違っている かのような印象を作りあげられてしまった。

 トンプソンの支配は意外なところから破られることになる。レニングラード民族研究所のクノローゾフがマヤ文字は音節をあらわしているという論文を 発表したのだ。当時は鉄のカーテンが健在で、ソビエト・ロシアの学者は欧米の学者から隔離されていたが(クンローゾフはグアテマラ政府から叙勲で招待され るまでマヤの遺跡を見る機会がなかった)、むしろそのことがクノローゾフにフリーハンドをあたえたのかもしれない。

 トンプソン一派はクノローゾフを叩こうとしたが、クノローゾフは矢継ぎ早に論文を発表し賛同者が増えていった。コウは妻がロシア系という巡り合わせもあって、クノローゾフの研究を西側に紹介することになった。

 1970年代になるとマヤ文字の解読が急速に進んだ。画家出身のロバートソン夫妻やイロクォイ語の専門家だったフロイド・ラウンズベリー、ナショ ナル・ジオグラフィック誌の編集者を両親にもちハイスクール時代に早くも重要な発見をおこなったデヴィッド・スチュアートといった多彩な研究者がくわわる が、中でも重要な仕事をしたのは南部生まれのエネルギッシュなオバサン、リンダ・シーリーだろう(彼女の残した模写や写真はメソアメリカ研究振興財団のサ イトでThe Linda Shele Drawing Collectionとして公開されている)。

 研究者の交流も活発になり、1973年に開かれた第一回パレンケ円卓会議では一晩のうちにパレンケ王家の後半200年間の系図を解読するという成果をあげた。

 だがマヤ文字解読の目覚ましい成功は碑文学者と現場考古学者(コウは「穴掘り考古学者」とも呼んでいる)の間の軋轢を助長する結果となった。赤道 直下の密林の中で毒虫に刺されながら発掘している現場考古学者にとっては、後から来ておいしいところだけさらっていく碑文学者を許し難いと思ったとしても 不思議ではない。博士号のないリンダ・シーリーが各地で講演会を開いて喝采を博しているのも面白くなかったようだ。感情的な対立はエスカレートし、 1989年に開かれたダンバート・オークス会議では碑文に書いてあることは嘘の塊で価値がないと明言するにいたった。

 驚いたことにマヤの現場考古学者はマヤ暦が読める程度でマヤ文字はほとんど読めず、マヤ語も喋れないという。発掘の下働きにはマヤの末裔のインディオを使っているだろうに。

 コウははっきりとは書いていないが、ここに働いているのも肌の茶色いインディオがマヤ文明の担い手だったことを感情的に認めたくない白人の差別意識だろう。マヤ文字の解読を阻んでいたのは白人の自意識だったのかもしれない。

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kinokuniya shohyo 書評

2011年07月25日

『マヤ文字解読辞典』 コウ&ストーン (創元社)
『【図説】マヤ文字事典』 ロンゲーナ (創元社)

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 マイケル・コウの『マヤ文字解読』は解読にあたった第一人者が書いた歴史として臨場感にあふれ、読み物としても第一級だったが、主眼は解読にいたる紆余曲折にあり、マヤ文字そのものについてはあまりふれられてはいなかった。マヤ文字について知りたければ別の本を読めということだろう。

 マヤ文字については十冊近く本が出ているが、日進月歩の分野だけに内容が古くなっているものがすくなくない。中には神秘的な象形文字とみなされていた時代の本まで残っているが、今回は日本語で読める最新の本を二冊紹介しよう。

 まず『マヤ文字解読』のマイケル・コウとコウの弟子でマヤ文字書家のマーク・ヴァン・ストーンによる『マヤ文字解読辞典』(以下、コウ本と呼ぶ) で、2005年に出た第二版の翻訳である。もう一冊はマリア・ロンゲーナによる『【図説】マヤ文字事典』(以下、ロンゲーナ本と呼ぶ)で原著は1998年 に出ている。コウについては改めて紹介するまでもないが、ロンゲーナについてはよくわからない。スペイン語圏で活躍しているマヤ学者らしく、スペイン語の 著書が何冊かあるが、他の言語に翻訳されているのは本書だけのようである。

 両著ともA5版、黒と朱の二色刷でコウ本は212頁、ロンゲーナ本は182頁。コウ本は図版主体で普通紙刷りだが、ロンゲーナ本はほぼ全頁に写真 がはいりアート紙刷りである。ロンゲーナ本の方が活字が一回り小さく横二段組だが、ロンゲーナ本は写真がたくさんはいっているので文字量としては同じくら いかもしれない。

 両著とも最初に導入部があるが、コウ本は「マヤ文字記述の文化的背景」が8頁、「マヤ文字記述の性質」が24頁で、マヤ語の文法やマヤ文字の種類 について解説してある。ロンゲーナ本は「マヤ民族を探して」というタイトルのマヤ文明全般に関する紹介が18頁ある。ロンゲーナ本は最後の章が「古代アメ リカ文明の表記法」となっていて、マヤ文字だけでなくアステカやインカの表記体系について10頁をさいているが、百科事典レベルで深いものではない。コウ 本はある程度マヤ文明について知っている読者向けに書かれているが、ロンゲーナ本はまったくの初心者を想定していると思われる。

 トピックごとに関連する文字を紹介するスタイルは両著とも同じである。以下にトピック立てを引用する。

 まずコウ本。

  • 時と暦
  • 王家の生活と儀式
  • 地名と政体
  • 王家の人々の名前と称号
  • 血縁関係
  • 戦争
  • 書記と芸術家
  • 土器のテキスト
  • 超自然世界
  • 生物と無生物の世界

