2013年7月14日日曜日

asahi shohyo 書評

「空気」の研究 [著]山本七平

[評者]大澤真幸(社会学者)

[掲載] 2013年07月12日

表紙画像 著者:山本七平  出版社:文藝春秋 価格:¥ 491

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■支配的な「KY」の呪縛から自由になる

 山本七平は、大学などの研究機関に属したことはな かったが、間違いなく、一流の学者だった。とりわけ、日本社会論における洞察の深さは、ずば抜けていた。山本の論が他の凡百の日本論と一線を画すことに なった最も大きな要因は、彼が「聖書」の世界の感覚をそれこそ身体の底から理解しており、その世界との対照によって「日本」という社会と文化を浮き彫りに したからである。亡くなってから四半世紀近く経つが、いまでも、いやいまこそ、山本の著作は読む価値がある。
 本書『「空気」の研究』も、そのよ うな日本社会論の一つである。表題にある「空気」は、もちろん、「空気を読めよ」とか「その場の空気は〜だった」というときの「空気」である。本書は、こ の「空気」を解釈の鍵として活用した日本社会論だ。最初に単行本として出版されたのは、1977年だが、いまの方がなおいっそう読む意義は大きい。 「KY」などという、山本が存命中にはなかった言葉が発明されたことからも明らかなように、日本社会における「空気」の威力は、より強くなっているからで ある。

*「空気」の恐るべき支配

 現在の日本では、KYであること、「空気が読めないこと」が最も罪深いことであるかのように言われる。しかし、「空気」に従うことは、ときに恐ろしい結果を生む。この点を明らかにするために、山本は、「戦艦大和出撃の決定」という例を出す。
  昭和20(1945)年4月、すでに沖縄戦が始まっている最中、戦艦大和は沖縄に向けて出撃した。大本営参謀の決定に基づく行動であった。だが、大和の出 撃が無謀で、戦略的に無意味であることは、明白だった。結果的に明らかになったということではなく、出撃が無謀だと判断するだけのデータや根拠が最初から 十分すぎるほどあり、他方で出撃が有効だと見なす根拠はひとつもなく、大本営会議に出席した参謀の一人ひとりは、専門家だから、もちろんそんなことはわ かっていた。にもかかわらず、大和出撃が決定された。出撃の決断に到底あらがうことができない「空気」が、会議を支配していたからである。
 冷静 に論理的に考えれば大和出撃が無謀であったということは、当時の伊東整一第二艦隊司令長官の見解を参照すれば明らかだ。彼は「いかなる状況であろうとも、 裸の艦隊を敵機機動隊が跳梁(ちょうりょう)する外海に突入させるということは、作戦として形を為(な)さない」と思っていたから、三上作夫参謀から大本 営の決定を告げられても、最初はまったく納得しなかった。だが、最後に三上参謀から、これは大本営の「空気」(「一億特攻の魁[さきがけ]になれ!」)な のだと分かるように告げられると、伊東長官は態度を豹変(ひょうへん)させ、「それならば何をかいわんや。了解した」と出撃を受け入れてしまうのである。 そして、大方の予想通り、大和は、沖縄に到着する前に撃沈され、3千人以上の乗組員が海に散った。
 この例からも明らかなように、「空気」は、論 理的な推論や客観的な認識からは独立に、そして特定の個人の意思に必ずしも直接には規定されることなく醸成される。だから、「空気」に支配された人は、後 になって「当時の会議の空気では、あれも仕方がなかった」とか「あの頃の空気も知らずに批判されても困る」とか言ったりする。しかし、そんなことをいくら 言っても、免罪されるものではない。「空気」とはもともと、「私は××だが(大和出撃に反対だが)、空気は○○だ(出撃賛成だ)」と思う人によってこそ、 つまり「空気」を想定し、これに順応して行動する人によってこそ維持されているのだから。
 「空気」に基づいて出された不合理的な決定が、日本の 近代史の中にはたくさんあったに違いない。日中戦争や日米戦争へと突入したことも、また降伏のタイミングがあまりにも遅かったのも、おそらく、「空気」に 支配されたがためである。後から振り返ったときに「どうしてあんなバカなことになってしまったのだろう」と思うような決定は、たいてい「空気」による。
  もちろん、「空気」が猛威をふるったのは戦中だけではない。たとえば、われわれは、日本列島が地震の頻発地帯であるにもかかわらず、そこに50基以上もの 原発が建設されたことにいまさら驚くわけだが、それは、原発建設の意思決定に関与した人々が愚かだったことの結果ではない。そうした人々の中にも、原発の 建設を無謀であると判断した人もたくさんいたはずだ。しかし、多分、原発建設にとうてい反対できないような「空気」が支配していたのだ。そして、あえて反 対すれば、そうした「空気」の下にあるサークルから締め出されたのだ。
 だから、われわれは、「空気」から自由にならなければならない。「空気」に支配されていることを全面的に肯定してはならない。「空気」からの自由を獲得するための最初の一歩は、「空気」が形成され、維持されるメカニズムを知ることだ。本書を読むことが、その一歩になる。

