2012年03月20日
『日本地図史』金田章裕・上杉和央(吉川弘文館)
東南アジアでフィールドワークをしているとき、現地の人びとが地図が読めないために、難儀をしたことが何度かあった。地図が読めるようになる日本の地理 教育は、すごいとも思った。だが、あるとき、現地の人が地図を指してなにやらつぶやいているのを聞いて、ハッとした。「ここは陽が当たらない」と言ってい るのだ。日本の近代地理教育で、「陽が当たらない」という発想はない。しかし、そこの住民にとって、農作物を植えたりする生活上、「陽が当たらない」こと はひじょうに重要なことだ。自分の調査のことしか考えず、地図がだれのためなんのためにあるのかを考えていなかった自分が恥ずかしくなった。本書でも、ま ずそれぞれの時代や社会が、地図になにを求めようとしたのかを基本に読んでいこうと思った。
本書の目的は、「はしがき」でつぎのように述べられている。「日本は、この地図史をたどる資料にめぐまれていると言ってよい。八世紀の地図の実物が二〇 点以上も伝存する国はほかに存在しないのではないかと思う。国家の土地政策を反映した、特徴的な古代の地図に加え、絵画的要素の多い中世の地図、手描き図 に加えて印刷図が一般化した近世の地図など、多彩な地図の内容とその変容を紹介しようとするのが本書の目的である。近代地図の成立過程における多様な状況 についても言及したい」。
�の表1「日本における古地図の機能と表現対象」は、8〜18世紀の地図を分類し、時代ごとに機能を整理してくれているので、ひじょうにわかりやすく、 これが頭に入っていると本書が読みやすくなる。世界・国・小地域の3つのレベルのスケールに分け、それぞれをつぎのように説明している。「世界レベルの地 図は、世界観・世界認識を表現したものであり、近代ヨーロッパの世界図を受容し、[天文学者]高橋景保のようにその精度を高める段階に入ってはじめて、国 土把握と同水準の世界把握へと転換する」。「国レベルのスケールの地図は、八世紀にすでに国土把握のために作製されたことが明らかであり、古代・近世の 国・郡図はその精細図である。ただし、中・近世の日本図では、周辺に雁道(かりみち(がんどう))や羅刹(らせつ)国など想像上の土地が描かれているもの も多く、この点では世界観をも表現していることになる」。「小地域レベルのスケールの地図はきわめて多様であるが、大別すれば三つのグループとなる。�土 地の面積や場所、あるいはその広がりの状況を表現する地図、�道・用水・建物など多様な建造物・構築物あるいはその集合体ならびに集落などの実態や利用状 況を把握・表現する地図で、土地そのものを直接的に表現することが主目的ではない地図、�各種の推定・考証・復原などのための地図で、世界観・歴史観など を反映してはいるが小地域を対象としたもの、である」。
地図が重要な歴史資料であることは、だれもが認めることだろう。しかし、だれもが簡単に読めるわけではない。著者は、その困難さをつぎのように述べてい る。「言語は、一語ずつ順に話され、書かれ、読まれる。地図という言語はしかしそうではない。地図を読む順番は定まっていないのである。地図を描いた順に 読む、という必要はなく、また地図をどういった順に描いたのかはむしろ不明であることの方が多い。にもかかわらず、空間表現のためには地図は不可欠であ り、地図というもう一つの言語でなければ、表現し伝達することが困難なことがらがある」。それが、1970年代以降、「地理学および歴史学の研究者による 研究成果が次々と提出され」るようになった。「そこには、国絵図が単に地図史にとどまるのではなく、政治史にも密接にかかわる史料であることが専門家以外 にも周知され、国絵図への関心が高まっていったこと、文字資料以外の絵画資料を用いた歴史研究が進展し、「史料」としての位置づけが適切に与えられるよう になってきた」ことが関係していた。
