2012年04月10日
『国家と歴史−戦後日本と歴史問題』波多野澄雄(中公新書)
2001年から06年の首相在職中、毎年靖国神社に参拝し、内外で物議を醸した小泉純一郎も、ちょうど小学校時代と重なる大学新入生にとっては「過去」 の人で、説明をしなければならなくなった。なぜ日本は「戦後」という過去を、現代の問題として引きずりつづけなければならないのか、本書は学生に説明する いい教材になる。日本の学生などの若者にとって、すでに「終わった」はずの過去にこだわる人びと、とくに日中戦争とは無縁のはずの自分たちと同世代の中国 人の「反日」が理解できない。本書を読めば、その理由もわかるだろう。
その理由のひとつは、国家間で解決済みの問題も個人の問題としては残っているからである。本書の帯の裏には、「国家間の問題から個人補償へ」の見出しの もとに、つぎのようにまとめられた文章が載っている。「アジア・太平洋戦争の「清算」は、一九五一年締結のサンフランシスコ講和を始めとする一連の条約で 終えたはずだった。だが、八〇年代以降、教科書、慰安婦、靖国神社、そして個人補償請求と問題が噴出。日本政府は司法の支持を頼りに、一連の条約を「盾」 とし跳ね返してきたが、世界の民主化、人道主義の浸透の前に政策転換を余儀なくされつつある。戦後日本の歴史問題の軌跡を追い、現代国家はいかに歴史と向 き合うべきかを問う」。
著者、波多野澄雄は、「一九七九年の防衛庁防衛研修所戦史部(現・防衛省防衛研究所)への入所以来」三〇年間、「国の歴史事業に絶え間なく取り組んだ」 歴史研究者である。その戦後処理事業を大別すれば、つぎの3つになるという。「一つは、戦争の検証と伝承という事業であり、二つめは、一九九〇年代以降の いくつかの「歴史和解事業」である。そして三つめは、外交文書の検証や編纂、公開という事業である」。著者は、戦没者追悼平和祈念館(現・昭和館)の設立 準備・運営、「女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)のための資料調査、「アジア歴史資料センター」設立準備・運営、日英交流史事業、高校 歴史教科書の検定、日中歴史共同研究などにかかわったことから、より全体像がみえているなかで慎重にことばを選びながら、本書を執筆している。そして、な ぜ、今日まで引きずるのかを、歴史的に検証している。
3部からなる本書の構成と目的は、「序章 戦争検証の挫折」の最後で、つぎのようにまとめられている。「第�部では、厳しい冷戦の下で形成され、日韓・ 日中間の国交正常化を経て一九七〇年代に定着した講和体制は、戦争や植民地支配に起因する賠償や補償、さらに戦争責任という問題にどのような回答を与えて きたのか、置き去りにしてきた問題は何か、「戦後補償問題」の噴出とどのような関係にあるのか、こうした問題を検証する」。
「第�部は、一九八〇年代の歴史問題を取り上げる。一九七〇年代までに定着した講和体制は、国家間の問題としては歴史問題を封じ込めたはずであった。し かし、一九八〇年代には講和体制が想定していなかった歴史教科書問題や首相の靖国神社参拝といった、いわば「内なる歴史問題」が「国際化」したことで、政 府を悩ませる」。
「第�部は、世紀転換期、すなわち一九九〇年代から二一世紀初頭にかけての歴史問題の展開を取り上げる。一九九〇年代のさまざまな「戦後補償問題」の噴 出は、必ずしも新しい問題ばかりではなかった。しかし、冷戦と自民党支配という講和体制を支えた内外要因が大きく揺らぐなかで、歴史問題は政府を翻弄す る」。
「歴史問題について、あるいはその基盤となる「過去の戦争」の責任や原因といった問題について、国による検証が十分ではなく、国民が共有できる「パブ リック・メモリー」が形成されない原因は、いったいどこにあるのか。歴史観の多様な共存を保障する国として、政府は歴史問題をいかに「管理」すべきなの か、あるいは「関与」すべきなのか」。
「そして、すでに六〇年以上も前の「過去の戦争」にどう向き合い、どのように後世に伝えていくべきなのか。本書がこういった問題を考えるよすがとなれば幸いである」。
歴史問題の原因が終戦直後からあったことは、よく言われる。「一億総懺悔」と言われるいっぽうで、戦争責任を政・軍指導者に押しつけ、天皇と国民は免 れ、被害者意識をもつようになった。やがて五〇年代六〇年代に、それら政・軍指導者が復活し、戦争責任の所在が不明確になった。それが、中国など被害国民 衆の怒りとなり、たとえ政府間で「解決済み」と言われても、個々人が納得しなくなった。