*対象の「臨在感的把握」

  「空気」を形成するメカニズムとして、本書で山本が重視しているのは、「臨在感的対象把握」である。対象を臨在感的に把握するとは、何らかの身近な対象 ――それは「物」であったり「言葉」であったりする――に、何かが、つまり何らかの力をもった霊のごときものが臨在しているように感じてしまうことであ る。
 たとえば、「不沈戦艦大和」には、何かが宿っているように感じる。あるいは、「一億玉砕」とか「国体」とか「経済大国」とかといった言葉やスローガンに、何か特別に自分を惹(ひ)き付けるような力を感じてしまう。こうしたことが、臨在感的把握である。
  臨在感的把握とは、別の言い方をすれば、一種のアニミズムだ。あるいは、過剰な感情移入と言ってもよい。対象に投入される何かは、肯定的なもの、引力を発 するものとは限らない。対象に、否定的な力、悪魔的な何かが臨在していると感じられることで、「空気」が形成されることもある。
 山本は、イスラ エルで墓地を発掘した調査団の日本人が、1週間ほどで病人のようになってしまった、というエピソードを紹介している。一緒に作業にあたったユダヤ人は何で もなかった。日本人の発掘者だけが、出土する人骨や髑髏(されこうべ)に、禍々しい物の臨在を感じてしまったのだ(彼らはクリスチャンだったのに)。

*「水を差す」と……

 実は、日本社会にも、「空気の支配」に対抗する方法が伝統的に備わってはいる。「空気」に対する解毒剤は「水」である。「水を差す」が、「空気」の沸騰に対抗する方法だ。
  「水を差す」ということは、要するに、あられもない事実をまさに事実として言ってしまう、ということである。「空気」は、規範の形式をとる。「空気」が膨 らむと、その規範の事実からの乖離(かいり)が拡大し、その実現可能性があまりにも小さくなる。こういうとき、たんたんと事実を言ってしまうと、空気が一 挙にしぼむことがある。たとえば、「浮沈大和で敵に一撃を加える!」というようなことで盛り上がっているときに、冷静に、「いま大和が出撃したとすると、 こうなってこうなって、南九州の沖合何カイリのところで必ず沈没するでしょう」ということを客観的なデータと専門知識をもとに、論証するのだ。もっと簡単 に言ってしまえば、これは、アンデルセンの「裸の王様」にある方法だ。「王様は裸だ」と言ってしまえば、水を差したことになる。
 ここで、少しだ け山本の論述から離れて私の考えを言えば、「空気」への抵抗策としての「水」には、強みと弱みの両方がある。その両側面がともに、「空気」と「水」との間 にはもともと相互依存の関係があるということ、「空気」と「水」は最初からつながっている、ということから出てくる。
 「水」の強み、つまり「水 を差す」という方法がきわめて有効なのは、「空気」の担い手たちも、実は「水」として指摘された事実を、たいてい初めから知っているために、事実が事実と して指摘されたとき、それが否認される可能性は低い、ということから来る。大本営参謀もほんとうは、大和が出撃しても途中で撃沈されるだろう、ということ を知っている。ただ会議で口に出さないだけだ。だから、撃沈されるだろうと論証されても、「意外だ」とか「そんなはずはない」とは思わない。「やはりそう か」と思うだけだ。「王様は裸」と指摘されたとき、「いままでそれに気づかなかった」と思う人はひとりもいない。だから、「水」への賛同を得られる可能性 は、少なからずある。それで「空気」が小さくなることもある。
 だが、そんなふうにうまくいかないこともある。いま述べたように、「空気」の担い 手たちも「事実」を知っているので、そのことは彼らにとって、いわば「織り込み済み」である。「そんなことは分かっている、しかしあえて……」という形で 「空気」は維持されているのである。「そんなこと(事実)」は、皆、分かっているのだが、あえて口に出さない(顕在化させない)ことを通じて「空気」は維 持されてきたのだ。そういうときに、その「そんなこと」を、つまり事実を指摘するということが「空気を読まない」ということにあたるわけだが、それはしば しば周囲を憤激させるだけで、「空気」そのものはいささかも崩れない、ということも多い。
 「水を差した」ときには、「空気」は、このように2種 類の対極的な反応を示す。何が両者を分かつのか。「空気」がどのくらい切迫した状態で維持されているか、ということが、反応を分かつ。「これしかない」 「他の空気はない」と感じられているときには、「水」を差しても効果がない。たとえば、大本営が「大和出撃」の他にも、反撃の策がある、生き残る道があ る、と思っていれば、先の事実の指摘は功を奏するだろう。しかし、「それしかない」とき、「それすらダメだ」という事実の指摘は、怒りを買うだけだ。

