2012年11月26日月曜日

kinokuniya shohyo 書評

2012年11月23日

『ぼくらの昭和オカルト大百科—70年代オカルトブーム再考』初見健一(大空出版)

ぼくらの昭和オカルト大百科—70年代オカルトブーム再考 →bookwebで購入

 ノストラダムスの大予言。ネッシー。ツチノコ。ユリ・ゲラー。スプーン曲げ。UFO。あなたの知らない世界。心霊写真。コックリさん。口裂け女。これら実にいかがわしいトピックが日本全土を座巻した時代がありました。
 70年代です。
 70年代は「オカルトの時代」でした。エロ・グロ・ハレンチ・インチキ・ヤラセの匂いに満ちた時代の空気のなかで、さまざまな 「不思議」が次から次へと現われては消えていきました。その多くは文字どおりの「子どもだまし」でしたが、どれもが夏祭りの縁日のアセチレンランプのよう に、ギラギラと妖しく魅力的に輝いて見えました。

 70年代キッズでなくても、漫画『ちびまる子ちゃん』を 読んだことがある人なら、その空気を感じとることができるはずです。「ノストラダムスの大予言」が怖くて眠れなくなったり、毛布にくるまって心霊番組を見 たり、丸尾君とツチノコ探しをしたり、まる子は高い頻度でオカルトに振り回されていました。「オカルトブーム」どっぷりでした。

 大ヒット漫画『20世紀少年』に もオカルトトピックにまみれた70年代が描かれています。主人公ケンヂがつくる「よげんのしょ」は明らかにノストラダムスに影響されていますし、新興宗教 の教祖となった「ともだち」がスプーン曲げを披露するシーンも印象的です。「さまざまな『不思議』が次から次に現われては消えていく」…この漫画の主役 は、そんな70年代の空気そのものだといっても過言ではありません。

 本書『ぼくらの昭和オカルト大百科−70年代オカルトブーム再考』は、この「オカルトな気分」が漂い続けた「イカレた時代」70年代にざっくりメスを入れ、なぜブームが起こったのか、ブームはどこへ行ったのかを徹底的に再考しようというわりとまじめな本です。その著者が『昭和ちびっこ未来画報−ぼくらの21世紀』の初見健一氏なのですから、これはもう読むしかありません。

 では、70年代において、この「イカレた時代」がいつはじまったのか? これはほぼ正確に特定できる。
 1973年。
 この年、その後の約10年間にわたって定番となるオカルトな大ネタたちが、なぜかまるで歩調を合わせるかのように群れをなして日本を急襲し、僕らの好奇心をワシづかみにしてしまったのだ。

 初見氏が「オカルト元年」と呼ぶ1973年。冒頭にずらりと並べたトピックのほぼ全てが、日本の少年少女の上に大量投下されます。「本当の『恐怖 の大王』はこの年に空から舞い降りてきたのかもしれない」と、初見氏がふざけ半分に書いているフレーズが冗談に思えないほどの投下量。それらはまたたく間 に日本全土の70年代キッズを虜にしていくのです。

 私が育った80年代、オカルトブームはほぼ終息を迎えていました。しかしその余波はまだあちこちにちぎれたクラゲの足のように漂っていました。私 の妹はノストラダムスの大予言を知って「こわい」と泣いていましたし、テレビにはひっきりなしに霊能力者や超能力者が出ていました。遠足があるたびに心霊 写真を探すのはもはや恒例行事のようなもので、人面犬が公園に出たという噂も飛び交っていました。

 オカルトには魔力がありました。あの時代に漂っていたそこはかとない不安、暗い時代へ一気に転落していく予感のようなものを、一時的に忘れさせて くれるドギツくてアヤシイ癒しの効力を持っていました。今でも「1999年、7の月」というセンテンスを読むだけで血中アドレナリンが体内を駆け巡ってし まうくらいに。1999年に何も起こらなかったということを知っている未来人なのにも関わらず、です。

 そして、楽しげな「超・消費生活」が一気に崩壊したころ、僕らはかつて『デビルマン』などで読んだ「ハルマゲドン」を目の当たりにします。同世代の多くの人が、すっかり忘れていた「オカルトの時代」を思い出し、不思議な胸騒ぎを覚えたはずです。
 それ以来、僕らを育てた70年代オカルト文化はサブカルチャーの暗部に押し込められて、僕ら自身もなかば「なかったこと」にしてきたような気がします。

 初見氏はそう綴ってこの本を締めくくっています。「なかったこと」になったオカルト文化。さみしいですね。でも、安心してください。『ぼくらの昭 和オカルト大百科−70年代オカルトブーム再考』。この本を読めばたちどころにあの頃の自分に戻れるはずです。友だちから借りたいかがわしい装丁の本を大 事に胸に抱え、家に帰ってページをめくる時の痺れるようなあの快感。あなたはいつでもあの日の自分に戻ることができるのです。70年代キッズもそうでない キッズも。オカルト好きは必読の一冊です。再考しましょう、オカルトブーム。とっても面白い本です。


