2012年4月18日水曜日

asahi shohyo 書評

2012年04月17日

『装丁山昧』小泉 弘(山と溪谷社)

装丁山昧 →bookwebで購入

「本の品格は表紙にある」

 私の大好きなブックデザイナー、小泉弘さんの本が山と溪谷社から出版された。
 題して『装丁山昧』(そうていざんまい)。
 本と同じくらい山を愛する「紙のアルピニスト」小泉弘さんが、これまで装丁してきたたくさんの本の中から、とくに「山の本」に焦点を当ててまとめたものだ。

 ページをめくるたびに、ため息が出るような美しい本が登場する。どれも小泉さんらしい、清楚で、品のある装丁の数々。そして、それらの本について 語られた文章が、またいい。たんに外周を飾る装丁ではなく、内容を深く理解した上で本を装おうとしている小泉さんの態度に、心が揺さぶられた。

 たとえば『立山のふもとから』(船尾美津子、山と溪谷社)について書かれた文章。

 毎日新聞の富山版に連載しているエッセイを本にしたいというお話だった。
 一読して文章の上手な方だなと思い、そして行間に漂う空気に、ああ、東京の人だなと思った。(p. 40)

 東京出身の小泉さんだからこそ感じられた、東京の匂いだったのかも知れない。でも、これを感じられるか、感じられないかで、装丁の仕上がりはまったく違うものになってしまうだろう。

 連載を読ませてもらい、本文の設計から始って、印象を素直にブックデザインした。
 後日、本が出来上がって、出版社から届いた包みをほどいた著者は、派手な山のカラー写真で装丁されていたら嫌だなと思っていたところへ、宣伝帯も巻いていない装丁を一目見て、涙が止まらなかったと教えてくれた。(p. 41)

 こんな印象的なエピソードが、自らが形を与えてきた一冊一冊について語られていく。
 「ラブレターを書くつもりで装丁をしてきた」という小泉さんの文章を読んでいて、著者と編集者と装丁家の幸福な関係に、嫉妬すら覚えてしまうくらいだ。

 小泉弘さんは、私にとってはとっておきの装丁家だ。仕事よりも個人的な付き合いの方が多く、もっぱら私は小泉装丁本を買う側の人間だ。ざっと自宅 の本棚を眺めてみても、『月光に書を読む』(鶴ヶ谷真一、平凡社)、『魂の城 カフカ解読』(残雪、平凡社)、『書林の眺望 伝統中国の書物世界』(井上 進、平凡社)、そして本書にも収録されている『宮沢賢治と西域幻想』(金子民雄、白水社)等々。
 これまで私が編集して小泉さんに装丁していただいた本は2冊。うち1冊は小泉さんの自著だから、実質仕事としてお願いしたのはたった1冊だ。その時は、 企画から丸三年かけて編集した大切な本をお願いした。大切な本だから、小泉さんにお願いした。普段は内食で、何年かに一度、家族で食べに行く三ツ星レスト ラン。私にとって小泉さんの装丁は、そんな存在だ。だから烏有書林でも、いつの日か小泉さんにお願いできる本を作りたいと思っている。

 本書を読んでいて、やっぱり私と同じだ、と感じた記述がたくさんあった。

 しかし、たったワンカットだけ、空気感の違った写真があった。この一枚を見つけたとき、自分のなかでこの本のデザインはほぼ出来上がっていた。(p. 43)

 こんな経験が、編集者である私にもある。
 いい原稿に出会ったとき、それを読み終わったときにはもう、頭の中で製本まで終わっていることがある。本文の構成から使用書体、組版、用紙、造本、それ らすべてがありありと目に浮かんで、あとはその頭の中にある完成形を目指してひたすら進んでいくだけ。こんなラクチンなことはない。
 その原稿に与えるべきベストな形はどれか。このイメージを共有できるかどうか。多分に相性もあるとは思うが、これが共有できていると、すべてがスムーズに進み、中身も外見も、間違いなくいい本になる。

 本書に収録されている本の多くは、山と溪谷社、茗渓堂、白水社、平凡社といった渋い出版社の上製本(ハードカバー)だ。どれも凛とした佇まいの装 丁で、まったくブレがない。やっぱり上製本はこうでなくっちゃ、という私好みのものばかりだ。そして、いかにも小泉さんらしいのが、ジャケットだけではな く、表紙の写真もたくさん掲載されていることだ。
 
 これは小泉さんも書いているが、書店でジャケットのデザインに興味を持って本を手に取り、期待しながらそれをめくってガッカリ、ということが本当に多 い。ジャケットで頑張りすぎて表紙で力尽きてしまったようなものばかりで、表紙を見てハッと息を飲むような美しい装丁とはめったに出会えない。
 なんか、逆のような気がするのだ。
 理解しやすく、読みやすいように整理された文章(あえて整理しないこともあるが)や図版を綺麗に印刷した本文があり、それに相応しい表紙がデザインされ ている。私にとってはここまでが本で、ジャケットと帯は包装紙とチラシ代わりという感覚だから、少々ジャケットが派手でどぎつくても気にしないのだが、ま るで表紙がジャケットのオマケのように見える本のなんと多いことか。ふつうは扉や表紙をビシッと決めてからジャケットに取り掛かるものだと思うのだが、逆 の順番で作っているとしか思えないものがけっこうある。とくにソフトカバーの単行本にその傾向が強い。
 小泉さんは「ポスターを巻いたような本ばかり」という一文のなかで、

 私は常々、本の品格はジャケットではなく、表紙にあると考えている。(p. 140)

と書いている。まったく同感だ。こんな考えが伝わってくるから、私は小泉さんの装丁が好きなんだろう。
 本書の中には、これぞハードカバーという装丁がずらりと並んでいて、どれも素晴らしいのだが、でも、あえていま見てもらいたいのは、31ページの『山こ そ我が世界』(ガストン・レビュファ、山と溪谷社)のようなソフトカバーの装丁だ。ソフトカバーでこの佇まい。本物の装丁家の仕事だと思う。


→bookwebで購入

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