最大級の石室持つ古墳確認 石舞台しのぐ規模 明日香村
2008年02月07日22時05分
奈良県明日香村にある真弓鑵子(まゆみかんす)塚古墳(6世紀中ごろ)の横穴式石室が、蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳(同村、7世紀初め)をしのぐ国 内最大級の規模であることがわかった。同村教委が7日、発表した。石室は1〜3トンの約400個の石をドーム状に組み上げ、遺体を安置する中心部の玄室と は別に奥室を持つ国内では例のない構造だった。
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真弓鑵子塚古墳の巨大な石組み玄室。左右に入り口が見える=1日、奈良県明日香村で、超広角レンズ使用 |
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復元した革ベルトの上にのせられた獣面飾金具(上)。ほかに玉類(右下)、銀象嵌(ぞうがん)刀装具(中央下)、金箔片も出土した=7日、奈良県明日香村で |
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真弓鑵子塚古墳の平面図 |
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史跡指定を目指す村教委が昨夏から調査していた。同古墳は直径約40メートルの円墳とみられ、玄室(奥行き6.5メートル、幅4.4メートル、高さ4.7メートル)の北側は、通路状の奥室(奥行き4メートル、幅2メートル、高さ約2メートル)だったことがわかった。
玄室の床面積(約28平方メートル)は石舞台古墳(同26平方メートル)より大きく、欽明天皇陵とされる丸山古墳(橿原市、6世紀後半)の約34平方メートルに次ぎ2番目。
複数の死者を葬るために広く造ったとみられ、少なくとも家形石棺2基と木棺1基が置かれていたらしい。また、金銅製の馬具や獅子の顔をかたどったベルトの金具など経済力を示す遺物も出土した。大規模なドーム状石室は国内では珍しい。
1913年と62年に考古学者らが測量しただけで、本格的な調査がなされていなかった。現地見学会は9日午前10時〜午後3時。
■被葬者はだれ? 東漢氏や蘇我稲目説
真弓鑵子塚古墳は南北2カ所に入り口がある巨大古墳とされ、1913年と62年の2度、考古学者らが測量した。しかし民有地だったこともあり、詳しい発掘はないままだった。
昨夏から村教委の調査が始まり、新たな事実が相次いで判明した。北側の入り口が実は石棺を納めるためだけの臨時出入り口とみられ、室内から石壁で入り口をふさいで、遺体を納めるための玄室とは別に「奥室」をつくったとみられる。
玄室と奥室の両方から石棺の破片がみつかったことなどから、少なくとも石棺2基と木棺1基が安置されていたらしい。南側の入り口から新たな死者を葬る追 葬が数回あったとみられるため、調査にあたった西光慎治技師は「この地の首長が一族代々のために広い墓を造り、その権力を示したのではないか」とみる。
被葬者の素性を知る手がかりは、石室の床から見つかった、炊飯具をかたどるミニチュア土器。「渡来人の古墳からよく見つかる土器だ。こ のころ蘇我氏に近づいて勢力を伸ばした渡来系氏族、東漢氏(やまとの・あやうじ)の墓では」と、和田萃・京都教育大名誉教授(古代史)は指摘する。
東漢氏は朝鮮半島の先端技術を伝えた集団で、崇峻天皇(?〜592)暗殺などでも暗躍したとされる。巨石を積み上げたドーム状の石室は朝鮮半島には多く見られ、彼らの技術力の証しだろうか。
一方、京都橘大の猪熊兼勝教授(考古学)は当時の大権力者・蘇我稲目(?〜570)を候補に挙げる。稲目が百済の姫2人を妻にしたという 日本書紀の記述をふまえて「追葬されたのはこの2人ではないか。石舞台より古くて規模も大きいし、石舞台の主という馬子(?〜626)の父、稲目の墓でも 不思議はない」。