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asahi shohyo 書評

虫と文明 [著]ギルバート・ワルドバウアー[訳]屋代通子

[文]谷本束  [掲載]2012年11月30日

表紙画像 著者:ギルバート・ワルドバウアー、屋代通子  出版社:築地書館 価格:¥ 2,520

 昔から人が恩恵を受けている昆虫といえば、思い浮かぶのは絹が取れる蚕と蜂蜜を作るミツバチぐらいか。だが驚くなかれ、日用品から農業、医療、宝 飾品と何から何まで人は虫のお世話になってきたという。昆虫を愛してやまない昆虫学者が、人と昆虫の深く長いかかわりについて語る。
 最高級の赤 い染料はカイガラムシが原料。養殖を独占していたスペインは巨万の富を築いた。中東では今もアブラムシがお尻から出す甘露でお菓子を作る。いくつかの国で は傷口をアリに噛ませて、そのあごを傷を縫い合わせるホチキスの代わりにした。興味深いのはタマバチが木に作るこぶで、これが黒インクの原料。この虫がい なければ何ひとつ記録を残せなかったわけだ。人類の歴史は虫のおかげで存在するともいえる。
 本書には日本文化の中の虫も登場する。虫を「利用する」西洋に比べ、蛍の幻想的な明かりや鈴虫の声を「愛でる」感性はやはり独特。昆虫の生態とともに虫をめぐる人の生活も生き生きと伝えて、優れた人類学の書ともなっている。

この記事に関する関連書籍

虫と文明 螢のドレス・王様のハチミツ酒・カイガラムシのレコード

著者:ギルバート・ワルドバウアー、屋代通子/ 出版社:築地書館/ 価格:¥2,520/ 発売時期: 2012年08月

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2012年11月24日土曜日

asahi art religion Kyoto oldest 14c Kukai portrait

剣持つ空海、最古の絵 14世紀前半作?和菓子店で発見

写真:弘法大師像(秘鍵大師像)=虎屋蔵拡大弘法大師像(秘鍵大師像)=虎屋蔵

 【筒井次郎】剣を持った弘法大師・空海を描いた「秘鍵(ひけん)大師像」としては最古の、鎌倉時代後期〜南北朝時代(14世紀前半)のものとみられる絵 が見つかり、京都国立博物館(京博、京都市)が19日発表した。また、同館と出光美術館(東京)が所蔵する南北朝時代の掛け軸が、もとは同じ屏風(びょう ぶ)の一部だったことも判明した。
 ともに京博で来年1月8日〜2月11日に開かれる特別展観「国宝十二天像と密教法会(ほうえ)の世界」(朝日新聞社共催)で公開される。
 新発見の秘鍵大師像は縦48センチ、横32センチの絹地に描かれている。818(弘仁9)年に疫病が流行した際、空海(774〜835)が嵯峨天皇の前 で「般若心経」の解説をしたところ、疫病がすぐに鎮まったという逸話を描いたもの。現存する秘鍵大師像はほとんどが江戸時代のもので、高野山龍光院(和歌 山県)が所蔵する南北朝合一後の室町時代の作が最古とされていた。






2012年11月20日火曜日

asahi shohyo 書評

共産主義の興亡 [著]アーチー・ブラウン

[評者]保阪正康(ノンフィクション作家)  [掲載]2012年11月18日   [ジャンル]政治 

表紙画像 著者:アーチー・ブラウン、下斗米伸夫  出版社:中央公論新社 価格:¥ 8,925

■20世紀の凄絶な失敗の墓碑銘

 共産主義体制を擬人化すると受胎期から誕生、成長、そして死 までの歩みを丹念に描いた墓碑銘、それが本書である。20世紀の壮大な実験の報告書ともいえようか。英国の政治学者の書ゆえか、記述の細部まで論理的、実 証的に解き続けるので読む側の立場はどうあれ納得ずくで理解できる点に特徴がある。
 マルクスやエンゲルスの理想空間がレーニンによって現実空間 となり、スターリンの手で現実と虚構の恐怖空間と化す。フルシチョフ、ブレジネフなどで意識の限定空間となり、やがてゴルバチョフによりその空間が解体さ れたわけだが、なぜ共産主義体制は20世紀の一方の軸になりえたのか。著者は本質的な見方を幾つか示す。
 たとえば「共産党の魅力の一つは、教義における不可避性の強調」と指摘する。実際に英国共産党の元党員は、これが「えも言われぬ慰めだった」と証言する。そのほかに「社会と政治を統制する道具としての共産主義制度の効率性」もあったと解説する。
  その半面でこの制度は、粛清、弾圧、投獄とも一体化していて、その抑圧体制と指導者間の権力闘争の苛酷(かこく)さも内在している。粛清の数が1千万を超 えること自体、病的な体制とも見られる。この体制がゴルバチョフの時代にはいれば、国際共産主義運動への帰属意識が薄れたうえに共産主義社会の建設も現実 的ではなくなっている。共産主義体制はすでにその理想空間の清新さとは相いれなくなっていたというのである。それが「凄絶(せいぜつ)な失敗という結果」 になったと著者は断言する。
 アジアでの4カ国(中国、北朝鮮、ベトナム、ラオス)とカリブ海のキューバに残っている共産主義体制は、いずれも 「土着的革命」であり、ヨーロッパ共産主義運動とは大いに異なる。しかし、そのスターリン的抑圧体制が21世紀にどう変貌(へんぼう)するのか、著者と共 に注視したい。
    ◇
 下斗米伸夫監訳、中央公論新社・8925円/Archie Brown 38年生まれ。オックスフォード大名誉教授。