また、歴史問題は、ドイツをめぐってもあったはずだが、西ヨーロッパでは近隣諸国との関係が改善したのにたいして、東・東南アジアではそういかなかった ことが問われる。それにたいして、著者は「アメリカの戦略変化」が大きくかかわったことを、つぎのように説明している。「戦争賠償の主題から「戦争責任」 という問題が遠ざかっていった国際的背景は、被害を受けたアジア諸国への配慮よりも、日本の復興と政治的安定を優先するというアメリカのアジア戦略の変化 であった」。
「占領初期にこそ、アメリカ側で、戦争責任を正面から問う講和案が検討され、また、日本による戦争賠償を媒介にして、脱植民地化と国家形成の途上にあっ たアジア諸地域と日本の復興とを一体として達成するという講和プログラムが存在した。しかし、まもなく日本の復興と政治的安定のみが関心事となり、賠償軽 減を一方的に進め、賠償交渉においてもアジア諸国への配慮は相対的に小さなものとなっていった」。
「それとは対照的に、ヨーロッパでは、アメリカは西ドイツを主権国家として再出発させるにあたって近隣諸国との関係改善を促すという政策をとった。西ド イツもまた、西ヨーロッパという政治的、経済的にまとまった一つのユニットとしての国際社会のなかに自らを明確に位置付け、国家として再生する道を開い た。国家主義や国民の帰属意識という狭い定義にとらわれず、西ヨーロッパ社会の一員であるドイツ国民という意味でのナショナル・アイデンティティの再構築 が試みられた。ドイツの侵略戦争の犠牲となったポーランド、オランダ、ベルギーといった周辺国も後押しした」。
「こうしたアメリカの日独に対する対応の相違は、過去の戦争に対する認識を、近隣諸国の認識や理解のなかで検証するという機会を持ち得たドイツと、そう ではなかった日本という差異をもたらした。講和体制は、日本が過去の戦争の解釈や認識を形成する上で、被害を受けた近隣諸国との間で共有できる解釈や認識 は何かについて、深く検証する妨げとなったのである」。
歴史問題だけでなく、EUと東アジア共同体という地域共同体の比較もできないことがわかる。西ヨーロッパはまとまりのあるユニットが歴史的文化的にも形 成されていたから、その積み重ねとしてEUが成立したのであり、東アジアは積み重ねができない状況にある。だからこそ、ひとつずつ努力を積み重ねて近隣諸 国との関係を改善していかなければならない。
その基本となるものに、歴史資料がある。日本は2001年にアジア歴史資料センターを開設したが、公文書の公開はひじょうに遅れ、歴史研究の大きな妨げ になっている。たとえ研究成果で確固たる事実が解明できても、政府がそれを認めるとは限らない。また、歴史教育の問題について、著者はつぎのように述べて いる。「学術レベルの成果が、国民レベルの議論や歴史教育にも反映され、共有されるとは限らない。日中双方とも、それぞれ異なる意味で「国内問題」として の歴史問題を抱えている。中国の場合は、「抗日戦争」の勝利が現政権の基盤となっているとすれば、それに抗するような歴史教育はあり得ない。他方、日本は 多様な歴史観の共存を保障し、教科書検定制度もそれを前提としているため、公的支援による歴史研究の成果も権威を持ち得ない」。
帯の表に「民主国家日本を縛り続ける帝国日本という過去」とあり、そこから解放されることは並大抵でないことが、本書からわかった。著者は、この困難な 問題にたいして、「終章「平和国家」と歴史問題−未来への説明責任」で、沖縄の問題を大きく取り上げ、沖縄の理解なしに「平和国家論」は成り立たないこと を示唆している。そして、歴史研究者として、「歴史編纂とパブリック・メモリー」の必要性をつぎのように主張している。「「歴史問題」が東アジアにおける 国際協調の課題となり、一国の歴史は他国の歴史との関連においてこそ初めて意味を持つ、そのような時代にわれわれはさいしかかっている。国の営みのなかで 何を記録として後世代に残していくか、という問題を考えるとき、歴史の語られ方は異なっても、東アジアのすぐれた経験は活かし得るはずである」。
