2010年11月4日木曜日

asahi shohyo 書評

ゼロ年代の50冊

本格小説 [著]水村美苗/日本語が亡びるとき [著]水村美苗

[掲載]2010年10月31日

■時代の光と影描く日本版『嵐が丘』 【本格小説】

 夏目漱石の未完の遺作を書き継いだ『続明暗』で作家デビュー、そして横書き、英語交じりという斬新なスタイルの『私小説』。作品ごとに世間を驚かせてきた水村美苗の3作目となる本作も、題名の大胆不敵さに劣らぬ話題作だ。

 米国で3作目となる小説を執筆中の小説家「私」のもとを、一人の若者が「小説のような話」を携えて訪れる。「私」も知る人物 で、アメリカンドリームを絵に描いたような人生を送った東太郎。なぞめいた男の、知られざる物語を、祐介という名の若者は軽井沢の別荘地で出会った冨美子 という女に打ち明けられたという——。

 文庫本上下巻で1000ページを超えるこの大作は、「私」が東太郎を振り返る"前置き"、祐介の回想、そして冨美子の問わず語 りの三層構造になっている。核をなすのは、貧しい育ちの太郎と裕福な世界で育ったよう子との、『嵐が丘』や『華麗なるギャツビー』のような悲恋の物語だ が、水村の筆は恋愛小説の枠組みにとどまろうとはしない。

 戦後を主家に仕える女中として生き抜いた冨美子の回想を大きな時間軸に、軽井沢や成城といった場所が富裕層だけの世界だった時 代の光と影を巧みに描き出す。太郎の魂の暗さや色気を嗅覚(きゅうかく)で表現してみせ、人間の品位の違いを視覚化して描くなど人物描写も鮮やかだ。更に は最終盤、物語の趣を一変させる「場面」もある。

 神奈川県の長野弥生さん(43)は「入れ子細工のような話の仕掛け、そして昔の日本と今の姿の鮮やかな対比に感心した」。サイ エンスライターの渡辺政隆さんは識者アンケートにこう寄せた。「虚実を交え私小説を装ったドライな導入から壮大なメロドラマを語り、それを『本格小説』と 銘打った心憎い作品。ひたすら切ない物語に胸を打たれ、確信犯たる作者の術中にまんまと陥ってしまう」

■〈国語〉の行く末を憂う 【日本語が亡びるとき】

 2008年、水村は『日本語が亡(ほろ)びるとき』を発表、再び話題となる。幼少期に渡米、日本の小説を読みふけって成長し、日本近代文学を英語圏の人々に教えた小説家が繰り出す"日本語衰退論"だ。

 ある年、水村は米国の大学に招かれて世界各国の作家たちと一月を過ごした。その中で様々な言葉で書く人々の存在に驚き、「英語が〈普遍語〉となりつつあることの意味」を考え始めた。

 本作の中で言葉は〈現地語〉〈国語〉〈普遍語〉の三つの概念で語られる。〈現地語〉は各地の日常語、〈普遍語〉は聖典に使われ たラテン語や漢語のような、人類の叡智(えいち)を蓄積するための言葉。そして〈国語〉は、叡智を求める人々が〈普遍語〉を翻訳することによって〈現地 語〉が〈普遍語〉の滋養を吸収した言葉、と定義する。その上で、日本語は世界的にも早期に〈国語〉として成立した言葉であり、日本は、西洋に遅れることな く〈国民文学〉が豊かに発展した国でもあるとした。

 問題提起は第6章からだ。消費社会の中で〈文学〉の価値は一変し、インターネットの普及などで英語が急速に〈普遍語〉となり始 めた。〈普遍語〉が勢力を増すほど〈叡智を求める人〉たちは〈普遍語〉に集まる宿命にある。一方の日本人は日本語を粗末に扱うばかりで、このままでは〈国 語〉としての日本語は輝きを失い、いずれ〈現地語〉となり下がる。従って今後、国語教育は日本近代文学を徹底的に読ませるべきだ——。

 水村のこの主張に、言論界や教育界、様々な分野で議論が巻き起こった。評論家の紀田順一郎さんはアンケートの回答に「日本語の 崩壊を日程化した問題提起力を評価したい」。京都府の翻訳業、山田純子さん(42)は、「近代文学全集を読んでいた時間が確かに自分の背骨を支えてい る」。神奈川県の町田香子さん(54)は「『日本語を愛してやまない』心が盛り込まれている本である」と感想を寄せた。(浜田奈美)

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 「ゼロ年代の50冊」とは?

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本格小説〈上〉 (新潮文庫)

著者:水村 美苗

出版社:新潮社   価格:¥ 820

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本格小説〈下〉 (新潮文庫)

著者:水村 美苗

出版社:新潮社   価格:¥ 740

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日本語が亡びるとき—英語の世紀の中で

著者:水村 美苗

出版社:筑摩書房   価格:¥ 1,890

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続 明暗 (ちくま文庫)

著者:水村 美苗

出版社:筑摩書房   価格:¥ 882

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私小説—from left to right (ちくま文庫)

著者:水村 美苗

出版社:筑摩書房   価格:¥ 819

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嵐が丘 (新潮文庫)

著者:エミリー・ブロンテ

出版社:新潮社   価格:¥ 740

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華麗なるギャツビ- (角川文庫)

著者:フィツジェラルド

出版社:角川書店   価格:¥ 460

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