この記事に関する関連書籍

共産主義の興亡

著者:アーチー・ブラウン、下斗米伸夫/ 出版社:中央公論新社/ 価格:¥8,925/ 発売時期: 2012年09月

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kinokuniya shohyo 書評

2012年11月11日

『永遠まで』高橋睦郎(思潮社)

永遠まで →bookwebで購入

「異時間体験の方法」

 詩を読む人が少なくなっている理由のひとつは、日常生活の中に�詩のための時間�がないことだと思う。詩には、ふつうの時間とはちょっと違う時間 が流れている。ふだんの生活にひたったまま接するのは難しい。だから、ここだけは特別、と枠を区切ることから始めれば、少なくとも�異時間�に立ち向かう ための心の準備ができる。たとえば1日に10分、いや、5分を�詩のための時間�に割くことはできないか。3日に5分でもいい。そうすれば、週に二つ三つ は詩が読める。一ヶ月あれば、それなりの数の詩人と出会うこともできる。

 詩に�異時間�が流れているのは、内容ともかかわっている。詩でもっとも大事にされてきたテーマのひとつは、死である。死者を語るエレジー(哀 歌)という古い様式は、衰えるどころか、近代になっても詩のことばに力を与えている。これは死が、時間の中を生きてきた私たちを無時間、もしくは非時間と しての�永遠�に連れ去るという意味で、私たちにとってもっともわかりやすい�異時間体験�だからである。

 死を時間の側からではなく、時間を越えたところから語ることが詩にはできる。私たちはことばが時間の中にあると考えがちだが、そして多くの場合は たしかにそうなのだが、そうではないことばの使い方もありうる。死者のことばのようにして語られることばがある。そこに入っていくと、まるで時間という重 力から解放されたかのように、ことばに奇妙な浮遊感さえ生じる。

 高橋睦郎の『永遠まで』はこの�異時間体験�にこだわった詩集である。巻頭詩は「私の名は 死を喰らう者/新しい不幸の香を 鋭く嗅ぎつける者」と始まる。いかにもゴシック的な死のトーンが聞こえると思う人もいるかもしれないが、果たしてそうだろうか。

私の年齢は不詳 というより 不定
零歳にして百歳 むしろ超歳
白髪 皺だらけで 産声を挙げ続ける
私を捜すなら あらゆる臨終の床
瀕死の人を囲む 悲しみの家族にまぎれ

 「零歳にして百歳」とはどういうことだろう。これは霊界からの声などではない。そういうものは、たいていこの世の投影である。ここにあるのは、 ちょっと「夢十夜」など思い出させるような変な気分である。こちら側にいるのか、向こう側にいるのかわからないねじれた声。すでにその微妙な境地がこの巻 頭詩にも読めるが、それがもっと露わになるのは、母を語った「奇妙な日」という作品である。何より、ことばのリズムからして違う。

おかあさん
ぼく 七十歳になりました
十六年前 七十八歳で亡くなった
あなたは いまも七十八歳
ぼくと たったの八歳ちがい
おかあさん というより
ねえさん と呼ぶほうが
しっくり来ます

 「ぼく 七十歳になりました」という部分には老いの境地があるが、同時に、「ぼく 」とことばを切る口調に、幼児のような舌足らずさ、たどたどし さも聞こえる。「零歳にして百歳」とはそういうことだ。ことばが時間の中をするすると流れていくのではなく、いちいち寸断されている。その隙間に、時間の 外から来るような冷気が吹きこんできて、ヒヤッとする。次の部分もそうだ。

来年は 七歳
再来年は 六歳
八年後には 同いどし
九年後には ぼくの方が年上に
その後は あなたはどんどん若く
ねえさんではなく 妹
そのうち 娘になってしまう
年齢って つくづく奇妙ですね

