■たった百年で失われた「たおやかな表現」
今年90歳で他界した父の書いた手紙や原稿を 見ると、「云(い)う」「難有い」など現代とは違う文字遣いが随所にある。自分のことは「小生」であるし、カタカナも使われている。どんなに現代の言葉を 読んでいても、書くときの言葉はやはり使い慣れた表現を最後まで通していたことがわかる。多分、それが自分の感覚を表すには相応(ふさわ)しいと思ってい たからだろう。
「百年前の日本語」といっても厳密な百年前ではなく、明治期の日本語を取り上げ、現代と対照しながら、その変遷を追っている。
外来語であるハンカチは「手巾」、漢語では「シュキン」、和語では「テヌグイ」を表すことができた。幸福は漢語で「コウフク」、和語では「サイワイ」また は「幸い」と表すこともでき、明治期は大きな「揺れ/動揺」の中にあった。「揺れ」というと不安定な状態を想像しやすいが、そうではなく、むしろ「豊富な 選択肢があった」と著者の今野さんは書いている。
ところが現代は、使用する文字、漢字の音訓などに関して、できるだけ「揺れ」を排除し、一つの 語は一つの書き方に収斂(しゅうれん)させようとする傾向が強い。このような状態になったのは、日本語の歴史の中でここ百年ぐらいの間であり、それまでは 「揺れ」の時期がずっと続いていた。現代こそが歴史の中では、むしろ特殊な状況下にある、とも。
本書では夏目漱石の「それから」と「坊っちゃん」の自筆原稿を採り上げている。それを読んでいくと、漱石が使用していた「非標準語形」は媒体を経由する間に「標準語形」に換えられて「読み手」に「わたされて」いたことがよくわかる。
私も原稿をパソコンで書いているが、文書作成ソフトには「明朝体」が標準装備されているし、小学校の教科書の漢字や仮名もこの書体に基づき、それを私たち は覚えてきた。だから「行書体」も「草書体」も、なじみのない人たちがほとんどに違いない。意味がわかれば必要ないではないか、と言ってもよいが、やはり ここでもたった百年で嫋(たお)やかな表現を失ったのではないかという思いがする。
ここで、「カエル」と「カイル」のお話。室町期には「カエル (蛙)」にあたる「カイル」という語形が存在していたという。まあ、今でも地方によっては「カイル」と言う方もいるので、それは「ピアノ」を「ピヤノ」と 言うのとそんなに違わないと思っているが、「なぞだて」と題された本の中に、「やふれかちやう かいる」という謎があるという。「やふれかちやう」は「破 れ蚊帳」のこと。
で、「破れ蚊帳」とかけて「かいる」と解く。その心は?
「蚊、入る」!!
おあとがよろしいようで。
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