さらに、最後の見出し「未来への説明責任」を、つぎのことばで結んでいる。「平和国家論をいわば「国是」として守り抜こうとすれば、そこに沖縄からの批 判にも耐え、村山談話[戦争への反省]を力強く支えるような内実を与える必要がある。その内実とは、近代日本の絶え間ない戦争と帝国圏の膨張の遺産につい て、広く歴史的検証可能な知的基盤の形成にあろう。それは、国や地方を問わず日本の行政機関に著しく欠けている「未来への説明責任」を果たすためでもあ る」。
その理由のひとつは、国家間で解決済みの問題も個人の問題としては残っているからである。本書の帯の裏には、「国家間の問題から個人補償へ」の見出しの もとに、つぎのようにまとめられた文章が載っている。「アジア・太平洋戦争の「清算」は、一九五一年締結のサンフランシスコ講和を始めとする一連の条約で 終えたはずだった。だが、八〇年代以降、教科書、慰安婦、靖国神社、そして個人補償請求と問題が噴出。日本政府は司法の支持を頼りに、一連の条約を「盾」 とし跳ね返してきたが、世界の民主化、人道主義の浸透の前に政策転換を余儀なくされつつある。戦後日本の歴史問題の軌跡を追い、現代国家はいかに歴史と向 き合うべきかを問う」。
著者、波多野澄雄は、「一九七九年の防衛庁防衛研修所戦史部(現・防衛省防衛研究所)への入所以来」三〇年間、「国の歴史事業に絶え間なく取り組んだ」 歴史研究者である。その戦後処理事業を大別すれば、つぎの3つになるという。「一つは、戦争の検証と伝承という事業であり、二つめは、一九九〇年代以降の いくつかの「歴史和解事業」である。そして三つめは、外交文書の検証や編纂、公開という事業である」。著者は、戦没者追悼平和祈念館(現・昭和館)の設立 準備・運営、「女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)のための資料調査、「アジア歴史資料センター」設立準備・運営、日英交流史事業、高校 歴史教科書の検定、日中歴史共同研究などにかかわったことから、より全体像がみえているなかで慎重にことばを選びながら、本書を執筆している。そして、な ぜ、今日まで引きずるのかを、歴史的に検証している。
3部からなる本書の構成と目的は、「序章 戦争検証の挫折」の最後で、つぎのようにまとめられている。「第�部では、厳しい冷戦の下で形成され、日韓・ 日中間の国交正常化を経て一九七〇年代に定着した講和体制は、戦争や植民地支配に起因する賠償や補償、さらに戦争責任という問題にどのような回答を与えて きたのか、置き去りにしてきた問題は何か、「戦後補償問題」の噴出とどのような関係にあるのか、こうした問題を検証する」。
「第�部は、一九八〇年代の歴史問題を取り上げる。一九七〇年代までに定着した講和体制は、国家間の問題としては歴史問題を封じ込めたはずであった。し かし、一九八〇年代には講和体制が想定していなかった歴史教科書問題や首相の靖国神社参拝といった、いわば「内なる歴史問題」が「国際化」したことで、政 府を悩ませる」。
「第�部は、世紀転換期、すなわち一九九〇年代から二一世紀初頭にかけての歴史問題の展開を取り上げる。一九九〇年代のさまざまな「戦後補償問題」の噴 出は、必ずしも新しい問題ばかりではなかった。しかし、冷戦と自民党支配という講和体制を支えた内外要因が大きく揺らぐなかで、歴史問題は政府を翻弄す る」。
「歴史問題について、あるいはその基盤となる「過去の戦争」の責任や原因といった問題について、国による検証が十分ではなく、国民が共有できる「パブ リック・メモリー」が形成されない原因は、いったいどこにあるのか。歴史観の多様な共存を保障する国として、政府は歴史問題をいかに「管理」すべきなの か、あるいは「関与」すべきなのか」。
「そして、すでに六〇年以上も前の「過去の戦争」にどう向き合い、どのように後世に伝えていくべきなのか。本書がこういった問題を考えるよすがとなれば幸いである」。
歴史問題の原因が終戦直後からあったことは、よく言われる。「一億総懺悔」と言われるいっぽうで、戦争責任を政・軍指導者に押しつけ、天皇と国民は免 れ、被害者意識をもつようになった。やがて五〇年代六〇年代に、それら政・軍指導者が復活し、戦争責任の所在が不明確になった。それが、中国など被害国民 衆の怒りとなり、たとえ政府間で「解決済み」と言われても、個々人が納得しなくなった。
また、歴史問題は、ドイツをめぐってもあったはずだが、西ヨーロッパでは近隣諸国との関係が改善したのにたいして、東・東南アジアではそういかなかった ことが問われる。それにたいして、著者は「アメリカの戦略変化」が大きくかかわったことを、つぎのように説明している。「戦争賠償の主題から「戦争責任」 という問題が遠ざかっていった国際的背景は、被害を受けたアジア諸国への配慮よりも、日本の復興と政治的安定を優先するというアメリカのアジア戦略の変化 であった」。