 「そのうち 娘になってしまう/年齢って つくづく奇妙ですね」という箇所の聞こえ方はとても耳に残る。「ねえさん」から「妹」へと若返っていく 母親が自分との関係性を変えていく、その変化に合わせて、馴れ馴れしいような、下手すると男女の関係さえ連想させるような接近の口調になっている。そうい う変わり身が可能になるのも、その前に「八年後には 同いどし」とか「ねえさんではなく 妹」といった�寸断�的なリズムがあればこそである。寸断的で、 かつリズミカルと言った方がいいかもしれない。今にもノってしまいそうになるが、ヒンヤリとした感触もつねに残る。

 いろいろと気になる作品がある詩集なのだ。この語り手はどこにいるのだろう?生きているのか?死んでいるのか?とこちらはいちいち緊張する。とりわけ印象が強いのは「この家は」という作品である。

この家は私の家ではない 死者たちの館
時折ここを訪れる霊感の強い友人が 証人だ
色なく実体のない人物たちが 階段を行き違っている
彼等が恨みがましくなく 晴れ晴れとしているのが 不思議だ

 なぜ、「私」の家は「私の家ではない」のか。なぜ「死者たちの館」なのか。実はこの作品、ほんとうは詩を書くことについて語った作品である。

親しい誰かが亡くなって 葬儀に出るとする
帰りに呉れる浄め塩を 私は持ち帰ったことがない
三角の小袋をそっと捨てながら 私は呟く
もしよければ ぼくといっしょにおいで
その代り ぼくの仕事を手つだってね
そう 詩人の仕事は自分だけで出来るものではない
かならず死者たちの援けを必要とする

 ここまで読むと、そうか、と思う。でも、「ぼくの仕事を手つだってね」で種あかしがされてしまったということではない。死を通して詩に辿りつくよりも(それでは詩の作法の話になってしまうから)、詩を通して死に向かっているところが読み所である。

 「この家は私の家ではない」という強烈な一節は、この作品のエッセンスとなっている。だから、何度も繰り返される。

この家は私の家ではない 死者たちの館
ぼくのところにおいでというのは 厳密には間違いだ
きみたちの住まいにぼくもいさせてね というのが正しい
ここには はじめから死者たちが群れていて
しぜん 新しい死者を呼び寄せるのだから

この家は私の家ではない 死者たちの館
私の家といえるのは 私が死者となった時
それも正しくは 私たちの家というべきだろう

 「この家は私の家ではない」という部分がかくも強烈に響くのは、それが語りの足元をすっぱり放擲するからである。でも、そんな足元のない薄ら寒さから出発して、なお、どこか遠くに呼びかけているようにも聞こえる。詩の締めくくりの部分では、さらにひとひねりがある。

私はもう詩を書かない 書く必要がない
すでにすべての抽出が ここで書かれた詩であふれ
しかも それらの詩はすべて生まれそこないの蛭子
生きている誰かが来て 私たちのあいだに住む
彼が詩人であるかどうかは 私たちの知るところではない
ただ願わくは 彼がこの家を壊そうなど 謀叛気をおこして
私たちと彼自身とを 不幸せな家なき児としませんように
生まれそこなった詩たちを 全き骨なし子としませんように

 弔いのような祈りのようなトーンもあるが、同時に一種の養生訓のようにも聞こえる。死というものをいかに生きるかを、穏やかな口調で力説しているようにも聞こえる。

 詩は「時間換算方式」には合わないものだ。いくら時間の枠をつくっても、そこからぬるっとはみ出していく。同じ箇所を何度も読んでしまって停滞し たり、かと思うと、するすると頁を繰って、でも目的地には決してたどり着かないということもある。異質の時間が流れているというのはそういうことだ。

 生者、死者を問わずさまざまな人に向けて語られた作品を集めた『永遠まで』は、他者との出会いを通しての一種の自伝である。そこからは、明らかに 人生の匂いが漂ってくる。しかし、それを単なる自分語りにまとめずに、生と死の声の拮抗として差し出したところに、詩人の強さというか、生命力のようなも のを感じるのである。

 

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kinokuniya shohyo 書評

2012年11月18日

『なんらかの事情』岸本佐知子(筑摩書房)

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「岸本道場の掟」

 出た、と思った人も多いだろう。
 『気になる部分』『ねにもつタイプ』につづく�タイトルが七五調�シリーズのエッセイ集第3弾。今回はちょっと字余りだが、細かいことは気にしなくていい。

 電車の中で読んではいけない本だ。単に吹き出してしまうからではない。いや、岸本先生の�タイトルが七五調�シリーズのたちが悪いのは、表向き 「イヒヒ。笑わせちゃうぞ」という顔など、ぜんぜんしてないことである。むしろ、むっつりして「いえいえ。こちらこそ。かたじけない」とお辞儀でもしそう な気配。ところが、すれちがいざまにやられるのである。たとえば「物言う物」という、ごく地味なタイトルがついた文章。

 このあいだ、デパートのトイレに入ったら便器がしゃべった。
「このトイレは、自動水洗です」
 驚いた。便器に話しかけられることは、まったく想定していなかった。この先、さらに何か言うつもりだろうか。いろいろ指示したり感想を述べたりするのだろうか。そう考えだすと怖ろしくなり、何もしないで出てきてしまった。(25)