*空体語と実体語

  二つの反応はともに、「空気」と「水」との間には相互依存の関係がある、ということに規定されて生ずる。この相互依存性を、山本七平は本書ではなく、別の 著書の中で巧みに説明しているので、これを紹介しておこう。山本によれば、日本の言語空間は、「空体語と実体語」の二元性によって維持されている。
  空体語と実体語は、タテマエとホンネに似ているが、厳密には違う。しばしば、「空気」の焦点になっている言葉やスローガンは、どうせ実現しないとわかって いる命令や要求、不可能である限りで主張される目標という形式をとる。そうした言葉やスローガンが「空体語」である。空体語には、それが実現するはずがな いという認識がべったりと貼り付いている。その認識を表現しているのが「実体語」である。
 「ホンネとタテマエ」では、ホンネを隠してタテマエだ けを言っていれば、偽善者として批判される。しかし、日本では、空体語と実体語をともにもっているのは当たり前のことで、それは批判に当たらない。「空 気」に繋(つな)がっているのが「空体語」であり、「水」として示される事実を表明しているのが「実体語」である。
 例を使って説明した方が分か りやすいだろう。明治維新のとき、「攘夷(じょうい)」を主張した者と「開港」を主張していた者とがいて、結局、攘夷派が勝った。となれば、外国人の排斥 でも始まるのかと思えば、そうではなく、逆に、開港が進捗(しんちょく)し、外国との関係が深まった。どうしてこんなことになったかというと、「攘夷」は 「空体語」だった(「開港」が実体語だった)のである。所詮(しょせん)そんなことは不可能だと分かっている者が、攘夷を勇ましく主張したのだ。もうひと つ例をあげておこう。第2次大戦のとき、「一億玉砕」は空体語である。それに対して、戦争末期においては、「降伏」が実体語だったことになる。
  普通は、空体語と実体語がバランスを取って、日本の言論の世界を形成している。しかし、ときどき、「空気」が膨張して、実体語によるブレーキが利かなくな ることがある。そして、「どうせ実現しない」ということが分かっていることを実現しようとして、悲惨な結果を生むのだ。そういう結果に突進しているときに は、「水」を差しても、もう効果がない。

