2012年04月16日
『「マルタの鷹」講義』諏訪部浩一(研究社)
「文学研究の硬派と軟派」
諏訪部浩一さんは研究者としては「硬派」である。たとえば、諏訪部さんの授業では一冊の小説を何年もかけて読むらしい。一回の授業で読むのは数 頁、一年でも数十頁という勘定である。実に禁欲的なやり方だ。十年後にやっと全部を読み終わる頃には、始まりの方で起きた殺人事件のことなど忘れてしまう のではないか?と心配する人もいるかもしれない。言ってみれば(あえてアメリカ風の比喩を使うと)ひとつのハンバーガーを切り分けて、朝・昼・晩と、い や、明日も明後日も明明後日も食べるようなものではないか。
しかし、実はこれは文学研究にかぎらず、大学の授業としては王道なのである。筆者が学生の頃にも、毎年シラバスに「Sein und Zeitを読む」としか書かない哲学の先生がおられて、ドイツ語にもう少し自信があれば是非のぞいてみたかった。そんなにゆっくり読むなんて、いったいどんな秘儀が行われているのか、確認したいと思ったものだ。
本書はその「秘儀」を、かなり親切に開陳した本である。全部で23の章に「イントロダクション」と「あとがき」と「語注」がついて、ふつうの大学 の授業の1年分弱。硬派で知られる諏訪部さんとしてはやや軟派な部類だろうが、それにしても対象はあの『マルタの鷹』だ(2時間足らずのB級アクション映 画!)。Sein und Zeitをじっくり読むというのとはわけが違う。より奥の深い「秘儀」が必要となるにちがいない。
だからこそ、「講義」という設定にこだわったのだろう。もちろん講義というのはフィクションで、おそらく本書の原稿は——まあ、ひょっとすると集 中講義などで使った可能性もないではないが——基本的には印刷物として読まれるために準備されたものである。しかし、それをあえて「講義」と呼ぶところに 著者の意図がありそうだ。
それはいったいどんな「意図」か。ダシール・ハメットの『マルタの鷹』はかつては有名だったかもしれないが、今や�ハードボイルドおっさん�のノ スタルジアくらいにしか見られない、つまり、「かつての名作」にありがちな黄昏れた気配を漂わせた作品である。しかし、諏訪部さんはこの作品がまだ生きて いることを示そうとする。そのためには「『マルタの鷹』はまだ生きてるぞ!」などと声をあげてもまったく意味がない。そこで彼は、ちょっと別の作戦を使っ た。物語に「直接的関与」をするのである。しかも、それは巧妙なからくりとともに行われる。諏訪部さんは自身の「直接的関与」については——いかにも硬派 な先生らしく——素知らぬ風を決め込んだ上で、そのかわりに、作品の主人公である私立探偵スペードが、探偵のくせに事件に「直接的関与」をしているという 事実に焦点をあてる。
探偵による事件へのこうした直接的関与という特徴は、ハードボイルド探偵小説が志 向する「リアリティ」に関連している。というのは、探偵が事件解決のための捜査をすることは、彼(もしくは彼女)の関わりによって(探偵自身のみならず) 事件が変容してしまうという、「現実」的な可能性を内包するはずだからだ。むろん伝統的探偵小説では、こうした「変容の可能性」という「現実」を排除する べく事件はしばしば「密室」で既に「起こってしまったこと」として提示されるのだが(ただし、この「取り返しのつかなさ」も、紛れもなくまた一つの「現 実」であるのだが)、そのように考えてみればなおさら、ハードボイルド小説においては事件とは常に「進行中のもの」であることが、その意義とともに理解さ れることになるはずだ。(49)
後半のところの「探偵」を「批評家」と、「事件」を「作品」と読み替えてみるとおもしろい。
批評家による作品へのこうした直接的関与という特徴は、ハードボイルド批評家が志 向する「リアリティ」に関連している。というのは、批評家が作品読解のための捜査をすることは、彼(もしくは彼女)の関わりによって(批評家自身のみなら ず)作品が変容してしまうという、「現実」的な可能性を内包するはずだからだ。むろん伝統的批評では、こうした「変容の可能性」という「現実」を排除する べく作品はしばしば「密室」で既に「起こってしまったこと」として提示されるのだが(ただし、この「取り返しのつかなさ」も、紛れもなくまた一つの「現 実」であるのだが)、そのように考えてみればなおさら、ハードボイルド批評においては作品とは常に「進行中のもの」であることが、その意義とともに理解さ れることになるはずだ。
