2012年12月26日
『哲学の歴史 09 反哲学と世紀末』 須藤訓任編 (中央公論新社)
中公版『哲学の歴史』の第9巻である。このシリーズは通史だが各巻とも単独の本として読むことができるし、ゆるい論集なので興味のある章だけ読むのでもかまわないだろう。
本巻はウィーン体制成立から第一次大戦までの百年間のドイツ語圏の哲学をあつかう。副題に「マルクス・ニーチェ・フロイト」とあるようにシリーズの中でも要となる巻だが、マルクス、ニーチェとフロイトは異なる文脈で登場する。
本巻は12の章にわかれるが、第1章フォイエルバッハから第5章ニーチェまではヘーゲル主義が解体していく過程なのに対し、第6章の新カント学派 以降はヘーゲルという重しがとれた後に新しい哲学が簇生していく過程として語られている。マルクスとニーチェは反ヘーゲルという文脈から離れられないが、 フロイトは世紀末の精神科学の一つという位置づけなのだ。フロイト単独では哲学史になじみにくいが、ディルタイやジンメル、マックス・ヴェーバーらとなら べられることでしかるべき場所をえている。
「総論 マルクス・ニーチェ・フロイト」 須藤訓任
ハイネは『ドイツ古典哲学の本質』でドイツ観念論は来るべき革命を予告するものだと高らかに宣言したが、予言とはうらはらにウィーン体制下の反動の時代が到来し、ヘーゲル学派自体も右派、左派、中央派に分裂したというところから語り起こしている。
ウィーン体制は1848年の3月革命で終わるが、革命もドイツ統一成就せず、以後上からの改革がドイツ各地で進められ、1871年のプロイセンによる「上からの統一」をむかえることになる。
この時期大学の外で新しい思想が芽吹きはじめる。本巻の前半に登場する6人の哲学者のうち、フォイエルバッハとショーペンハウアーは一応大学で教 えたが私講師にすぎず、ニーチェは短期間古典文献学の教授として教壇に立っただけだった。マルクス、エンゲルス、キルケゴールはジャーナリストである。
彼らは大学と縁がなかっただけでなく社会においても片隅にいた。ショーペンハウアーとキルケゴールは親の遺産で食べていたし、フォイエルバッハは 女実業家だった妻に食べさせてもらっていた。エンゲルスは親の工場を嗣いで資本家になり、マルクスはそのエンゲルスに仕送りしてもらっていた。ニーチェは 早々に大学を辞め、わずかな年金で糊口をしのいでいた。独立した章はたてられていないが、シュティルナーにいたっては妻の持参金を食いつぶしたあげくに離 婚し、借金まみれになって貧窮死した。現代思想の源流と呼ばれる人たちはそろいもそろって穀つぶしばかりである。
1871年の普仏戦争の勝利によって統一ドイツが誕生すると上からの近代化が急速に進み、ドイツはわずか40年で世界第二の工業国にのしあがっていく。急激な近代化は社会に歪みをもたらしたが、この慌ただしい時代に本巻後半で語られるさまざまな精神科学が誕生している。
「フォイエルバハ」 服部健二
ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハは1804年に南ドイツのバイエルン王国に産まれる。父親のパウルはバイエルン王国の刑法典を制定した法学者で、「法律なくして罰則なし」という罪刑法定主義は近代法学に大きな影響をあたえた人であるが、『バイエルン犯科帳』やカスパー・ハウザーの観察記録を出版している。
フォイエルバッハは聖書を耽読し、わざわざユダヤ人のラビからヘブライ語を学ぶほどの敬虔な青年だった。最初宗教哲学と神学を学ぶが、後に哲学に 転じヘーゲルの講義を受けるようになる。キリスト教では宗教的情熱を満足させられないことに気づき、スピノザの汎神論に引かれるようになったのだ。
1828年にエルランゲン大学の私講師になるが、1830年にフランスで七月革命が起こると触発されて『死および不死についての考察』を匿名で出版。敬虔主義やキリスト教国家を批判したのがたたって馘になる。
親の遺産を食いつぶしながら物書き稼業をはじめるが、1837年に女性実業家のベルタ・レーヴと逆玉結婚し、ブルックベルク城の見晴らしのいい二階を書斎にして好きな研究に打ちこむようになる。
エルランゲン大学でおこなった『論理学形而上学講義』では霊魂としての自然が弁証法的に展開するというヘーゲル論理学を祖述し、『近代哲学史講 義』ではカントの二元論を克服したフィヒテの「生命の立場」や自然を自己産出的な創造力ととらえるシェリング、なかんずく生命を学にもらたらしたヘーゲル を評価している。1934年に刊行した最初の哲学史では自然を数量化したデカルトよりも感性を重視したベイコンや自然の質を重視するスピノザ、活動的な力 の概念を「物質の運動の究極の根拠」としたライプニッツを重視し、『ピエール・ベール』では啓蒙思想期の科学者はキリスト教神学と結びつくことによって自 然を「単なる機械」に貶めたと批判している。フォイエルバッハの自然は生命力をはらんだ感性的な自然であって、近代科学が対象とする数量的・機械論的自然 とは別物だったのだ。
『ピエール・ベール』でもう一つ重要なのはキリスト教神学は「人類を自然から疎外し、自然の身になって感じたり、考えたりする能力を奪った」としている点だ。近代科学による自然の「疎外」という考え方がすでにあらわれていたのである。
1841年は主著である『キリスト教の本質』を刊行する。フォイエルバッハは疎外の論理を拡大し、宗教は人間の自己疎外であり、「人間は自分の像に似せて紙を創造した」とするおなじみのキリスト教批判を展開するわけだが、これが大きな反響を呼んだ。
マルクスは当初「社会主義に哲学的基礎をあたえた」と絶賛するが、後に「フォイエルバッハに関するテーゼ」で自然を観照的直観の立場から見るだけで実践の対象ととらえない古い唯物論だと厳しく批判する。
本章の著者はフォイエルバッハにとって実践は自然を支配するための活動ではなく美的・理論的直観と結びついた活動だったとして、フォイエルバッハの実践概念に近代化至上主義を越える可能性を見ている。
フォイエルバッハは人間が宗教を作りだしたのは窮迫のためだとしたが、その窮迫は物質的豊かさで解決されるようなものではなく、有限者である人間の条件だった。フォイエルバッハは書いている。
限界のないところ、時間のないところ、窮迫のないところ、そこにはいかなる質もエネルギーも精神も炎も愛もない。窮迫した存在者だけが必然的な存在者である。窮迫のない存在者は根拠のない存在者である。受苦することができる者だけが実存するに値する。
フォイエルバッハがこんなに深い思想家だったとは思わなかった。マルクスによって乗り越えられたわけではなく、むしろこれから読み直されるべき人のようだ。
1859年には妻の経営していた製陶工場が倒産しフォイエルバッハ家は困窮するが、友人たちやシラー財団、ニュールンベルクの社会主義者が援助し、病床に就きながらも1872年に安らかな死をむかえた。