2011年05月29日
『ミモロジック—言語的模倣論またはクラテュロスのもとへの旅』 ジェラール・ジュネット (書肆風の薔薇)
井上ひさしの『私家版 日本語文法』 に「n音の問題」というおもしろい説が出てくる。英語のNo、not、フランス語のNon、ne、ドイツ語のNein、nichit、日本語の「ぬ」、 「ない」のように否定や拒絶の表現はなぜか n音が担うことが多いが、これは nという子音が舌を歯の裏に持ちあげて外界を遮断することで発せられる音だからなのだという。外界を拒絶する気持ちが n音に否定の意味合いをもたせたというわけだ。
一瞬そうかなと思ってしまうが、引いて考えればインド・ヨーロッパ語族の一部の語派と日本語がたまたま n音で否定をあらわしているというだけのことであって、そうでない言語の方が多い。ドイツ語の Nameと日本語の「名前」の類似のように偶然の一致と考えるべきだろう。
現代の言語学は音と意味の間につながりはないとする恣意性の原理を大前提にしており、「n音の問題」のような心理的語源論はすべて錯覚ということになる。
しかしそうはいっても宮澤賢治の『無声慟哭』を n音を手がかりに読みとく井上の論旨は妙に説得力ありげに感じられる。われわれは音と意味の間には必然的なつながりがあると夢想する性向をもっているのだろうか。
ジェラール・ジュネットは言葉は物のありようを反映するように形成されたとする立場を言語的模倣主義(ミモロジスム)と名づけ、本書において夢想の言語学というべきミモロジスム2500年間の歴史を跡づけている。
ミモロジスムの嚆矢はプラトンの『クラテュロス』だが、同時に反ミモロジスムの発端でもある。というのもこの対話篇でソクラテスは物の名は物の本 性を反映した物だとするクラテュロスと対話するだけでなく、物の名は本性とは無関係に慣習によって決まるとするヘルモゲネスとも対話しているからだ。
現実が一つである以上、物の本性を完璧に反映した言語はただ一つしかないが、ヘルモゲネスは複数の言語があるという相対主義によって唯一真性の言語という主張に反対する。
プラトンはソクラテスにヘルモゲネスとクラテュロスの双方をやりこめさせ、どちらが正しいとも決めずに対話篇を終えている。プラトンはヘルモゲネ スとクラテュロスどちらの立場をよしとしたのか古来論議になっており、現代の註釈者はクラテュロスの背後にヘラクレイトスを見ているということだが、ジュ ネットはソクラテスがクラテュロスに反対しているのはすべての物が正しい名をもっているとする点であって、物は本性を反映した正しい名で名づけられるべき だとするクラテュロスの価値観自体は否定していないことに注目する。現実の言語が物の本性を十分反映していないなら、より反映するように言語を変えようと いう立場がありうるだろう。物と言語の間にズレがあるのはミモロジスムが間違っているのではなく、現実の言語の方に欠陥があるからだというわけだ。ジュ ネットはそのような立場を第二次ミモロジスムと名づける。『クラテュロス』はミモロジスムと反ミモロジスムのみならず、第二次ミモロジスムを先取りしてい る点でミモロジスムの歴史の発端に位置するテキストなのである。
ミモロジスムの夢想というか妄想は単語のレベル、音素のレベル、文字表記のレベルで展開され、あきれるような話が次々と出てくるが、一番驚いたのは語順のレベルのミモロジスムで、これは新旧論争に係わっていた。
古代崇拝のルネサンスが終わり本格的に近代がはじまると、近代人は古代人に匹敵するのではないか、いや近代人の方がすぐれているのではないかとい う主張が生まれ、古代人の方がすぐれているとする古代派との間に論争が起こった。言語においてはフランス語とラテン語の優劣論争が起り、その過程でフラン ス語はもっとも明晰な言語だというフランス語至上主義が確立していったが、争点となったのは語順だったのである。
ラテン語は語尾の屈折によって文法的地位をあらわすので語順は自由だが、フランス語は動詞以外の屈折をほとんど失い、「主語-動詞-目的語」のように語順で文法的地位をあらわすので語順が固定されている。
近代派の論者はフランス語の語順こそが思考の自然を反映したものだと主張する。語順的ミモロジスムである。ラテン語の学習では漢文の読み下しのよ うにラテン語の文をフランス語の語順に並べかえることもおこなわれていて、これを「構成する」と称した。そしてローマ人もフランス人と同じ語順で思考して いたと決めつけ、「フランス人は自分たちが思考するとおりに話すが、ローマ人は思考するのとは別様に話す」とか「キケロ、そしてあらゆるローマ人はラテン 語で話す前にフランス語で思考していた」などと称していた。ベイカーの『言語のレシピ』によれば「主語-動詞-目的語」型の言語は全世界の6000の言語のうち2500ほどしかなく、普遍的でもなんでもない。フランス語の明晰性とはこういう妄想が根拠だったのである。
インド・ヨーロッパ語族が発見され比較言語学が確立するとただ一つの完全な言語というミモロジスムの大前提が説得力を失い、学問の場面からはミモ ロジスムは姿を消す。代わりに台頭してきたのが民族精神である。言葉は現実を模倣しているかどうかではなく、民族精神を反映しているかどうかが問われるよ うになったのだ。
一方、文学の世界ではミモロジスムは生き残り、詩学の源泉でありつづける。たとえばマラルメだが、ただしそこには罠がある。
英語教師として生計をたてていたマラルメは『英語の単語』という学習参考書を上梓したが、同書には参考書らしからぬ以下のようなミモロジスム的夢想が展開されていた。
- bは大きさないし丸さを意味する。
- pは積み重ね、停滞、ときには激しく明確な行為をあらわす。
- fは強くしっかりとした締めつけをあらわす。flは飛翔を、またそこから修辞的な転位によって光、流れをあらわす。frは戦いないし遠ざかることをあらわす。
- gは欲望をあらわす。glは満たされた欲望を、またそこから喜び、光、滑らかさ、増大をあらわす。grは欲望された対象の獲得、押しつぶすことをあらわす。
こんな参考書が役に立つとは思えないが、クリステヴァは『詩的言語の革命』第二部で『英語の単語』を参照しながら「デ・ゼッサントのための散文」の音素レベルでの解読をおこなった。
ジュネットはクリステヴァとは名指さないものの、「マラルメの詩編に『英語の単語』で述べられた象徴的な諸価値を当てはめようとすることほど、彼の「無意識下の」詩学に反することはない」と斥けている。ジュネットが注目するのはむしろ「詩の危機」の以下の条だ。
矛盾したことに、jour(昼)に暗い響きが、nuit(夜)に明るい響きが当てられているという倒錯には、まったく失意を禁じ得ない。輝きをあ らわす言葉にはきらめいたものであって欲しいし、逆の場合にはくすんだものであって欲しい。少なくとも明暗の単純な交替に関してはそう願いたい。ただしも しそのとおりになったならば、詩句は存在しなくなるであろうということを認識しておく必要がある。詩句は言語の欠陥を哲学的に補う高次の補完なのだ。
マラルメは単語のレベルではミモロジスムが成りたたないが、詩句のレベルでは実現可能だとしている。これはまさしく最初にふれた第二次ミモロジスムである。暗いひびきのjourという語を詩句の中で明るく輝かせることがマラルメの詩作なのだ。
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