驚くほど意味が通ってしまうことがおわかりだろう。どうやら諏訪部さんは、講義形式というフィクションを採用することによって、『マルタの鷹』が いかに「進行中のもの」であるかを示したかったのだ。そこではもちろん、講義という�進行的�な形式が効力を発揮するわけだが、文章となると(つまり仮の 講義では)そうした進みゆく感じを出すのは意外と難しい。そこで「秘儀」が必要になってくる。諏訪部さんの文章には独特の持続性と緊張感があって、そのお かげで「進みゆく感じ」が作られている。ごく簡単な例を「イントロダクション」からあげると、
それほどまでの「精読」に『マルタの鷹』が値するのかという疑問を抱く人がまだいるかもしれないが、右に述べた こととの関連であえていっておけば、ハメットは自分を「単なる探偵小説家」とは考えていなかったし、方法論に関しても、モダニスト的な意識が極めて強い作 家であった。(6)
…というような箇所の、「まだいるかもしれないが」(とくに「まだ」)や、「あえていっておけば」(とくに「あえて」)や、「考えていなかった し」(とくに「し」)などにこめられた微妙な苛立ちやお叱りの口調は、ハードボイルド批評家たる諏訪部さんの「講義」の進行感を増し、それが「直接的関 与」の気配を作るとともに、最終的には「直接的関与」をされている『マルタの鷹』の側の「依然として生きている」というフィクションを工作するのである。
もちろん上述のものはほんの序の口。ハードボイルド批評家たる諏訪部さんの、「事件」へのより深い「直接的関与」は本文を読み進めれば随所で出遭 うことができる。筆者がとりわけ印象に残ったのは、ハメット作品としては「殺人」がきわめて少ないという『マルタの鷹』の、その数少ない殺人のひとつ 「ジャコビ船長の死」についての「講義」である(第十六講)。この場面では主人公スペードがマルタの鷹の彫像を手に入れて、その興奮のあまり、珍しく我を 忘れて死体の手を踏んでしまうのだが、諏訪部さんはこのことについて次のように言う。
だが、スペードの足がジャコビの手の上にあるという描写は、こうした「非情」な振 る舞いが、同時に陥穽でもあるという可能性を前景化する。つまり、スペードが死者を足蹴にするこの場面は、彼が死者に足を引っ張られているようにも見える のだ。そしてそのように理解されてみれば、この「死者」は単なる「死体」であることをやめるだろう。ジャコビは「黒い鳥」を虚しく追い求めてきた人間達の 象徴となり、ブリジッドというファム・ファタールを虚しく助けようとした男達の列に連なるのだ。かくしてジャコビの虚しい死は、それを「非情」に扱おうと するときに、スペードにとって「他人事」ではなくなってしまうのである。彼が慌てて足を引っこめるのは、まったくもって無理もないことだといわねばならな いだろう。(218)
「踏みつけ」についての解釈そのものももちろんおもしろいのだが、何より興味深いのは、諏訪部さんが「つまり、スペードが死者を足蹴にするこの場 面は、彼が死者に足を引っ張られているようにも見えるのだ」といった活動写真の弁士めいた語り口を通し、そうした解釈そのものを、いわば煽っているという ことである。こうして、ふつうの人ならまず気がつかないような『マルタの鷹』の別の表情を明るみに出し、しかもそれを読者にぐいぐいと読ませることで、諏 訪部さんは『マルタの鷹』にあらためてその新しい命を生きさせるのである。
本書が「講義」であることの今ひとつの意味は、その「おみやげ」の多さにもある。諏訪部さんの語りには敏感なジャンル意識があって、『マルタの 鷹』を論じつつも、文学における「枠」とは何か?という問いがつねに頭をもたげている。そのせいもあって、たとえば「恋愛」ひとつにしても、「我を忘れて 本気になった方が負け」(123)といったマクロな視点からのコメント(もしくは忠告?)がなされるので、読者は最終的には「恋愛」「ファム・ファター ル」「探偵小説」「警察もの」「殺人」といった大衆小説の鍵概念について、多くの�常識�を獲得したうえで帰途につくことができるという案配なのである。 やはり、正真正銘の講義だと言えるだろう。
本書ではところどころで「探偵でありつづけることのたいへんさ」への言及がなされる。それは裏返せばハードボイルド批評家としての諏訪部さん自身 の「たいへんさ」ともからんでくる。しかし、同時に、それだけ「たいへん」で忙しいのに語り続けてしまう、その明るい負担感のようなものが仄見えるところ に、この「講義」のほんとうの楽しさがあるようにも思った。
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