2012年4月2日月曜日

kinokuniya shohyo 書評

2012年03月31日

『自動車と移動の社会学—オートモビリティーズ』M.フェザーストーン/N.スリフト/J.アーリ 編著   近森高明 訳(法政大学出版局)

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「移動研究(モビリティスタディーズ)の新たなる成果として」

 モビリティスタディーズという研究が注目されている。『Mobilities』という学術雑誌まで刊行されているこのジャンルを、日本語に訳そうと思う となかなか難しい。おそらく、適切にあらわす訳語がまだ存在しないのだ(その点は、本書の原題が『AUTOMOBILITIES』であったのを『自動車と 移動の社会学』と苦心して訳出した点にも表れている)。

 しいていうならば「移動研究」なのだが、その日本語が持つ意味と、"Mobility"という概念が含意するところはやや異なっている。


 日本で「移動研究」といった場合には、かつての集団就職のような「地域移動」であったり、「階層移動」を意味することが多かった。


 だが、ここでいう"Mobility"とは、そうしたリジッドな社会構造内において、ある定点から定点までを移動することを意味するというより、むしろ社会全体が常にゆるやかに変動しながらも、それでいて一つの社会として機能していくような状況を表す概念なのである。


 よってそうした状況下においては、それまで自明のものと思われていた、空間や時間といった概念が、ゆるやかにほどけていくことになる。


 この点でいえば、本書が中心的な研究対象としている自動車という乗り物はその典型と言える。比較対象として鉄道を取り上げるとよりクリアーだが、それが 定められた駅から駅までの空間を、定められた時間通りに、リジッドに線路上を移動していくのと比べ、自動車は、各自の思うがままの場所から場所へ、思うが ままの時間の中で移動することができるのである(もっとも、自動車の技術がそのようなものとして形作られてきた歴史的社会的な背景があったことは忘れては ならないが)。


 あるいは、乗り物に限らずとも、情報メディアでも同じような変化がありえよう。これまではテレビ番組を、決められた時間に決められた場所でしか見ること のできなかったのが、スマートフォンで動画サイトにアクセスすれば、いつでもどこでも見ることができる。いまや「送り手対受け手」といった、これまでのメ ディアに関する一方向的な図式は崩れつつある。


 だがこうした変化は、今までの近代社会の崩壊や融解として捉えるのではなく、むしろ流動化という近代の一側面がより徹底された状況と捉えるべきであろう (こうした主張は本書内の著者によっては、理解にズレがあるようだが、この点も含めてさらに議論を深めていくべきだろう)。


 その上で、こうした様々な"Mobilities"があふれた社会とはいかなるものか、あるいはいかにあるべきかを構想することが今、求められていると言えるだろう。


 本書は、この点について、自動車を事例として取り上げつつ、カルチュラル・スタディーズの論客として知られるイギリスの社会学者、マイク・フェザース トーンを中心に、モビリティスタディーズの先駆者であるジョン・アーリやデジタルメディア時代の音楽を論じるマイケル・ブルなど、一流の論者たちによって 書かれた論文集である。


 まさに、移動研究(モビリティスタディーズ)のフロンティアと呼ぶにふさわしい一冊だが、今後は日本社会においても、自動車に限らず、他の様々な事例を取り上げながら、こうした方向の研究が進んでいくこととが期待されよう。

 なお、そのような新しいジャンルの研究ながら、近森高明氏の翻訳は、きわめてわかりやすく読みやすいし、末尾の、これまた適切にまとめられた、吉原直樹氏の解説も忘れずにお読みいただくと、本書の理解がより深まるものと思う。


(最後に、本書評を書くにあたって、『Mobilities』誌の情報をはじめ、移動研究に関してご教示頂いた、法政大学社会学部の土橋臣吾氏に御礼申し上げる。)


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