 たぶん多くの人が、「いろいろ指示したり感想を述べたりするのだろうか」で、つい、顔がゆがむだろう。我慢できた? ならば、これはどうだ。「変化」という、これも何の変哲もないタイトルのものである。例によって出だしはごく静穏。

 聞くと何かモヤモヤする言葉、というのがある。
 たとえば「諭旨免職」なんかがそうだ。

 何だかよくわからないが、そう言われてみるとたしかにモヤモヤするような気もする。けっこうまじめな話ではないのか、と思って油断するわけである。で、「はい。どうぞ」と耳を傾けると。

 ……たとえば「諭旨免職」なんかがそうだ。耳で聞くと、どうしても頭のなかで「油脂免職」と変換されてしまう。
 油脂免職。それはどんなものなのか。たぶん、普通の免職つまりクビ、に何らかの油脂の要素が加えられたものだ。クビを言い渡されたあげく油を一気飲みさ せられる、とか。クビになり荷物を箱に入れて去っていく、その出口までの廊下にずっと油が塗ってある。あるいは油脂部屋と呼ばれる仕置き部屋が会社のどこ かにあり、そこに閉じこめられて全身に油脂を塗られる。(21)

 どうだろう。おそらく多くの人は悔やむのだ。まさかこんな話を聞かされるなんて。しかもそのせいで顔が多少なりとゆるむなんて。実にくだらない!と。それで、悔しいから笑うまいとして、だけど、こらえきれずに「ぶふっ、ぶふっ、」と鼻から苦しい息を吐いてしまう。

 ふと、思うのである。岸本先生の本は一種の道場なのではないか。この道場では、いかにアホなことを想像しつつ笑わずに堪えるかを競っているのでは ないか。そう言えば、この『なんらかの事情』を手に取りつつも、筆者は「次はぜったいに笑うものか」という妙に意固地な気分になっていたように思う。で も、あえなくやられるのだ。しかも、「あっははは〜♪」と健やかに笑うのではなく、まるで通り魔にいきなり脇腹を突っつかれたような、ほとんど苦痛に近い 悶絶。それで、「あ、先生! 今、いったい何をなすったのか!」と岸本先生の後ろ姿に呼びかけると、「いえいえ。こちらこそ。かたじけない」などとつぶや きながら先生は足早に去って行かれる。

 道場に流れているのは、まったく何の変哲もないおだやかな時間である。たとえて言うなら静かな昼下がり。秋の夕暮れ。もしくは花粉舞う春の朝。そこへ誘いこまれるようにして私たちは足を踏み入れる。

 中学、高校とつながった女子校に通っていた。
 人生のかなり重要な時期をそこで過ごしたのというのに、何だか断片的なことしか思い出せない。
制服がなかったのでみんなでたらめな服を着てきて、中には下駄にハッピ、腐った学帽などという者もいたこと。
(中略)
 物理のテストの学年平均点があまりにも低かったため、物理の先生が歯ぎしりして奥歯が割れたこと。
 女子校なのにトイレが尋常でなく汚く、ついにある日緊急全校集会が招集され、お掃除のおばさん数名がトイレ掃除のつらさ大変さを壇上から切々と訴えたが効果がなかったこと。
 ある年の国語の入試問題で、文中の「おいそれとは○○できない」と同じ用法の�おいそれ�を以下より選べ、の選択肢の一つが「おいそれ取ってくれ、大島君」であったこと。それが校長先生の名前であったこと。(96)

 最後の「おいそれ」問題のところでは、思わず「マジッ!」と立ち上がる人もいるかもしれないが、そんなことで動揺していては岸本道場ではやっていけない。まだまだ修行がたりない。

 だいたい筆者は、どちらかと言うと笑い上戸なのである。実は過去に苦い想い出がある。某学会でシンポジウムの司会をやったときに、まあ、アメリカ の学会みたいに皮切りに洒落のひとつも言ってやろうと思って、講師の先生方にキャッチフレーズをつけてみた。「マッハの思考で知られる××先生」「概念の 魔術師××先生」など。ところが、いざその場になって紹介をはじめようとすると、自分で勝手に考えたキャッチフレーズなのにやけにおかしくなって、壇上で 我慢できずにグフグフと笑い出してしまったのである。この書評を読んでいる方は「どこがおもしろいのかさっぱりわからない」とお思いだろうが、口で言おう とすると、字面で見るよりおかしいものです。それに、筆者はもともと笑い上戸なのである。しかし、もちろんのことだが、会場はシーンと静まりかえり、呼吸 困難になって身をよじりながらひとりで笑っている変な司会者を、冷たく白けた目で見つめていた。

