2011年5月31日火曜日

kinokuniya shohyo 書評

2011年05月30日

『可視化された帝国−近代日本の行幸啓』原 武史(みすず書房)

可視化された帝国−近代日本の行幸啓 →bookwebで購入

「「想像の共同体」ではなく「可視化された帝国」」

「目からウロコが落ちる」という言葉があるが、私にとって、本書を読んだ時の感想もそれに近いものがあった。
 本書の骨子は、ベネディクト・アンダーソン流の「想像の共同体」論を、近代日本の実情に照らし合わせながら、批判していくところにある。 アンダーソンの『想像の共同体』は、近代史や歴史的な文化研究を志す者にとって、いわばバイブルの一つだが、その内容とは、国民国家の成立にメディアが果たした役割を指摘したものといえるだろう。

 すなわち、それまで時空間的に独立していた国内の各地方が、新聞や書籍といった出版メディアが登場したことで、共通の言語を用いて、あたかも一つ の問題関心を共有するような感覚を覚えるようになり、それが国民国家としての統一につながっていった、というものである。日本においても、明治期の近代国 家の成立過程を批判的にとらえる立場から、よく引用されてきた文献である。

 しかしながら、著者の原武史に言わせれば、明治期における近代国家の成立に、「想像の共同体」論を直輸入するのは、あまりにも当てはまりが悪いと いう。というのも、アンダーソンの議論は、メディアの中でも特に出版メディア(聖書や新聞など)に着目して、それによる「想像の共同体」の成立が国民国家 の制度化に先行していたとするものだが、日本社会においては、それに相当するメディアは存在しなかったのではないかという。

 たしかに近代日本において、新聞の発行部数が急伸していくのは、はやくても1877(明治10)年の西南戦争、もしくはその後の日清・日露戦争時の戦勝報道を欲してのこと、といわれており、やや時代的には後のことのように思える。

 では、何が日本の近代国家の成立に貢献したメディアであったのか。この点について原は、西南戦争時に兵員の輸送手段として注目され、日清・日露戦争時にはさらにその路線網を伸ばしつつあった鉄道に注目をする。

 近年では、メディアといえば、情報を伝達する手段と捉えられることが多いため、鉄道がメディアというのはやや違和感を覚えるかもしれない。だが、 かつては、新聞輸送列車や郵便車というものが存在していたように、鉄道も情報を伝達する手段のひとつであったし、そもそも「人々を結びつける技術的な手 段」という点においては、鉄道もメディアの一つである(余談だが、メディア論の古典ともいえる、マクルーハン『メディア論』の冒頭にも、鉄道がメディアで あるという説明が登場する)。

 その上で原は、鉄道を用いた天皇の行幸啓が、明治期の国民国家成立に果たした役割を分析している。いわばそれは、出版メディアの受容が「想像の共 同体」の存在を人々に知覚させたというよりも、むしろ天皇の「お召し列車」が通過する際に、「地元の人々が動員されてきれいに整列し、決められた時間どお りに走る列車に向かって、いっせいに敬礼する」(P68)ようなふるまいが拡がっていくとともに、「帝国」が「可視化」されながら成立していったのではな いかという指摘である。
 
 明治期の日本においては、後発的な近代化を急速に成し遂げる必要があったという点からすれば、「想像の共同体」に先行して「可視化された帝国」の成立が急速に進められていたという主張の方が理にかなっているといえるだろう。


 本書では、さらに大正期、昭和期の行幸啓にまで焦点が当てられており、「常識」に従えば天皇制論、あるいは政治学の文献として読むべき著作なのだろう が、私は「鉄道文化論」として興味深く読んだ。著者の原武史氏も本業は政治学者だが、近年では、「鉄道に詳しい大学の先生」ということで有名だろう。

 あるいは、政治学者と鉄道ファンであることが、別々のこととして語らなければならないような今日の社会の方が、どこか間違っているのであって、実 はそれほどに、この社会と鉄道との関係が根深い(にもかかわらず、そのことが驚くほど知られていない)ということを教えてくれる一冊でもある。


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