2011年1月13日木曜日

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「卑劣」イメージの見直し進む キリシタン大名小西行長

2011年1月13日

写真:居城の跡に立つ小西行長の銅像。「極悪人」との反発でトタン板で覆われていたこともある=熊本県宇土市拡大居城の跡に立つ小西行長の銅像。「極悪人」との反発でトタン板で覆われていたこともある=熊本県宇土市

表紙画像著者:鳥津 亮二  出版社:八木書店 価格:¥ 5,040


 豊臣秀吉の家臣で、関ケ原で敗れ刑死したキリシタン大名、小西行長 (1558〜1600)の人物像が大きく転換している。石田三成と並ぶ実務派で、朝鮮出兵では外交交渉を担ったが、勇敢な加藤清正とは対照的に卑劣な武将 として描かれることが多かった。だが近年、領国だった熊本県内で研究が進み、伝承や逸話の多くが事実とは思えないことがわかってきた。

◆寺社弾圧 尾ひれつき伝承

 居城だった宇土城跡(熊本県宇土市)には行長の銅像が立っている。高さ5.6メートル。没後380年を記念し1980年に2千万円を投じ完成した。だが、この銅像は除幕式の翌日から2年近くトタン板で覆われていた過去がある。

 「仏教や神道を弾圧し寺社を焼いたと語り伝えられてきたので」と同市教委の高木恭二教育部長は振り返る。「銅像を打ち壊す」「公費の無駄遣い。許せない」といった怒りの声が寄せられたという。

 ところが、この伝承は正確でなかったようだ。市史編纂(へんさん)のため、地元にほとんど残っていない行長の史料を全国に探す と、578点も見つかった。それをもとに07年に刊行した市史は「寺社破壊があったとしても、キリスト教信仰にもとづいて強行されたとは考えがたい」と記 した。

 執筆した吉村豊雄熊本大教授は「行長は豊臣政権の高級官僚であり、あまり地元にいることができず、支配態勢の整備を急いだ。地 域の既成勢力である寺社に対しても厳しい姿勢で臨み、検地などで経済基盤を失った寺社があったのも確かだろう。しかし、キリシタンだから焼いたといった伝 承は尾ひれのついた話だ」と説明する。

 キリシタン史が専門の五野井隆史東京大名誉教授によると、行長が熊本県南部の領地を与えられる前年の1587年、秀吉はキリシ タン禁教令を出しており、それに反して宗教的な行動を起こすことは考えられないという。「寺社の破壊があったとしても、行長がキリシタンだったからではな く、その寺社が反対勢力だったからだ」と指摘する。

◆秀吉に忠実 現実主義者

 同じく行長の領国だった八代市立博物館学芸員の鳥津亮二さんは昨年、『小西行長 「抹殺」されたキリシタン大名の実像』(八木書店)を出版した。行長が出した書状を各地から101通見つけ、読み解いた。浮かび上がったのは「どこまでも秀吉に忠実な人生」だったという。

 朝鮮出兵の和平交渉では、明側と共謀し秀吉をだまそうとして失敗する逸話が知られるが、「ありえない」と鳥津さんは考える。行 長の書状で目立つのは、朝鮮に出陣した大名からの「いつ帰国できるのか」との問い合わせへの返事。「行長は朝鮮で秀吉の意向を知っていたことの証拠。外交 でも秀吉の本音を受け慎重に動いたはずだ」とみる。

 果たした役割は大きいのに影が実に薄い行長。「これほど判官びいきのない敗将はほかに例がないでしょう」と吉村教授は話す。原 因として、その後の時代の政治状況が考えられるという。江戸時代、行長は「キリシタン=反逆者」というイメージの象徴的存在となる。さらに明治となり日清 戦争に勝利すると、膨張主義の風潮のなか、朝鮮出兵で積極的だった加藤清正が国民や軍部の人気を集め、引き立て役のように行長は否定的存在とされたとい う。

 キリシタンとしての姿も見直しを迫られている。遠藤周作は『鉄の首枷(くびかせ)』で信仰と秀吉の命令の間で悩む行長の姿を描いたが、「現実主義の政治家で、禁教令に棄教せず国外追放になった高山右近とは違う」と吉村教授は言う。

 「行長の再検証」をテーマに宇土市は09年にシンポジウムを開催。「何人集まるか」「反対はないか」との心配をよそに、市民500人で満席に。今年3月に予定されている講演会は、九州新幹線全線開通当日の記念行事だ。

 「行長像は転換しました」と話す高木部長の名刺には、トタン板で囲われたことのある銅像の写真が堂々と載っている。市役所内で、観光PRのために広めようとの動きが出ているのだという。(渡辺延志)

表紙画像

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