 次ぎにロンゲーナ本。

  • 宮廷の生活
  • シンボル
  • 神々と宗教
  • 天文学
  • 生活と思想

 トピック名は似ていても、中味はかなり違う。ロンゲーナ本の「宮廷の生活」は代表的な都市と王をあらわす紋章文字の紹介が半分、「王」や「王 妃」、「即位」、「斬首」をあらわす文字の紹介が半分という構成で、文字そのものの説明というより文字のあらわす事項の説明になっている。一方、コウ本の 「王家の生活と儀式」は紋章文字は「地名と政体」の章にまかせ、「誕生」、「即位」、「放血」、「球技と球技場」などをあらわす文字について突っこんだ解 説がある。ロンゲーナ本は文字の音価(読み)はカナ表記で簡単にすませているが、コウ本はアルファベット表記で、数や格の変化や接尾語、接頭語がつく場合 の変化にまでふれている。

 両著が決定的に違うのはロンゲーナ本が代表的な表語文字を一つだけ掲載するのに対し、コウ本は異体字や異表記まで載せている点だ。日本語では同じ 桜を意味するのでも「桜」、「櫻」、「さくら」、「サクラ」と複数の表記があるが、マヤ文字も同じでさまざまな書き方があるのである(これが欧米の研究者 には躓きの石となった)。

 コウ本の巻末には音節文字表(日本語の五十音表にあたるもの)が4頁にわたって載っており、本書中で頻繁に参照することから著者はこの頁をコピーすることを勧めている。

 古典碑文に出てくる範囲だけだが、コウ本のマヤ語の文法解説も興味深い。マヤ語は能格言語(近藤健二『言語類型の起源と系譜』参照)といって古い言語の形態を残しているが、英語を能格にするとどうなるかという例が出ていてなるほどと思った。

 総じて言うとロンゲーナ本がマヤ文字という切口から初心者向けにマヤ文明全般を紹介した本なのに対し、コウ本は初級の知識では飽き足らなくなった 読者に対しマヤ文字とマヤ碑文学の基本を手ほどきする本となっている。どの分野でも同じだが、中級レベルの本はすくないのでコウ本のような本はありがた い。

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kinokuniya shohyo 書評

2011年07月26日

『病気の日本近代史-幕末から平成まで』秦郁彦(文藝春秋)

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 軍事史を専門とする著者、秦郁彦の研究には、専門書はもちろんのこと、工具類にもたいへんお世話になった。軍事史を研究していて気になるのは戦場での病 気であるが、多くの人文・社会科学系の研究者は、専門知識がないのでまともに扱ってこなかった。著者は、虫垂炎で入院したのをきっかけに、病気と医療の歴 史に挑戦した。その結果は、「やや不慣れなジャンルの仕事だけに、多少の緊張と重圧はあったが、最終校正を終えて快い解放感を味わっている」というもの だった。

 本書を読み終えて、著者の「快い解放感」の意味がわかった。これまで断片的でしかなかった知識が、まとまりをもって理解できたからである。それも、軍事 史研究で確固たる基本ができているからだろう。軍事史からはみ出した部分も、著名人の病歴を語ることによって、より身近に読むことができた。

 本書に登場した主要人物は、医者ではシーボルト、ベルツ、スクリバ、華岡青洲、近藤次繁、森鷗外、高木兼寛、野口英世、青山胤通、北里柴三郎、斎藤茂 吉、平山雄、森岡恭彦、大鐘稔彦・・・、患者では明治天皇、和宮、秋山真之、夏目漱石、樋口一葉、島村抱月、松井須磨子、竹久夢二、堀辰雄、大岡昇平、太 宰治、城山三郎、吉村昭、芦原将軍、大川周明・・・である。

 第六章までは、近代日本が制圧に挑んだ脚気、伝染病、結核、ガンなどの難病克服の総力戦の軌跡が述べられ、「病魔に立ち向った医師たち、空しく倒れて いった病者たちのヒューマン・ドラマに溢れて」いた。医学の偉大さもわかった。だが、最後の「第七章 肺ガンとタバコ」は趣が違った。著者は、喫煙率と肺 ガン死亡率の関係をチャート化してみて、「この半世紀ばかり一貫して前者がゆるいカーブで下降しているのに、後者は六〇倍もの急角度で激増している」こと に気づいた。「喫煙率が減れば、肺ガンは減るはずなのになぜ、という疑問に誰も答えてくれない。しかたなく自力で究明して」みた結果が、これまでの理論の 虚構性を立証することになった。

 歴史研究者は、結果を知って研究するずるさがある。結果がわかっている第六章までと違って、第七章は著者にとって未知な体験だったのだろう。立証したこ とで、「アマチュアでも着眼しだいで医学上の争点に寄与しえるとわかった時は、小躍りする思い」をした。「健康過敏症と呼べそうな気分」が広がっている現 在、不確かな情報に躍らされる現代人の悲哀も感じる章だった。

 著者が取り組み、7つに絞り込んだ「日本近代史の一角をいろどる大型で手ごわい病気」は、以下の通り各章で議論されている。
 第一章 黎明期の外科手術  本邦初の乳ガン摘出・虫垂切除は?
 第二章 脚気論争と森鷗外  脚気菌から栄養障害説まで
 第三章 伝染病との戦い   黄熱病と野口英世など
 第四章 結核との長期戦   死因第一位から二十七位へ
 第五章 戦病の大量死とマラリア  新顔の栄養失調症
 第六章 狂聖たちの列伝   芦原将軍から大川周明まで
 第七章 肺ガンとタバコ   非喫煙者のガンが増えている

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