2011年8月23日火曜日

kinokuniya shohyo 書評

2011年08月19日

『<少女小説>ワンダーランド――明治から平成まで』菅聡子編(明治書院)

<少女小説>ワンダーランド――明治から平成まで →bookwebで購入

「<少女>の底力――少女文化研究の見取り図」

 
 ここのところ、三歳になる愚息につきあってケーブルテレビのディズニー・チャンネルをよく見る。ディズニー・チャンネルの番組は、男女 を問わず様々なティーン・アイドルの登竜門であることは、ディズニー・ファンではないわたしでも知っているほどだ。いま最も注目されているディズニー番組 出身のアイドルといえば、ジャスティン・ビーバーとのオープンな恋愛がゴシップ誌を賑わしているセレーナ・ゴメスだろう。古いところではミッキーマウスク ラブに登場していたブリトニー・スピアーズ、クリスティーナ・アギレラがいたし、比較的新しいところではヒラリー・ダフ、マイリー・サイラスなどが思い浮 かぶ。
 こうしたティーン・アイドルを見ながら、ふと「果たして彼女たちが出ているドラマやバラエティショーを<少女番組>と呼べるだろうか」という問いがわた しの頭をよぎった。ディズニー・チャンネルのアイドルである彼女たちは(番組に出演している段階では)十代の女の子であり、年若き存在であり、それは<少 女>と呼ばれうる時期と重なる。オーディエンスである同じ十代の女の子たちの憧れの的でもある。しかし一方で、彼女たちアメリカン・ガールは、日本におい て<少女>という言葉が伝えるニュアンスに完全に合致するのだろうか。わたしの研究分野であるアメリカ文学研究では、ティーン文化や若者文化や、「女の子 (Girl)」の表象に関する研究書を昨今よく目にするようになっているが、Girlがすなわち<少女>というわけではないことは、例えばウィキペディア のエントリーに "Shôjo"があることからもうかがい知ることができるだろう。<少女>ははたして日本特有のものなのか。

 <少女>とは何者なのか。
 この問いは、以前紹介した渡部周子氏による『<少女>像の誕生——近代日本における「少女」規範の形成』(新泉社)を書評した際にも思ったことである。 渡部氏は、そのひとつの答え——すなわち日本が近代国家として歩むその途上で、公教育によって管理された存在としての「少女」像——を提示していた。その 緻密な議論は説得力に満ちたものであったという感想は、いまも変わることはない。
 渡部氏の著書はおもに日本の近代国家形成期に焦点が当てられていたが、現代にまで続く「少女小説」「少女文化」を歴史的に概観する少女研究の見取り図が あると、<少女>像の輪郭がよりはっきりしてくるのではないか。さらにアメリカ文学を研究する筆者の関心である英米文学の家庭小説・児童文学との関連が論 じられていれば、冒頭で筆者が感じたようなアメリカのティーンと<少女>の共通点と差異を理解する方向がつかめるのではないか。
 そうしたわたしの漠然とした希望を満たしてくれたのが、菅聡子編『<少女小説>ワンダーランド』である。本書は少女小説を中心とした少女文化を歴史的に 概観するとともに、1980年代前後に始まるコバルトシリーズを中心としたジュニア小説ブームや現在の宝塚人気までを網羅する。そのなかで、少女とは何 か、少女とはどのような存在か、そして少女がうみだした「文化」とはどのような意義があるのかを明らかにしようとする。

 編者である菅聡子氏と藤本恵氏による「<少女小説>の歴史をふりかえる」では、少女小説の成立、吉屋信子の果たした役割、雑誌の読者投稿欄の重要 性、戦後の少女文化を支えた雑誌『ひまわり』と村岡花子の存在、そして現代のジュニア小説へと至る道のりがひじょうにわかりやすくまとめられている。ここ では少女小説は「少女を読者として想定して描かれた作品」として規定されるが、興味深いのはこの読者であった<少女>たちが初期の段階で目標とされていた 良妻賢母主義の色合いの濃い小説がかかげた理想から「逸脱し、<少女>たち自身の言葉」をうみだしていったことが指摘されている点である。これは、本書に 収録されている本田和子氏のインタビュー中でも指摘されている。男性の編集者のもとで良妻賢母を志向しているはずの少女雑誌に掲載される小説読み、「物を 書くことが好きな女の子たちがいて、勝手に書き始めた」わけである。

小説家というのは健全な家庭の子女がなる職業ではないと考えられていたものですから。だけれど、文章を書くのが好きな女の子だっ たら、そういうフィクショナリーな物語の中に自分を仮託して、いろいろ展開させるというのは、ひとつの遊びとして楽しいでしょう。たぶんそういうことをし たい子どもたちがいっぱいいて、投稿欄にじゃんじゃん投書してきた。その代表が吉屋信子ですよね。そこで『花物語』が出てくると、これぞ自分たちの求めて いたものだ、ここに私がいる、と感じた少女達が熱狂したんです。(27頁)