*偶像崇拝

 しかし、「水を差す」ことが効果を発揮したとしても、そのことによって、人は「空気」の一般から解放されるわけではない。山本もはっきりとそう論じている。
  「水」を差すことによって、ときには、ある特定の「空気」を萎(しぼ)ませることはできる。しかし「水」ができることはそこまでだ。「水」によって、「空 気」の一般から解放されるわけではない。「水」は、別の「空気」を作る力さえもたない。だから、「水」によって、ある「空気」が消えても、別の「空気」が 出てくることになるだろう。われわれは、再び「空気」に支配される。
 それならば、どうしたらよいのか。ここで、山本が力を発揮する。他の社会と比較してみるのだ。とりわけ、山本が精通しているヘブライズムの社会と。
  ここまで「空気の支配」を日本社会の特徴として語ってきたが、実は、「空気」は、どこの国、どこの文化にも存在している。「空気」が存在しない社会はない のだ。先ほど、「空気」は、人が対象に「霊」のごときものが臨在しているかのように把握するところから発生すると述べた。その「霊」と訳される諸語、 「ルーア」(ヘブライ語)、「プネウマ」(ギリシャ語)、「アニマ」(ラテン語)の原意は、すべて、�wind�や�air�である。つまり、「空気」的 なものは、どこにでもあったのだ。
 違いは、「空気の支配」にどう対処するか、というところで出てくる。日本では、「空気の支配」は、基本的には よいことである。「空気」に抵抗することの方が悪いこととされた。しかし、「聖書」を残したような一神教徒たちは、「空気の支配」を悪いことと見なし、こ れをいかに克服するのかに腐心した。どういうことか、山本にそって説明しよう。
 日本人の多くは、ユダヤ教徒やキリスト教徒、イスラム教徒は、唯 一の超越神を絶対化していて、融通の利かない困った人たちであるかのように見ている。だが、山本によれば、ほんとうは、まったく逆である。相対化ができな い絶対主義者は日本人の方で、一神教徒は相対主義者だというのだ。実際、日本人は、ある「空気」の支配が始まると、そこから絶対に逃れることができない。 「おかしい」とか「不合理だ」とわかっていても、その「空気」から逃れることはほとんど不可能だ。その都度発生してくる「空気」を絶対化しているのは、日 本人の方である。それに対して、一神教徒は一般に相対主義者で、「空気」に支配されることはない。
 なぜ、こうした違いがでるのか。一神教徒は、 唯一の神だけを絶対化するので、他のすべてが相対化されるのである。神を除くすべてのことは、絶対的に善であるとか、絶対的に正しいということはなく、善 と悪との二極性をもつ。つまり、神以外のすべてのことが、絶対的な善、絶対的な悪として意味づけられることがないのである。
 神以外のものを神のごとく崇(あが)め、それに支配されることを、一神教では「偶像崇拝」と呼ぶ。山本七平の論点は、要するに、「空気の支配」とは、一神教で言うところの偶像崇拝にあたる、ということである。
  たとえば、ユダヤ教の律法では、「神の名」を口にすることは厳しく禁じられていて、それをみだりに唱えたら、死刑に処せられた。どうして「神の名」を唱え てはいけないのか。「神の名」を唱えることは殺人よりも重い罪だが、これは、日本人にはピンとこない規定だ。どうして、そんなにいけないことなのか。ここ までの事例でもわかるように、空気的な偶像崇拝の典型は、特定のスローガンや言葉が呪術的な力を発揮して人を動かすケースである。ユダヤ人は、人間が「神 の名」を唱えることで、これを偶像のように扱うことを禁じたのだ。「神の名」は、これを決して唱えないということで絶対化される。その反作用として、すべ ての他の言葉から呪術的な力が奪われたのである。

*「正しい人が必ず報われる社会」は善いか?

 山本の考えでは、偶像崇拝を禁ずる一神教は、「空気の支配」を徹底して退ける。この点との関連で、本書で「ヨブ記」について論じている部分が、たいへん啓発的なので、この書評の読者とともに、それを共有しておきたい。
  「ヨブ記」のことを考える前に、まず、同じように旧約聖書に入っている「箴言(しんげん)」を見ておく必要がある。「箴言」には、気が利いた格言が多く て、日本人にも人気がある。「豚に真珠」とか「盗んだ水は甘く、ひそかに食べるパンはうまい」とか、なかなか巧みな格言に、人は感心する。だが、同時に、 こうした格言は人を惹きつけ、「空気」を醸成するときに利用されやすい。こうした「格言」は、人を指弾したり、抑圧したりするのに使えそうだ。
  山本の解釈では、こうした危険性に対する強烈なカウンターバランスとして「ヨブ記」がある。ヨブは、「箴言」に書かれているような徳目をすべて守る義人で ある。それにもかかわらず、彼はあらゆる不幸に襲われる。家族と財産のすべてを失い、自分自身も重い皮膚病に罹(かか)ってしまうのだ。
 どうして、宗教的なテキストの中に、こんな物語が入っているのか。これほど宗教にとって不利な話はないように見える。非常に信仰に篤(あつ)い人物が、まったく報われことがない、という筋なのだから。神を信じても不幸が避けられないなら、どうして信仰などもつだろうか。
  だが、この物語こそ、偶像崇拝に対する最も徹底した批判なのだ。ほとんどの人は、「正しい者が必ず報われる社会」は、最も善い、理想的な社会だと考えてい る。選挙運動で、「正直に努力した人が報われる国にします」ということを、当たり前のように訴える候補者が多いはずだ。有権者も、「そうだ、そうだ」と 思って、そういう候補者を応援したくなる。
 しかし、よく考えてみよ。「正しい人が必ず報われ、幸福になる社会」が善い社会かどうか、を。それ は、とんでもない社会である。もしあなたがそういう社会に住んでいたとして、しかも不幸だったとしよう。それは、即、あなたが悪い人であることをも含意し ていることになる。正しければ必然的に報われる社会は、不幸な人を罪人として非難する社会になる。
 「正しい人が報われる」というスローガン、倫 理的な正しさと幸福・快楽とを直結させる命題は、一見、だれも反対できない魅力的な目標に見える。「ヨブ記」は、それすらも相対化してみせているのであ る。このテキストは、極限的な相対主義を奨励しているのである。一神教は、かくも厳しい。

