2010年12月29日
『ルワンダ ジェノサイドから生まれて』ジョナサン・トーゴヴニク著・竹内万里子訳(赤々舎)
「写真から感じるものと、テキストが伝えるものの狭間で、宙づりになる」
サンダルを履いていたり、裸足だったり。洗い立てのワンピースだったり、汚れた穴だらけのシャツだったり。笑っていたり。穏やかだったり、緊張していたり、放心した様子だったり。それぞれの家の庭や近所で撮った母と子のポートレイトである。親子の写真を見るとき、私たちの視線はふたりの類似性に注がれる。まだ特徴らしきものが浮かび上がっていない生まれたての赤ん坊の顔を見て、母と父 のどちら似かと話したり、親戚の会合などで、だれとだれがそっくりかというような話が尽きないのを見てもそれはわかる。似ているかどうかは、だれにとって も心の琴線を揺らすテーマなのだ。
この写真集に載っている30組の親子についても、私たちはどこかに似ている部分を探しながら見ていくはずである。目がそっくりだとか、鼻の形が似て いるとか、顔の輪郭が共通しているとか、目鼻立ちはちがうけど雰囲気がよく似ているとか、そんな言葉を心の片隅に集めつつ繰っていく。ところが、写真のと なりページに載っている母親の言葉を読むとき、「似ている/似ていない」の奥に潜んでいる壮絶な事実に絶句せずにいられない。
ルワンダというアフリカの小国を、1994年に起きた大量虐殺事件によって知った人は多いだろう。私もそのひとりであり、いまだに「ルワンダ」ときけば浮かんでくるのはマスコミを席巻したあのジェノサイドのイメージである。
ルワンダに暮らすフツとツチの対立には複雑な歴史があり、ジェノサイドの理由を一言では説明しきれないが、直接の引き金になったのはフツ出身の大統 領の乗っていた飛行機が撃墜されたことだった。フツによるツチの人々の大量虐殺が開始され、ツチの男性は殺され、女性は性的暴行を受け、100日間に80 万人もの命が奪われた。
ここに収められているのは、そうした想像を絶する暴力沙汰の結果として生まれた子供たちと、苦悩の果てに彼らを産んだ母親たちのポートレイトである。そうした子供の数は2万人にのぼり、一つの世代を成しているという。
妊娠したと知ったとき死のうと思ったが実行できず、産んだ赤ん坊をその場で殺そうとしてもだめだった。女性のほとんどがそう告白するが、子供への思いはそれぞれに微妙に異なっている。
ジョゼットは「私は正直でなければなりません」と言いつつ、この子を愛していないと告白する。好きなろうという努力も、息子の頑固さや性質の悪さを 目にするたびに「血のせいだ」と感じて気持ちが萎えてしまう。その反対にイベットのように、産んでみるととても美しい子供だったので即座に愛が芽生えたと 語る人もいる。ウェラの場合は、家族全員が殺され生き残ったのは自分ひとりだったから、「この子が地球上で私の唯一の家族かもしれない」と感じて世話しよ うと決めた。
粗暴で醜く頑固な子供を、素直で気立てのいい子供とおなじように愛するのはむずかしい。受け入れがたい性格の理由を父親の血に求めるのは当然だろ う。円満な結婚で生れた子供に対してもそうすることがあるのだから! どの親子関係にも、感情が屈折するに充分すぎるほどの多様な要素が絡み合っている が、共通しているのは彼女たちが死を決意させるほどの困難をくぐりぬけてきたこと、多く母親が暴力を受けた際にHIVに感染したこと、家族や地域社会に疎 まれて子供がフツの血をひいていることを隠して育てていることだ。
写真の内容を理解するためのテキストがついている写真集は多い。だが、この写真集ほどそれぞれの伝えるものが乖離している例を見たことがない。写真 だけ見れば、親子だと思わせる特徴の多くになごやかな気持ちになり、一緒に撮られていることに愛情関係の象徴を感じとったりもする。ところがテキストを読 むとき、その感情は大きくゆさぶられる。望まない過酷な状況によって成立した親子関係であり、それぞれに込み入った感情を抱えつつ生きているのを知ること になる。それは見る者を戸惑わせるに充分なギャップであり、写真とテキストを自分のなかでどう繋げようかと悩みはじめる。テキストが必須なのは明らかだ が、読めば読むほどより大きな謎のなかに投げ出されてしまうのである。
私たちは宙づり状態を嫌う。サスペンスにはオチが欲しい。最後には地上におろして欲しいのだ。しかし、この写真集を見るうちにひとつの思いがふつふ つと湧いてきた。私たちはすぐに、どうしたらいいか教えてくれ!と叫んでしまう。不条理な現実に耐えられず、わかりやすい理解の仕方に頼ろうとする。だ が、手近な解決法を求めるのは人間の弱さのあらわれなのではないかと。
暴行された女性のなかには自殺した人も、赤ん坊を殺した人もいただろう。だが、ここに登場する30人の母親たちは、それをせずに子供を育ててきた。 その事実がなければこれらの写真は撮られず、写真を介して私たちが会うこともなかったのだ。彼女たちがさまざまな自問自答を繰り返しつつも、生き抜くこと に、宙づり状態の解決方法を求めてきたことに気づくべきなのだ。
写真には、テキストの凄絶さとは裏腹の安らぎや穏やかさが漂っている。それが読者の謎めいた気持ちをより助長する一因になっている。こんなにすさま じいことをくぐり抜けてきて、どうしてこんな表情ができるのか、そう問わずにいられない。おそらくその秘訣は撮影のタイミングにある。インタビューのあと に撮られているのだ。
「子供を愛していない」と語ったジョゼットは息子の肩に手をまわし寄り添って立っている。息子は彼女の言うように「頑固で性質の悪い」子供には見えない。胸のうちに秘めていた体験と心情を語り尽くした母の安らぎに、彼もまた感応しているかのようだ。
写真はこちらが感じとる以上のことは語らないから、もしかしたら本当は邪悪なものを秘めた育てるのがむずかしい少年なのかもしれない。だが少なくと もこの瞬間、彼はそうした闇から解放されて光輝いている。穏やかな表情にふたりの魂の邂逅を感じとることができる。そしてそのときはたと気づくのだ。ふた りがこうして写真に撮られたことの意味は決して小さくはないということに。この先の人生においてこの一葉の写真がなに事かを語りかけ、ふたりを支える時が かならず来るだろうということに。
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