 そのあとの懇親会で言われたものである。「君、ああいうときは、自分が笑っちゃいけないんだよ」。その通りだ。笑ってはいけないのだ。笑ったら負 けだ。だからこそ、訓練が必要なのである。おかげで、ヨーロッパ風の、いかにもオチの明瞭な「一、二のさ〜ん」みたいな冗談ならだいたい耐えられるように なった。しかし、岸本先生のはいつどこから弾が飛んでくるかわからない。闇討ちというか。食あたりというか。気を抜いたとたんに、ぐさっとやられる。

 本書の後半は同じ通り魔でも、脇腹系よりは、やや「宇宙的」な話が増えてくる。中でも筆者のお気に入りは「金づち」や「ザ・ベスト・ブック・オ ブ・マイ・ライフ」、あ、「海ほたる」も相当よかった。「ザ・ベスト・ブック」は『双子の棒切れ』という本の話なのだが、主人公が棒で、その名前が「棒 子」と「棒夫」なのである。これだけでもすでにやられた気分だ。ここからコズミックな話が広がるのだから、驚くほかない。

 実は少し前に、岸本先生と公開討論会のようなことをやらせていただいた。せっかくの機会だから、�タイトルが七五調�シリーズの愛読者としてかね がね訊いてみたいことがあった。いや、でも、どうだろう。こんなこと、はじめてお会いする方に言うのは失礼か。でも……と、そんな逡巡をへて、討論会の流 れのどさくさもあったのだが、思い切って言ったのである。
「あのう。岸本先生って、ひょっとして、ちょっとだけ、Sな?」
 すると、何と岸本先生、ふだんの道場の厳しさからは想像もつかないくらいやさしいほがらかな顔になられて、
「……と思うでしょう♪」とか何とか。
 つづきはご想像ください。


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2012年11月19日

『ベートーヴェン』平野昭(音楽之友社)

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「作曲家 人と作品シリーズ」の中の一冊だ。9月に刷り上がったばかりだから、ベートーヴェンの伝記として、現時点では世界でもっとも新しいものだろう。 ベートーヴェンの生涯を追った伝記の部分とともに活気にあふれた言葉でまとめられたジャンル別の作品解説、それに年譜や作品一覧、参考文献リストと人名索 引が加えられた、コンパクトながらも配慮の行き届いた、便利で魅力的な書物になっている。サイズもちょっと小ぶりなB6判で片手でも支えられるし、電車の 中で読むにも無理のない大きさだ。

誰のものであれ、伝記をまとめるのは大変な作業だろう。一筋縄ではいかない、奥の深い世界に違いない。アントン・シントラーという、実際にベートーヴェン の世話をした人が書いた伝記が最初のものだったが、それ以来今日までに数多くの研究者たちがベートーヴェンの伝記を発表してきた。「伝記」とはその対象と なる人の生涯をふりかえり、その実態を客観的にまとめた文献だ。膨大な資料を検証し、そこから真実だけを洗い出していくのだが、手間がかかることは言うま でもない。しかし客観的であるべきところに著者の主観が混在してしまうところが、伝記のおもしろさでもある。ベートーヴェンの場合は研究者の数も多く、た くさんの専門家によって積み上げられた史実としての研究成果も半端な量ではない。それでもなお、まだ不明の部分も多々残っている。研究の余地はまだ残され ているのだ。

平野が提供してくれる最新情報は何だろう、とわくわくしながら読み進んだ。何といっても日本語が平易で読みやすいのはありがたい。すんなりと頭の中に入ってくる。そんな中、ふとある一節に目がとまった。

一方で、オーバーデーブリングから持ち帰ったエラール・ピアノで新しい「ハ長調」ソナタ(作品五三)の作曲を進めている。これまでにない強弱のコントラストを明確に打ち出し、初めてダンパー・ペダル記号まで書き込んだ新しいタイプのピアノ・ソナタだ。…(70ページ)

ベートーヴェンはこと音楽においては常に「さらに先の可能性」を求めてやまなかった人物で、新しいモデルのピアノを入手すれば、即座にその新性能を駆使し た作品を創作した。現代ピアノではスタンダード仕様となっているペダルは、実はベートーヴェン時代に開発されたものなのだ。それまでは足で操作する機構で はなく、楽器下部に取りつけられたレバーを膝で押し上げることによって、同等の効果が得られていた。ベートーヴェンが1802年まで使用していたピアノは まだこうした旧式のものだったというのが従来の通説で、1803年に入手したフランス製のピアノにて初めて「ペダル」が使えるようになり、作品にもその指 示が書き込まれるようになった、という見解は間違いではない。

しかし1802年に作曲された「テンペスト」という愛称を持つピアノソナタにも、この新しいペダル指示が書き込まれているのだ。いや、「書き込まれてい る」かどうかは検証できない。なぜならこの作品の自筆譜はすでに散逸してしまったからだ。筆者に質問してみたところ、ほどなく返答があった。

