2011年04月29日
『声と文字』 大黒俊二 (岩波書店)
カロリング・ルネサンスのはじまった8世紀末からグーテンベルク前夜の15世紀前半まで、700年余の口語と文章語の関係を跡づけた本である。本 書は岩波書店から出ている「ヨーロッパの中世」シリーズの一冊で、著者の大黒氏は中世イタリアを中心に商業史を研究している人だそうである。
これまで口語と文章語の関係というと11世紀に焦点をあわせた研究が多かった。11世紀以降文書の量が急増したことは諸王の文書発給数や書記局の 蠟の消費量の推移などの統計でも裏づけられている。文書が増えるにしたがい書体も変化した。一文字一文字わけて書く丸っこいカロリング小文字体に代わって 速書きのできるゴツゴツしたゴシック体が一般化した。11世紀は声中心社会から文字中心社会への変わり目にあたり「大分水嶺」とも呼ばれてきた。
ところが本書は300年早いカロリング・ルネサンスを出発点に選んでいる。なぜ8世紀末なのか? 文章語に一大変革が起こり、口語との乖離が決定的となったのがこの時代だからである。
ローマ帝国滅亡後、帝国の北辺では蛮族の話すゲルマン語が主流となったが、ガリア(フランス)より南では依然としてラテン語が話されていた。時代 がくだるにつれラテン語は崩れイタリア語、フランス語、スペイン語等々にわかれていくが、聖職者が説教や典礼で用いるラテン語は民衆もある時点までは理解 することができた。
ラテン語がいつ民衆の理解できない言葉になったのかについては諸説があったが、現在では8世紀後半の数十年という短い期間に決定的な変化があったという見方が定説になっている。その直接の契機となったのがカロリング・ルネサンスである。
民衆の日常語が変化していくと聖職者の話すラテン語も影響を受け、文章語としてのラテン語も徐々に変化していった。それはラテン語が崩れるということでもある。
西ヨーロッパを統一しキリスト教の権威で統治していこうとしたシャルルマーニュは正しい教えを守るためにラテン語改革に乗りだした。聖職者のラテン語が乱れ地方地方で異なるようになったら何が正しい教えかわからなくなるからだ。
シャルルマーニュはアーヘンの宮廷に学者を集めて正しいラテン語を定めるとともに、各修道院・各教区に学校を設立させ教育に力をいれた。聖書や典礼書の写し間違いは異端を産みかねないので学者にテキストを校訂させ、正確な写本を生産する体制を整えた。
ラテン語の記法も一変した。各地で自然発生的に生まれていた小文字体を読みやすく洗練されたカロリング小文字体に統一し、見出しはローマ方形大文 字体、本文はカロリング小文字体という使いわけを創始し、単語の分かち書きを広めた。大文字だけで切れ目なく書かれていたラテン語は格段に読みやすくなっ た。
その一方、ラテン語の純化は民衆語との断絶を決定的にした。民衆語はラテン語とつながりを失って独自の発展を加速し、イタリア語やフランス語、スペイン語等々に分化していった。
本書の後半は大分水嶺以降を描くが、著者が注目するのは俗語の読み書き能力である。今日の感覚ではわかりにくいが、当時「文字を知る」とはラテン 語が書けることを意味した。大量の手稿を残したレオナルド・ダヴィンチが終生「文字を知らない」と自認していたことからわかるように、俗語の読み書き能力 はリテラシーには含まれていなかった。「文字を知らない」人の読み書き能力には幅があって、ラテン語の読みだけができる人や俗語の読み書きができる人、俗 語の読みだけができる灯とまでをも含んでいたのだ。著者はこうした読み書き能力を「実用的リテラシー」と呼んで狭義の(ラテン語の)リテラシーと区別して いる。
中世後期の俗語のリテラシーとなると山本義隆氏の名著『一六世紀文化革命』と重なってくるが、著者は山本氏の本を意識して話題を取捨選択している ような印象を受ける。これはわたしの勘ぐりすぎなのかもしれないが、山本氏がとりあげている科学書などの話題は等閑視する代わりに、山本氏があまりふれな い商業革命や説経師の俗語の説教については多くのページをさいているようなのだ。
意図したことなのかどうかはわからないけれども、本書は山本氏の『一六世紀文化革命』と補完しあう関係にあるようだ。同書とあわせ読むことによって中世の文章語の世界がより立体的に見えてくるだろう。