「これぞ自分たちの求めていたものだ、ここに私がいる」という感覚は、いま自分がいる場所ではなく、作品の中に自分の本来の場所を見出すことである (ちなみに、筆者が2007年に開催された世界SF大会にて「やおいパネルディスカッション」に参加したとき、パネリストのひとり——女性だったが——が 最初にやおいを読んだときの感想として、まったく同じ言葉を述べていた)。それによって<少女>たちは、「社会的条件に規制されるけど、歩き出してしまう と内発的動因に促されて制度的な目的や理念を曖昧化」するという「したたかさ」を手に入れるのだ。<少女>の底力はまさにここにあるといえるだろう。

 本書が対象としているのは、基本的に日本の<少女>であるが、彼女たちの形成に「海外」が重要な役割を果たしていたことが指摘される。ルイザ・メ イ・オルコットの『若草物語』と日本の少女文化を論じたドラージ・土屋浩美氏の「『若草物語』と日本の少女」は、『若草物語』の翻訳氏と戦後の影響をつま びらかにしている。日本でもよく知られているジーン・ウェブスターの『あしながおじさん』に登場する主人公ジルーシャ・アボットを「モテ系女子大生」とし て読み直す越智博美氏の論文「『あしながおじさん』と1912年のモテ系女子大生」(なんと魅力的なタイトルか!)は、1912年に刊行されたこの小説が 持つ「したたかさ」をあざやかに論じている。こうした海外文学からの影響のもとで日本の<少女>が作られ、いまやその<少女>像がshôjoとして海外に 輸出されているのだ。
 明治期に成立した少女小説は、なんの試練もなく現代に受け継がれているわけではない。戦時下における少女小説を論じた藤本恵氏の「戦時下の少女小説」 は、「主人公・敵対者・援助者」という<少女>たちの三角関係が、戦時下には出兵兵士によって崩されることを指摘する。<少女>たちの「S」関係(本書の 末尾にあるキーワード解説では「女学生同士の親密な友愛関係」と説明される)が、愛国というイデオロギーと出兵する男性によって壊される点は興味深い。斎 藤美奈子氏は「現代文学に見る『少女小説』のミーム」において、少女小説のパターンを抽出し、その「ミーム」を、現代の日本女性文学(たとえば綿谷りさに いたるまで)の中に見出している。
 菅聡子氏の「私たちの居場所—氷室冴子論」は、コバルト文庫が80年代の文学シーンに果たした役割を丹念に追い、コバルト・ブームを牽引した作家・氷室 冴子の描く<少女>像に肉薄する。ここで菅氏は氷室冴子が創り出した「私が私でいられる世界」であることを指摘する。それは、ジュニア小説に見られた<少 女>のステレオタイプ——恋愛のことしか考えていない「恋愛バカ」——に縛られることのない、「女の子がなにものにも矯められず生きられる世界」である。 自分が自分でいること——それが本来当たり前の姿なのかもしれない。しかし、それが叶わない世界にいる<少女>たちの本来の姿を虚構の世界に創り出すこと で、絶大な人気を得た氷室ワールドを再認識させる論考である。
 アマンダ・C・シーマン氏の「少女小説からジェンダーフリー小説まで」では、世界的大ヒットとなったハリー・ポッター・シリーズを取り上げる。根村直美 氏は、主に女性が消費するふたつのエンターテインメント——宝塚とジャニーズ——の意外な接点を看破する。美術的な側面から<少女>を考察する渡部周子氏 は、吉屋信子の『花物語』に添えられた挿絵——特に目や眼差し——に注目することで、<少女>の図像を解析しており、印象深い論のひとつであった。

 本書に収められた論文はどれもが読み応え十分だが、それに加えて前述の本田和子氏とコバルト文庫を手がけた田村弥生氏のインタビューが収録されて いる。また、尾崎翠、野溝七生子、森茉莉、金井美恵子についてのコラム、少女文化のキーワード、そして<少女小説>の名ゼリフを付した解説もあり、わかり やすく、かつ飽きの来ない構成になっている。さらに面白いのが、フランス、イタリア、韓国、台湾、中国における<少女小説>事情を解説したセクションであ る。とくにアジアにおける海外文学の受容という点で、非常に興味深い。全体で200頁に満たない分量でありながら、内容の充実度が高い本書は、少女文化研 究の優れた入門書である。

 <少女>とは何者なのか。本書を読むと、<少女>の輪郭が少しずつ見えてくる。かりに<少女>とは「社会的条件に規制されるけど、歩き出してしま うと内発的動因に促されて制度的な目的や理念を曖昧化」する存在だとするならば、こうした<少女的なるもの>は、ある種の普遍性を持つとも考えられる。そ の意味で、冒頭に挙げたアメリカン・ガールたちと<少女>たちとの関係性をじっくりと考えることもまた、意義のあることではないか——などといったことを 考える契機となった一冊である。少女はこれからまだまだ語られるべき存在である。これこそが<少女>のもつ底力なのかもしれない。


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