「テンペスト」の自筆譜は消失しているのですが、例外的に二種類の初版譜(ネーゲリ版とジムロック版)があります。これらを確認すると、両版とも にペダル記号を使った指示があります。ということは、2社が版下として使用した浄書写本(コピストによるものだろうと思います)にはすでにその指示があっ たと考えられます。自筆譜にないものをコピストや出版社が勝手に加えたということも考えにくく、もしかしたら失われた自筆譜にすでに明記されていたのかも 知れません。となると、この作品を作曲していた時にベートーヴェンが使っていたピアノにはぺダルが装備されていたということになり、改めて1802年頃の ウィーンのピアノを調査する必要があると思います。

これをきっかけにまた一歩ベートーヴェン研究が進むことになるのかも知れない。終わりのないのが研究の魅力である。本書もベートーヴェン研究のひとつの通過点として貴重な存在となるだろう。

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2012年11月19日月曜日

asahi shohyo 書評

ネジと人工衛星 世界一の工場町を歩く [著]塩野米松

[文]笠間直穂子  [掲載]2012年11月23日

表紙画像 著者:塩野米松  出版社:文藝春秋 価格:¥ 809

 東大阪市高井田地域は、日本でもっとも工場が密集している町。九割方が従業員20名以下の小さな工場だ。スプリングやネジ、プラスチック製品の成 形に欠かせない金型など、私たちの生活を支える物の数々がここで生み出されている。本書は、聞き書きの名手として知られる著者が13社を訪ね、工場主たち の話をまとめたもの。それぞれどんな物を、どうやって作っているのか。時代によって変わったこと、変わらないことは何か。飾らない語り口から、工場町のい まが見えてくる。
 まず、各社の製品にまつわる話が面白い。たとえばバネはどんな機械にも入っている上に消耗品だから、技術さえあれば注文がつづ く分野だという。そう聞けば、小さな部品を見る目も変わる。ミクロン単位の金属表面処理から鉄道・航空機部品まで、工業製品とはいえ生身の人間が考え、工 夫し、技を磨いて作る。機械化が進んでも「最終的には人の加減」。よい品を納めて信頼を得てきた誇りがあるから、「おっちゃん」たちの言葉は背筋が通って いる。学ぶべきことは多い。

この記事に関する関連書籍

ネジと人工衛星 世界一の工場町を歩く

著者:塩野米松/ 出版社:文藝春秋/ 価格:¥809/ 発売時期: 2012年09月

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カンタ・エン・エスパニョール! [著]ホセ・ルイス・カバッサ [訳]八重樫克彦、八重樫由貴子

[文]土屋敦  [掲載]2012年11月23日

表紙画像 著者:Jose Luis Cavazza、八重樫克彦、八重樫由貴子  出版社:新評論 価格:¥ 2,310

 題名を訳せば「スペイン語で歌う!」となる。その言葉どおり、本書は、主にスペイン語圏出身のミュージシャンへのインタビュー集である。
  著者がアルゼンチンのコラムニストゆえ、登場するのは南米のミュージシャンが多い。そして、彼らの多くが軍事政権による圧迫を受け、一部は亡命を余儀なく されるなどしており、それだけに語られる言葉は日本のミュージシャンとは比べ物にならないほどの深遠さをたたえている。
 「俺はマハトマ・ガン ジー」と言うラテン・ロックの雄、チャーリー・ガルシアの個性、亡命生活の苦しみを語る、詩人にして、ウルグアイを代表する音楽家でもあるアルフレッド・ シタロッサの言葉の重み、「エルヴィスよりボルヘスになりたかった」というホアキン・サビーナや、ニーチェやフーコーに影響を受けた歌詞を書くルイス・ア ルベルト・スピネッタなどの言葉に漂う、詩的で哲学的な雰囲気……。
 そしていうまでもなく、読了後、彼らの音楽を聞きたくなるのである。

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カンタ・エン・エスパニョール! 現代イベロアメリカ音楽の綺羅星たち

著者:Jose Luis Cavazza、八重樫克彦、八重樫由貴子/ 出版社:新評論/ 価格:¥2,310/ 発売時期: 2012年10月

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asahi shohyo 書評

細菌が世界を支配する [著]アン・マクズラック [訳]西田美緒子

[文]谷本束  [掲載]2012年11月23日

表紙画像 著者:アン・マクズラック、西田美緒子  出版社:白揚社 価格:¥ 2,520

 細菌というと、バイキンだなんだと悪者扱いされるのが常だが、とんでもない。すべての生物が生きていられるのも、地球環境が健全に維持されるのも これみんな細菌のおかげだという。細菌の生態から歴史、近年重要性を増す微生物生態学まで、知られざる細菌の世界を案内している。
 彼らは地表だ けでなく、6万メートルの上空や超高圧の地下深部、深海とあらゆる場所にいる。全細菌の重さは、なんと人類65億人の質量の2千倍以上。膨大な数の彼らは 有機物のみならず、鉱物でも金属でもどんどん分解して、生態系を維持するための物質を再生産する。生命活動に絶対必要な窒素を環境に循環させるのも細菌 で、早い話が私たちの食べ物も自分の体も、製造元は全部細菌なのだ。
 驚くのは細菌の力を利用したテクノロジーだ。病気治療をはじめ、有害化学廃棄物を出さないクリーンな生産技術、石油に代わる新エネルギー創出、果ては美術品の修復まで可能にする。
 小さな細菌たちに生殺与奪の権を握られているという逆転の感覚に、ゾクゾクする。