*いま反省すべきこと

 本書の 「あとがき」で山本は、徳川時代や明治初期までは、少なくとも指導者には「空気」に支配されことを恥とする一面があったのに、今日では……、と記してい る。つまり、「空気」の威力は明治以降、増してきている、と。冒頭でも記したように、KYなどという語を生んだ現在の日本、本書の出版から40年近くを経 た日本では、「空気」はますます猛威をふるっている。
 われわれは、自分自身を、自分の周囲を点検してみる必要がある。「それ」は「空気」によっ て支配されているだけではないか、と。かつての日本の軍隊が、大和の出撃を「やむなし」と判断したときと同じような愚挙に出ていないか、と。21世紀に 入ってからでも、日本人は、ずいぶんたくさんの「空気」に支配されてきたのである。「聖域なき構造改革」とか「郵政民営化」とか「政権交代」とか「仕分 け」とかは、すべて、一瞬のうちに沸騰する「空気」を生み出すスローガンだったではないか。また、同じような「空気」の渦中にいないか、特に、選挙の前に はよくよく反省する必要がある。

*理論的な疑問

 最後に、純粋に理論的な問題について一言、述べておこう。もし山本が生きていれば、その見解を問いたい主題を指摘しておこう。
  本書の最大の着眼は、「空気の支配」を一神教が批判する偶像崇拝の一種として捉えた点にある。ところで、すべてのセム系一神教は、偶像崇拝を禁止してはい るが、その禁止の強度は、実は一様ではない。大雑把に言えば、同じ一神教でも西にいくほど、禁止は弱くなる傾向がある。イスラム教とユダヤ教は、偶像崇拝 に対してたいへん敏感で、厳しく対処している。それに比べると、キリスト教は禁止が緩い。同じキリスト教でも、カトリック系とギリシャ正教では異なってい る。
 イスラム教やユダヤ教が偶像崇拝を厳禁していたということは、造形美術の歴史を振り返るとすぐにわかる。キリスト教世界からは、すぐれた造 形美術家がたくさん出てきた。しかし、アラビア世界の造形美術はアラベスクの幾何学模様にほとんど尽きるし、天才的な学者を何人も出してきたユダヤ人から は、マルク・シャガールが登場するまで、造形美術家として見るべき者は現れなかった。
 さて、ここからが疑問だ。「空気の支配」への抵抗という点 で、偶像崇拝の禁止が強かったユダヤ教やイスラム教の世界の方が、より徹底している、と言えるのだろうか。キリスト教の社会は、この点では弱い、というこ とになっているのだろうか。「空気の支配」への抵抗の強さなど測定のしようはないが、直観としては、そうかんたんな比例関係はないように思う。
  そもそも、ユダヤ教やイスラム教から見ると、「父なる神と子なるキリストと聖霊」の三位一体などということを主張するキリスト教はいかがわしく、偶像崇拝 ではないかという疑いをもつ。「神が唯一ではなく、三人になってしまうのではないか」とか、「聖霊って何だ。まる『空気』みたいじゃないか」という疑問 を、キリスト教徒に対して抱くのだ。しかし、「子なるキリスト」や「聖霊」が入ったからといって、キリスト教社会が「空気の支配」に対して、とりたてて脆 弱(ぜいじゃく)になったようにも見えない。
 というわけで、偶像崇拝と超越的唯一神との関係は、なお考察すべき謎を孕(はら)んでいる。この謎を解くには、強靭(きょうじん)な論理的思考と長い歴史学的な実証の積み重ねが必要となるだろう。山本七平という稀有(けう)な学者の後を継ぐ、われわれの課題である。
    *
  もう一度、本書を開いてみよう。扉のエピグラフには、「人は水と霊(プネウマ)によらずば、神の国に入ることあたわず」(ヨハネ福音書)というイエスの言 葉が引かれている。この二つによる回心が、神の国に入るための条件である。この二つを「空気(プネウマ)と水」に置き換え、「神の国」を「人の国」に置き 換えると、日本になる、というわけだ。うまいな〜と感心する。

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