2012年3月8日木曜日

kinokuniya shohyo 書評

2012年02月29日

『弔辞 劇的な人生を送る言葉』文藝春秋編(文春新書)

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「メディアとしての弔辞」


 私事になるが、先日弔辞というものと向き合う機会があった。辞書を引くまでもなく、弔辞とは「死者を弔うことば」のことである。冠婚葬祭のマナーについ て書かれたサイトや書籍は数多く存在しており、そこでは、弔辞の適切な時間、盛り込むべき内容、あるいは反対に使ってはいけない表現などがマニュアル化さ れ詳細にわたって書かれている。

 愛する家族の死を経験したばかりだからかもしれないが、これらは便利な半面、死者を弔い、その人生の締め括り向けられることばが、あまりにも儀礼的に平板なものとして扱われているという印象を抱いてしまう。

   「そもそも弔辞とは何か」ということや、その現代的な意味合いについてまでを問おうとした文献を評者は管見にして知らない。そんな中、「二十世紀を彩っ た50人への名弔辞」と銘打たれた本書は、どのような弔辞が無難か、良い弔辞とは何か、といったようなありふれた技術論など軽やかに跳び越え、上述した根 源的な問いへのヒントを与えてくれる深みのあるものだ。

 さて本書は、月刊誌『文藝春秋』の2001年2月号、2011年1月号に掲載の「弔辞」から50人分を収録したものだ。弔辞を手向けられた故人の肩書は、作家、政治家、研究者、漫画家、芸能人、スポーツ選手、経営者、競走馬(!)など実に幅広い。

 目次を見ても、「一緒に戦うぞ、タクヤ」木村拓也へ(原 辰徳)、「私もあなたの作品の一つです」赤塚不二夫へ(タモリ)、「四角いマットに刻んだ『自 由と信念』」三沢光晴へ(徳光和夫)など、評者にとって記憶に新しいものもいくつかある。全篇を通じて、読み上げればたった数分の原稿に濃密なことば、濃 密な人間関係が凝縮されている。

 その中でも印象深いのは、前述のタモリによるものと「君はとっくに僕を追い越えていたよ」横山やすしへ(横山ノック)だ。

 横山ノックはやすしの師匠にあたる。子が親より先に死ぬのもそうだが、弟子が師匠より先に死ぬことも残された者には悲痛なものだろう。

「やすし君、僕の一番弟子で一番手を焼いた君のために、最後までこうして手を焼くとは思いもよりませんでした」(78頁)

 ノックは、破天荒で不遇な晩年を送ったやすしに対する愛憎半ばすることばに始まり、最後はこのように締めている。

「とうとう君に言ってあげることはできなかったけれど、君の芸はとっくに僕を追い越えていたよ、やす・きよの漫才は、漫画トリオをとっくに越えていたという言葉を、今、やすし君に送ります」(80頁)

 この二つが特に印象に残ったのは理由がある。それは明らかに聞き手を意識したものであることが伝わってくるからだ。このように言うと誤解を招くかもしれ ない。本来、弔辞は生前深い交流があった人が故人に対して心の深奥から発したものであり、上述したものを含め、本書に収められた50篇もそれに偽りはない だろう。

 だが、弔辞にはメディアとしての側面がある。それは、故人だけでなく会場の遺族、参列者にも向けられているだろうし、本書のように活字化されたり、映像化されてワイドショーやニュースで流されたりすることも本人は少なからず意識しているはずだからだ。

 それは、演じているとか自らをアピールするとかという邪な意味においてではない。そうではなく、メディアを通じて成立した故人との関係性を再びメディアの中で再現するということではないだろうか。そして、それを通じて故人を完結させるという営為のように見えるのだ。

 まさに、タモリが赤塚に送った「作品の一つです」という言い方がそうであるし、「カツオ、親より先に行く奴があるか」と永井一郎がカツオになりきって、高橋和枝(ワカメ)につぶやきかけたこともそうであろう。

 触れることができた弔辞はごくごく一部にすぎない。ましてや評者が感じた弔辞の意味合いもまたその一側面にすぎない。劇的な人生を送った人たちにふさわしい劇的なことばの数々にぜひ触れていただきたい。


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