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細菌が世界を支配する

著者:アン・マクズラック、西田美緒子/ 出版社:白揚社/ 価格:¥2,520/ 発売時期: 2012年09月

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2012年11月15日木曜日

asahi shohyo 書評

ものづくりに民主化の波 クリス・アンダーソンさん

[文]高久潤  [掲載]2012年11月13日

雑誌「ワイアード」の編集長、クリス・アンダーソン氏=東京都港区、西田裕樹撮影 拡大画像を見る
雑誌「ワイアード」の編集長、クリス・アンダーソン氏=東京都港区、西田裕樹撮影

表紙画像 著者:クリス・アンダーソン、関美和  出版社:NHK出版 価格:¥ 1,995

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 情報社会の次は、「ものづくり」の時代がやってくる——。新著『MAKERS(メイカーズ)』(NHK出版)でそう説くのは、米誌「ワイアード」 編集長でベストセラー『ロングテール』『フリー』で知られるクリス・アンダーソンだ。先週来日したIT界の論客に、新しい時代のイメージを語ってもらっ た。
 「メイカーズ」は元々、工作を趣味で楽しむ人たちを指す言葉。そんな人々が自作を発表する雑誌が2005年に創刊されたのを機に、米西海岸から「メイカームーブメント」が広がってきた。「ものづくりの民主化が起きているのです」
 自宅のパソコンで設計図を作り、インクジェットで樹脂を塗り重ねて自動的に立体物にする3Dプリンターやレーザーカッターを使って試作品を作る。
  ただ作るだけではなく、それを売ってビジネスになることが重要だ。おもちゃの「レゴ」好きのある「メイカー」は、正規版にはない「兵器」などを自作して ネットで発表。ファン向けの販売につなげた。別の「メイカー」は個人事業者向けに、スマートフォンにつけて簡単にカード決済できるリーダーを試作した。
 「小さな市場が草の根で広がり始めている」。生産個数は多くても1万個ほどのニッチな市場を狙う。簡単に製品を販売できるサイトの存在も広がる一因だ。
 拠点は、メイカースペースなどと呼ばれる共同の工房。欧米を中心に全世界1100カ所以上ある。日本にもでき始めた。「ジムに通う気分で工房に行き、協力してもらったり、助言をもらったり。新たな人の結びつきも生まれています」
 工作からビジネスへ。実は、自身がそれを実現した「メイカー」の一人だ。自宅で始めたおもちゃの無線飛行機作りをきっかけに、07年に無人機を作る会社を立ち上げた。「編集者がたった数年間でものづくりを起業できる。10年以上前だったら不可能だった」
  アンダーソンは「3番目の産業革命が始まった」と表現する。労働力や機械を大規模工場に集約して生産力を向上させた第2次産業革命と違い、誰もがツールを 持つ新しい家内工業の時代だ。「情報やツールを平等に使えるウェブ空間の特徴が、産業のあり方にも適用され始めている」
 多様な意見やものの見方を育んできたネット文化も原動力になったという。
 ネットの歴史を振り返ると、ブラウザー「ネットスケープ」、音楽ファイルを利用しやすくしたMP3。そして、動画や意見を発信しやすくしたユーチューブやツイッター……。「個人の多様なあり方を尊重する空間が作られてきた」
 自身の共同経営者はネット上でアドバイスしてくれたのを機に声をかけた20代のメキシコの青年だ。起業を決めるまで会ったこともなかった。「大企業に所属している必要もなければ学歴もいらない。自信と意欲とクレジットカードがあれば始められます」
 近くワイアード編集長を辞め、経営に専念する予定だ。「大量生産型のものづくりはなくなりません。ただ『独占』は終わる。特定の国や企業が豊かになるのではない。アイデアがすぐに起業につながり、豊かさを個人が生み出せる時代なのです」
     ◇
 クリス・アンダーソン 1961年英国生まれ。「ネイチャー」「エコノミスト」勤務を経て、2001年から「ワイアード」編集長。著書に、ネットビジネスの収益のあげ方を説明した『ロングテール』やネット上の無料サービスと課金の関係を論じた『フリー』など。

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MAKERS 21世紀の産業革命が始まる

著者:クリス・アンダーソン、関美和/ 出版社:NHK出版/ 価格:¥1,995/ 発売時期: 2012年10月

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ロングテール

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フリー 〈無料〉からお金を生みだす新戦略

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