「占領初期にこそ、アメリカ側で、戦争責任を正面から問う講和案が検討され、また、日本による戦争賠償を媒介にして、脱植民地化と国家形成の途上にあっ たアジア諸地域と日本の復興とを一体として達成するという講和プログラムが存在した。しかし、まもなく日本の復興と政治的安定のみが関心事となり、賠償軽 減を一方的に進め、賠償交渉においてもアジア諸国への配慮は相対的に小さなものとなっていった」。
「それとは対照的に、ヨーロッパでは、アメリカは西ドイツを主権国家として再出発させるにあたって近隣諸国との関係改善を促すという政策をとった。西ド イツもまた、西ヨーロッパという政治的、経済的にまとまった一つのユニットとしての国際社会のなかに自らを明確に位置付け、国家として再生する道を開い た。国家主義や国民の帰属意識という狭い定義にとらわれず、西ヨーロッパ社会の一員であるドイツ国民という意味でのナショナル・アイデンティティの再構築 が試みられた。ドイツの侵略戦争の犠牲となったポーランド、オランダ、ベルギーといった周辺国も後押しした」。
「こうしたアメリカの日独に対する対応の相違は、過去の戦争に対する認識を、近隣諸国の認識や理解のなかで検証するという機会を持ち得たドイツと、そう ではなかった日本という差異をもたらした。講和体制は、日本が過去の戦争の解釈や認識を形成する上で、被害を受けた近隣諸国との間で共有できる解釈や認識 は何かについて、深く検証する妨げとなったのである」。
歴史問題だけでなく、EUと東アジア共同体という地域共同体の比較もできないことがわかる。西ヨーロッパはまとまりのあるユニットが歴史的文化的にも形 成されていたから、その積み重ねとしてEUが成立したのであり、東アジアは積み重ねができない状況にある。だからこそ、ひとつずつ努力を積み重ねて近隣諸 国との関係を改善していかなければならない。
その基本となるものに、歴史資料がある。日本は2001年にアジア歴史資料センターを開設したが、公文書の公開はひじょうに遅れ、歴史研究の大きな妨げ になっている。たとえ研究成果で確固たる事実が解明できても、政府がそれを認めるとは限らない。また、歴史教育の問題について、著者はつぎのように述べて いる。「学術レベルの成果が、国民レベルの議論や歴史教育にも反映され、共有されるとは限らない。日中双方とも、それぞれ異なる意味で「国内問題」として の歴史問題を抱えている。中国の場合は、「抗日戦争」の勝利が現政権の基盤となっているとすれば、それに抗するような歴史教育はあり得ない。他方、日本は 多様な歴史観の共存を保障し、教科書検定制度もそれを前提としているため、公的支援による歴史研究の成果も権威を持ち得ない」。
帯の表に「民主国家日本を縛り続ける帝国日本という過去」とあり、そこから解放されることは並大抵でないことが、本書からわかった。著者は、この困難な 問題にたいして、「終章「平和国家」と歴史問題−未来への説明責任」で、沖縄の問題を大きく取り上げ、沖縄の理解なしに「平和国家論」は成り立たないこと を示唆している。そして、歴史研究者として、「歴史編纂とパブリック・メモリー」の必要性をつぎのように主張している。「「歴史問題」が東アジアにおける 国際協調の課題となり、一国の歴史は他国の歴史との関連においてこそ初めて意味を持つ、そのような時代にわれわれはさいしかかっている。国の営みのなかで 何を記録として後世代に残していくか、という問題を考えるとき、歴史の語られ方は異なっても、東アジアのすぐれた経験は活かし得るはずである」。
さらに、最後の見出し「未来への説明責任」を、つぎのことばで結んでいる。「平和国家論をいわば「国是」として守り抜こうとすれば、そこに沖縄からの批 判にも耐え、村山談話[戦争への反省]を力強く支えるような内実を与える必要がある。その内実とは、近代日本の絶え間ない戦争と帝国圏の膨張の遺産につい て、広く歴史的検証可能な知的基盤の形成にあろう。それは、国や地方を問わず日本の行政機関に著しく欠けている「未来への説明責任」を果たすためでもあ る」。
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