2011年1月26日水曜日

asahi shohyo 書評

はじめの穴 終わりの口 [著]井坂洋子

[評者]田中貴子(甲南大学教授・日本文学)

[掲載]2011年1月23日

表紙画像著者:井坂 洋子  出版社:幻戯書房 価格:¥ 2,940


■静かに生を刻みつけるために

  ことん。小さな硬い玉が、お腹(なか)の下のほうでかすかに鳴る。気にしないで書き物をしていると、ささっ、と首筋を撫(な)でてゆく小さな風を察する。 いつもの生活。なのに、こんな感じを抱くのはなぜだろう。まるで、日常と日常を飛び越えるとき、ふと下を見たら、暗く大きな穴がぽっかり口を開けているよ うな、そんな感じ。ああ、きっと、井坂さんのエッセーを読んだからだ。

 誰もが生活に埋没して、見て見ぬふりをしている物事に、井坂さんはどうしてこんなに目を向けてしまうのだろう。日々のごく小さ な営みのなかに、古い友人との交流に、そして飼猫の死に、彼女の、物事の襞(ひだ)を言葉でこそげてゆくようなまなざしがある。それはきらりと光る才気と 評するより、黒い猫が部屋の片隅からゆっくりねめつけるような、不思議な力に満ちているといったほうが適切である。

 各章には、冒頭に内外の詩人による詩が引用されて、それにたぐりよせられるようにエッセーが続く構成となっている。それらの詩は、詩人である井坂さんの人生に微妙に影を落としているものだ。この、詩と文章との境界線が曖昧(あいまい)に溶けているところがいい。

 本書にはまた、死の気配が漂ってもいる。それは不吉なものではない。人間は何か大きな場所からこの世にやってきて生涯をすごす が、死んだら再び、自分が来た場所に帰ってゆくのだ、と井坂さんは言っているように読める。宗教的な意味ではなく、井坂さんの人生の中で獲得された世界観 なのだろう。人は死から逃れられないが、だからといって悲観したりする必要はない。みんないつか帰る日のために、静かに、しかしきちんと生を刻みつけるこ とが大切なのだ。その一刻一刻を大事にするためには、お腹の下の「ことん。」という音に気づく人でありたいと思うのは当然だろう。

 個人的には飼猫コプーの最期と井坂さんの祖父である小説家・山手樹一郎の思い出が印象に残った。高橋千尋のちょっと不気味な挿画も楽しい。休日にゆっくり味わいたい本である。

    ◇

 いさか・ようこ 49年生まれ。詩人。『地上がまんべんなく明るんで』で高見順賞。

表紙画像

はじめの穴 終わりの口

著者:井坂 洋子

出版社:幻戯書房   価格:¥ 2,940

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地上がまんべんなく明るんで

著者:井坂 洋子

出版社:思潮社   価格:¥ 2,520

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