2012年09月03日
『ケータイ化する日本語 — モバイル時代の�感じる��伝える��考える�』佐藤健二(大修館書店)
「ケータイ作法のポリティクス」
以前、週刊誌の中吊り広告に、「(笑)という記号をメールで多用する女性は結婚しない可能性大」というような見出しがあって何となく気になっていたのだが、結局読むのを忘れてしまった。あれはいったいどういう内容だったのだろう。
いずれにしてもおもしろいのは、こういう話題が涌いて出るほどケータイの周囲には強烈な「だよね〜」の磁場が形成されているということである。 ルール。マナー。気配。使用者を拘束する力があるのだ。これこそ文化。しかし、それは通常の対面的な人間関係や黒電話時代の作法意識とは何かが違う、とい うのが本書の著者佐藤氏の考えである。
こんなふうに言うと警戒する人もいるかもしれない。何しろ社会学者による「ことば」をテーマにした本で、タイトルには「ケータイ」。それで「作 法」とくると、いかにもお叱りを受けそうな気配がある。しかし、著者はそんな流れに陥らないようにきわめて丁寧に議論を準備する。冒頭の章では、ことばと はいったいどんな道具なのでしょう?という広大な問いが立てられるのである。そのうえで身体、社会、空間、歴史といったキーワードを軸に、少しずつことば について考えるための肩慣らしがなされていく。
というわけで、1〜4章は序論みたいなもんだなと思って油断していたのだが、40頁あたりで、むむ、と力が入った。
[道具としてのことばに伴うのは]分裂や抗争の危険性であり、相互理解を壊し、不信や疑心暗鬼の邪推を生みだす、 マイナスの可能性である。誤った意味や、ズレた理解、あるいは誤認や不信の生成といった問題もまた、道具としての「ことば」のコミュニケーションの力を考 える論点として無視できない重要性を有する。(40)
意味の「ズレ」「誤認」「不信」となると、何だかキナ臭い感じがあってとてもいい。もちろん「誤解のないようにしましょうね」などというぬるい話ではない。さらに進むと、翻訳についての考察の中で、「動詞形」という概念が出てくる。
意味は名詞形の存在ではない。それよりも、読む者に「わかったという感覚を与える」こと、と動詞形で考えるほう がよい。理解したという経験を、相手に生みだすことである。そう考えると、「翻訳」から見える風景が違ってくる。そこでの翻訳は、「わからないことば」で 書かれたり話されたりしていて理解できないことを、常日ごろ使いなれ使いこなしていて身体的に「わかることば」に直すという経験の創造を指すことになる。 (42)
実は筆者自身、「名詞」はマイブームなので、こういう議論が出てくるとつい色めき立ってしまう。意味が「名詞形の存在ではない」というのはまった くその通り。ただ、この「名詞の呪縛」から自由になることの難しさときたら! Wikiなどの隆盛をみてもわかるように、私たちの「知」は今、どんどん名 詞化している。語ることすらが、名詞化されつつあると言ってもいいだろう。あらゆることが「それって、×××だよね」とジャーゴン化されそうな勢いだ。
さて、第五章以降はいよいよ「ケータイ」の問題へと進む。文体は軽快でペースも一定、豊富な具体例など含めてどんどん読める(とくに呼び出し電話 のエピソードはよかった)。その中で、先ほどの名詞/動詞のような話題がどのように本筋の「ケータイ」につながるかが、より具体的な着眼点とともに示され る。いくつかあげてみよう。
まず坂部恵の議論を足がかりにした「ふれる」ことについての考察。テレビ電話がなかなかうまくつかわれないのはなぜかというと、どうも空間に何か問題があるのではないかと考えられる。そこで参考になるのが「ふれる」と「さわる」の違いだという。
たしかに「ふれる」ということばが引き起こす感覚には、「さわる」という動詞が立ち上げる世界とは異なる奥行きが ある。外形的には同じような行為を指しながら、「ふれる」には主客未分と表現するにふさわしい、作用の場を想像させざるをえない何かがあり、未知で底の知 れない何かと肌を接していることへのおののきのような身体感覚がある。(112)
このような「ふれる」が体現する「相互性と共同性」が空間に欠けると、対話はうまく成立しないのではないかと佐藤氏は考えるのである。
そして沈黙の問題。カウンセラーが患者に接する際に、いかに沈黙そのものを有用な心理療法の手段とするかという話から出発して、著者は次のように言う。
現実空間では、沈黙もまた空間を満たす重要な要素だと感じられるのに対して、電話空間では多くの場合、沈黙は無言と見分けられることなく、音が聞こえていないことを意味するだけに終わってしまう。(137)
実はこのあたりについては、筆者も多少意見を持った。ケータイでは、通話にせよ、メールにせよ、「沈黙」が以前にも増して濃厚な意味を持っている のではないか。もちろん通話相手の沈黙が、こちらに注意を向けていることを示唆するとは限らないのはたしかなのだが(つまり、単に居眠りしていることもあ りうる)、そのような沈黙のニュアンスの曖昧さをふくめて、使用者は沈黙にはかなり敏感になりはしないか。耳を傾けている沈黙から、悪意ある沈黙、「事 故」としての沈黙まで。メールもそうだ。レスがないのは「しない」のか「できない」のか「待っているのか」。レスがないだけで強迫的なパニックに陥り、ど んどんメールを出して人間関係を壊してしまうという例は実にあちこちで耳にする。もっと微妙な例では、こちらからのメールの問いに選択的にしか応えてこな いような返信のニュアンスなども、考え出すときりがないし、ちょっと別の見方をとると、レトリックの問題としても実に興味深い。もちろん、このあたりの事 情は著者も意識していないわけではなく、世代によってはコミュニケーション意識に違いがあるかもしれないとフォローはしてあるのだが(138)。そういう 意味ではメール・レトリックに特化した著者の考察をあらためて読んでみたいとも思った。
沈黙につづいて、このあとも本書では「親密」「内密」から「第三者の扱い」というふうに、ケータイとは関係なしにでもいろいろ考えたくなる話題が 次々に出てくる。本書の核には「礼儀作法」をめぐる問題意識があるが、これは決して規範的な(つまり「お叱り」的な)ものではなくて、作法をポリティック スの一環と見なして議論してみましょうということなのである。その着地点は次に引用するように、我々がある程度親しんできたメディア論的なものである。
電話空間のなかで「伝える」とか「通じる」という機能的な部分が薄れて、「つながる」という存在論的な安心が、気分の前面に出てきた。(172)
[こうしたなかで進んでいる事態は]一言でいうならば、個室空間の析出と他者の退場である(同)
しかし、こうした議論の土台には、きわめて具体的で、と同時に奥行きのあることばについての考察が含まれている。
著者は柳田国男の研究者でもある。なるほどことばに敏感なわけである。本書後半でも言及されているように、柳田は近代日本語の問題について考えつ づけた人だ。佐藤は柳田研究を通して、近代日本語が三つのメカニズムによって「抑圧」されているという図を提示した。これは本書の中心テーマでは必ずしも ないが、所々で議論を補強した視点だと思う。参考までにあげておこう。
�「国家・行政のことば」と「生活・身体のことば」の二重構造。
�「名詞への従属」(「○○的」とか「○○する」という言い方の氾濫)。
�「話すこと」の中心化に伴う思考停止。
より詳しくは佐藤健二『読書空間の近代』などを参照してほしい。
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