歴史研究にとって地図がいかに有用であるかは、本書で取りあげられている江戸時代に蝦夷地が描かれていても、琉球が描かれていない例などからわかる。伊 能図では「日本」が描かれていたが、その「日本」に琉球が含まれていないことを、著者はつぎのように説明している。「それは伊能忠敬の測量隊が琉球まで及 んでおらず正確さを期すことができなかったからであることは容易に想像され、この点では享保日本図と同じ姿勢であることになる。ただ、北方の蝦夷地のう ち、西蝦夷については忠敬の測量隊は赴いていないにもかかわらず、間宮林蔵(まみやりんぞう)によると思われる測量成果によって補足されるのである。未測 量であった問題、距離の問題といった点があるにせよ、伊能忠敬ないし伊能図を最終的に取りまとめた高橋景保らにとって、北方と比較して南方への意識は乏し かったといわざるをえないだろう」。
豊田市近代の産業とくらし発見館企画展「白瀬矗(のぶ) 〜夢の南極大陸へ〜」(1月18日〜3月25日)をみた。その趣旨は、つぎのように説明されて いる。「明治45年(1912)1月28日 午後0時20分、白瀬矗(しらせのぶ)陸軍中尉率いる日本南極探検隊は、南緯80度5分、西経156度37分の地点に到達し、ここに日章旗を立て、見渡す 限り一帯を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名しました。当時、南極点を目指した他国のライバル探検隊に比べ、日本南極探検隊の装備は極めて乏しいもの でしたが、一人の死傷者を出すことなく帰還したのは驚くべき快挙であり、また、学術調査の上でも大きな成果を挙げました。今回の企画展は、白瀬日本南極探 検隊100周年記念プロジェクトの一環である全国巡回展示を迎え、白瀬中尉の生涯と彼が率いた日本南極探検隊の偉業を展示タペストリーで紹介します。さら に、長年の夢であった南極探検を成し遂げた"刻の英雄"白瀬中尉が、その後どのような生活を送り、終焉地「挙母[ころも]」(現在の豊田市)へと辿り着い たのか、その後半生を多くの方に知っていただければ幸いです」。
白瀬は、南極探検を志す前に千島列島で苦難の日々を過ごしている。探検家の関心は苦難をともなう寒冷地にあって、「楽園」である南方ではなかったのだろ う。また、ロシアの東漸ともかかわりがあったのだろう。そして、白瀬は晩年まで「大和雪原」を日本の領土であると主張していた。19世紀の日本の地図は、 北方への関心、領土獲得のための探検を、どんな文献よりも雄弁に語っている。地図はいろんなことを語ってくれる。それを聞くことができる「耳」をもちたい と思った。
本書の目的は、「はしがき」でつぎのように述べられている。「日本は、この地図史をたどる資料にめぐまれていると言ってよい。八世紀の地図の実物が二〇 点以上も伝存する国はほかに存在しないのではないかと思う。国家の土地政策を反映した、特徴的な古代の地図に加え、絵画的要素の多い中世の地図、手描き図 に加えて印刷図が一般化した近世の地図など、多彩な地図の内容とその変容を紹介しようとするのが本書の目的である。近代地図の成立過程における多様な状況 についても言及したい」。
�の表1「日本における古地図の機能と表現対象」は、8〜18世紀の地図を分類し、時代ごとに機能を整理してくれているので、ひじょうにわかりやすく、 これが頭に入っていると本書が読みやすくなる。世界・国・小地域の3つのレベルのスケールに分け、それぞれをつぎのように説明している。「世界レベルの地 図は、世界観・世界認識を表現したものであり、近代ヨーロッパの世界図を受容し、[天文学者]高橋景保のようにその精度を高める段階に入ってはじめて、国 土把握と同水準の世界把握へと転換する」。「国レベルのスケールの地図は、八世紀にすでに国土把握のために作製されたことが明らかであり、古代・近世の 国・郡図はその精細図である。ただし、中・近世の日本図では、周辺に雁道(かりみち(がんどう))や羅刹(らせつ)国など想像上の土地が描かれているもの も多く、この点では世界観をも表現していることになる」。「小地域レベルのスケールの地図はきわめて多様であるが、大別すれば三つのグループとなる。�土 地の面積や場所、あるいはその広がりの状況を表現する地図、�道・用水・建物など多様な建造物・構築物あるいはその集合体ならびに集落などの実態や利用状 況を把握・表現する地図で、土地そのものを直接的に表現することが主目的ではない地図、�各種の推定・考証・復原などのための地図で、世界観・歴史観など を反映してはいるが小地域を対象としたもの、である」。
