2012年1月24日火曜日

kinokuniya shohyo 書評

2012年01月23日

『石の器』田原(思潮社)

石の器 →bookwebで購入

「《は》の効用」

 すごい詩人が現れたものだ。これなら現代詩アレルギーのひとにも自信を持って薦められる。おおらかで、力強くて、土の中から生えだしてきたかのような安定感がある。それでいて実に柔軟。間接がやわらかいのだ。まさに一流の運動選手のような肉体を持った言葉である。

 日本語による第一詩集『そうして岸が誕生した』から、巻頭の「夢の中の木」を引いてみよう。

その百年の大木は
私の夢の中に生えた
緑色の歯である
深夜、それは風に
容赦なく根こそぎにされた

風は狂った獅子のように
木を摑んで空を飛んでゆく
夢の中で、私は
強引に移植されようとする木の運命を
推測できない

木がないと
私の空は崩れ始める
木がないと
私の世界は空っぽになる

こういう自然に憑依されたような言葉で語ることのできる詩人を、筆者はそれほど知らない。近いのは新川和江か。変に頭を使ってはいけないということを、実に明瞭に示してくれる作品である。

 もちろん読者も気をつけないといけない。もしこのような一節を読んで「???」と思った人がいたら、よけいなことかもしれないが、頭を使いすぎずに読むための簡単なポイントがある。この詩のまずどこを読んだらいいか。「は」である。
その百年の大木は/(それは)/風は/(私は)/私の空は/私の世界は
この一連の「~は」 に、ちょっとだけ注意して読んでみよう。単に力をこめるというのではない。軸として意識してみる。「気」の置き所にする。そうすると、視界が開けてくると 思う。この詩は「~は」から始まるための詩なのだ。「~は」とはじめた勢いが、どうやって言葉を伝って流れ出していくか、その流出感のようなものに身をま かせたい。

「は」が示すのは主語であり、話題である。でも、田原の「は」にはそれ以上のものがある。それは非常に屈強な「は」なのだ。そしてその強さは、相手に届こうとする呼びかけめいた意思のようなものを――つまり、言葉的な距離の想像力のようなものを――持っている。

そのように長い歳月を経て
川の流れは疲れ果てた包帯だ
それは傷ついた村や山を包み縛っている
世の激しい移り変わりの船着き場は
遠くに清く澄んだ水源を眺め
あたかも老いるのを待っている船頭のように
ひとしきり咳に付き従って
黒い苫舟を漕ぎ
川を遡って帰る
(「田舎町」 『石の器』より)
「は」の作用は、和歌の上の句と似たようなものでもあるかもしれない。百人一首で「~は……」 と長く伸ばして読むときのあの心地にあるのは、何かを呼び覚まして目の前に浮かび上がらせようとする「お願い」のような気分である。そういう意味では田原 の詩の多くには、相手にむかって呼びかけ手を伸ばそうとするような姿勢が見える。
一本の大木が倒された地響きは
森の溜息だ
鳥たちは
銃声の傷を背負って
帰巣して卵を産む
ムササビは黒い幽霊のように
木から木へと跳んで
食べ物を見つけようとする
(「狂騒曲」 『石の器』より)
と同時に、彼の安定感を作っているのは、「は」を介した呼びかけを口語自由詩の中の一 種の「型」にまで昇華させてしまう執念のようなものでもある。じっくり語る。決して「~は」から流れ出して、あとは野となれ山となれではない。何度でもあ らためて「は」の地点に立ち返ろうとする気概がある。体力もある。そしてそれは、ときに怨念めいた凝視をも生む。四川大地震のことを描いた「堰止め湖」 (『石の器』)という作品の終わり方は典型的だ。
一万年後 お前はそのときの人々に
感嘆され称賛される景色になっているかも知れない
しかし 私はこの詩を証として書き残しておきたい
西暦二〇〇八年五月のお前は
何億もの人々の涙が溜まってできたものであることを
詩とは時間や空間の威力に抗して語ろう、記録しよう、刻みつけようとする、人間的な抵抗の、もっとも原初的な形なのだ。

 田原(でんげん、ティエン・ユアン)は中国・河南省出身。大学では中国文学を専攻し将来を嘱望されていたが、天安門事件に参加したために当局に目 をつけられ、方針転換して日本に留学することになった。広く海外の詩にも親しみ、ロルカ、パステルナーク、ホイットマン、ウォレス・スティーヴンズなどを 愛読。詩は中国語でも日本語でも書くというバイリンガル詩人である。ざっくりと言葉を鷲づかみにするような剛胆さと、ひょいとイメージからイメージに飛び 移る敏捷さとを兼ね備えているあたり、たしかにホイットマンやスティーヴンズと通ずるものを感じる。谷川俊太郎の研究者でもある。

 実は最近、勤務先で講義をしていただいた(東大朝日講座――知の冒険)。 「詩は他者への愛によって書かれる」「詩には謎がなければならない」「良い詩は良い読者を見つける」――いずれも発言の場から切り離して引用すると鮮度が 落ちてしまうのが残念なのだが、こうした言葉がこれほど自然に口にされ、しかもそれがこちらに届くというのは希有な体験だった。まさに温度のある詩人であ る。田原さんは雪の舞う空にパーカー一枚という出で立ちで驚くほどの熱気をあたりに充満させ、講義中何度も嗚咽しながら、激しい感情とそれをコントロール しようとする強い意志とのバランスの中で、未発表の自作を含めて何編かの作品を朗読してくださった。

 「浮浪者」「津波」といった作品が近々活字になる。乞ご期待である。


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Posted by 阿部公彦 at 2012年01月23日 08:26 | Category : 海外文学(小説/詩/戯曲/エッセイ等






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