地図が重要な歴史資料であることは、だれもが認めることだろう。しかし、だれもが簡単に読めるわけではない。著者は、その困難さをつぎのように述べてい る。「言語は、一語ずつ順に話され、書かれ、読まれる。地図という言語はしかしそうではない。地図を読む順番は定まっていないのである。地図を描いた順に 読む、という必要はなく、また地図をどういった順に描いたのかはむしろ不明であることの方が多い。にもかかわらず、空間表現のためには地図は不可欠であ り、地図というもう一つの言語でなければ、表現し伝達することが困難なことがらがある」。それが、1970年代以降、「地理学および歴史学の研究者による 研究成果が次々と提出され」るようになった。「そこには、国絵図が単に地図史にとどまるのではなく、政治史にも密接にかかわる史料であることが専門家以外 にも周知され、国絵図への関心が高まっていったこと、文字資料以外の絵画資料を用いた歴史研究が進展し、「史料」としての位置づけが適切に与えられるよう になってきた」ことが関係していた。
歴史研究にとって地図がいかに有用であるかは、本書で取りあげられている江戸時代に蝦夷地が描かれていても、琉球が描かれていない例などからわかる。伊 能図では「日本」が描かれていたが、その「日本」に琉球が含まれていないことを、著者はつぎのように説明している。「それは伊能忠敬の測量隊が琉球まで及 んでおらず正確さを期すことができなかったからであることは容易に想像され、この点では享保日本図と同じ姿勢であることになる。ただ、北方の蝦夷地のう ち、西蝦夷については忠敬の測量隊は赴いていないにもかかわらず、間宮林蔵(まみやりんぞう)によると思われる測量成果によって補足されるのである。未測 量であった問題、距離の問題といった点があるにせよ、伊能忠敬ないし伊能図を最終的に取りまとめた高橋景保らにとって、北方と比較して南方への意識は乏し かったといわざるをえないだろう」。
豊田市近代の産業とくらし発見館企画展「白瀬矗(のぶ) 〜夢の南極大陸へ〜」(1月18日〜3月25日)をみた。その趣旨は、つぎのように説明されて いる。「明治45年(1912)1月28日 午後0時20分、白瀬矗(しらせのぶ)陸軍中尉率いる日本南極探検隊は、南緯80度5分、西経156度37分の地点に到達し、ここに日章旗を立て、見渡す 限り一帯を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名しました。当時、南極点を目指した他国のライバル探検隊に比べ、日本南極探検隊の装備は極めて乏しいもの でしたが、一人の死傷者を出すことなく帰還したのは驚くべき快挙であり、また、学術調査の上でも大きな成果を挙げました。今回の企画展は、白瀬日本南極探 検隊100周年記念プロジェクトの一環である全国巡回展示を迎え、白瀬中尉の生涯と彼が率いた日本南極探検隊の偉業を展示タペストリーで紹介します。さら に、長年の夢であった南極探検を成し遂げた"刻の英雄"白瀬中尉が、その後どのような生活を送り、終焉地「挙母[ころも]」(現在の豊田市)へと辿り着い たのか、その後半生を多くの方に知っていただければ幸いです」。
白瀬は、南極探検を志す前に千島列島で苦難の日々を過ごしている。探検家の関心は苦難をともなう寒冷地にあって、「楽園」である南方ではなかったのだろ う。また、ロシアの東漸ともかかわりがあったのだろう。そして、白瀬は晩年まで「大和雪原」を日本の領土であると主張していた。19世紀の日本の地図は、 北方への関心、領土獲得のための探検を、どんな文献よりも雄弁に語っている。地図はいろんなことを語ってくれる。それを聞くことができる「耳」をもちたい と思った。
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