2011年4月6日水曜日

kinokuniya shohyo 書評

2011年04月04日

『摘録 断腸亭日乗(下)』永井荷風(岩波文庫)

摘録 断腸亭日乗(下) →bookwebで購入

「永井荷風の被災日記」

 鬱々とした日々が続いている。大震災直後には閃光のように現れたかのように思えた、被災者同士の相互扶助的な「災害ユートピア」が、企業とメディアを中 心とした抑圧的で官僚的な「自粛」ムードによってかき消されている(何より見えない汚染物質をまき散らす原発事故のせいだが)。街を歩けば、あちこちの商 店に「被災者にお見舞い申し上げます」という言い訳めいた紙切れが貼ってあり、ACのテレビコマーシャルも、老人へのいたわりや友達との言葉のやりとりを 主題にした優しいものから、有名人たちが節約や節電を推奨したり、「日本は強い。みんなで力を合わせれば乗り越えられる」と強がってみせるような説教臭い ものに変貌している。いったい、何なのだ。これでは「贅沢は敵だ」とか「進め一億火の玉だ」といった戦時中の標語と何も変わらないではないか。誰も本気で はないのに、誰もが世間を配慮することで捏造されてしまう全体主義的な「空気」に、私たちは戦後60年以上経って、またもや支配されてしまったようだ。

 こういう官僚的な自粛ムードに抵抗して、自分たちの日常生活を淡々と続けるにはどうしたらよいのだろうか。そんなことを考えて、永井荷風を書棚か ら引っ張り出した。戦時中も時流におもねることなく、自分の趣味的な生き方を貫いた孤高の作家・荷風の生き方をいまの全体主義的な状況を生き抜くための参 考にしようと、『断腸亭日乗』(摘録版)の戦時下・昭和16年のところからじっくりと読んでみた。ところがこれが、いま読むと予想以上に面白い。この部分 を読む限り、この日記は端的に、空襲で家を焼け出された老作家が、二次被災、三次被災を次々と受けながら転々と住居を移動していく、何とも心細さに満ちた 「被災日記」なのである(実際、この日記の一部は最初「罹災日録」として終戦直後に雑誌に発表され、その後、書籍化された)。その記述は、いま東北地方の 避難所で暮らしている被災者たちの光景と否応なく重なってくる。

 まずは最初の被災の話。昭和20年3月9日深夜の東京大空襲のため、麻布にあった荷風の木造洋館(偏奇館)は焼失し、彼は「日誌及草稿を入れたる 手革包(てかばん)」だけを持って逃げ出し、自分の家の焼けていく様子を眺める。その翌日の日記。「三月十日 町会の男来り罹災のお方は炊き出しがありま すから仲の町の国民学校にお集まり下さいと呼歩む。(略) 握飯一個を食ひ茶を喫するほどに旭日輝きそめしが寒風は昨夜に劣らず今日もまた肌を切るが如 し。(略)昨夜路上に立ちつづけし後革包(かばん)を提げ青山一丁目まで歩みしなれば筋骨痛み困憊甚だし。ああ余は着のみ着のまま家も蔵書もなき身とはな れるなり。」(254−5頁)

 しかし荷風の被災はこれだけにとどまらない。四月からは東中野のアパートに住むのだが、ここがまた五月二十五日の空襲でやられてしまう。いや荷風 は、死にかけたと言うべきかもしれない。警報に従って防空壕に逃げ込んだら、その頭上に爆弾が落ちてしまったのだ。荷風らしい冷静な描写であるが故に、 いっそうその恐ろしさがひたひたと伝わってくる。

 「夜いつもの如く菅原君の居室にて喫茶雑談に耽る時サイレン鳴りひびき忽空襲を報ず。余はいはれなく今夜の襲撃はさしたる事もあるまじと思ひ、頗 る油断するところあり。日記を入れしボストンバグのみを提げ他物を顧ず、徐に戸外に出で同宿の児女と共に昭和大通路端の濠に入りしが、爆音砲声刻々激烈と なり空中の怪光壕中に閃き入ること再三、一種の奇臭を帯びたる烟風に従って鼻をつくに至れり。最早や壕中にあるべきにあらず。人々先を争ひ路上に這ひ出で むとする時、爆弾一発余らの頭上に破裂せしかと思はるる大音響あり。無数の火塊路上至るところに燃え出で、人家の垣墻(えんしょう)を焼き始めたり。 (略)遠く四方の空を焦す火焔も黎明に及び次第に鎮まり、風勢もまた衰へたれば、おそるおそる烟の中を歩みわがアパートに至り見るに、既にその跡もなく、 唯瓦礫土塊の累々たるのみ。(略)昨夜逃入りし壕のほとりにアパートの男女一人一人集り来り、涙ながらに各その身の恙なかりしを賀す。」(265−6頁)

 そして三度目の被災は、何とか東京から疎開した先の、岡山に於いてである。空襲警報も鳴らないうちに爆撃が始まったというのだから、ここでも危機 一髪である。「六月廿八日。晴。旅宿のおかみさん燕の子の昨日巣立ちせしまま帰り来らざるを見、今明日必異変あるべしと避難の用意をなす。果してこの夜二 時頃岡山の町襲撃せられ火一時に四方より起れり。警報のサイレンさへ鳴りひびかず市民は睡眠中突然爆音をきいて逃げ出せしなり。余は旭川の堤を走り鉄橋に 近き河原の砂上に伏して九死に一生を得たり」(270頁)

 そして、ようやくこの岡山で終戦を迎えるのだが、戦後東京に帰ってからも荷風の受難生活は続く。市川市の従弟の家に同居したり、知人の家に間借り したりするのだが、孤高の作家はなかなか他人との同居生活に慣れることができずに、仮寓を転々と変えることを余儀なくされる。とりわけ荷風を悩ませたのが 隣室のラジオの音である。音が気になって、読書も執筆もできずに毎晩のように外へ逃げ出す姿が何とも哀れである(間借り人として気兼ねしてうるさいと言え なかったのだろうか)。「(昭和21年)八月十三日。晴。夜机に向はむとするに隣室のラヂオ喧噪を極む。苦痛に堪えず。門外に出るに明月松林の間に昇るを 見る。ラヂオの歇(や)みたるは十時なり。その時まで林下の小径を徘徊するに露気肌に沁みて堪がたく、虫の声は昨夜よりも多し。家にかへるに疲労して何事 をも為す能はず。悄然燈を滅して寝に就く」(300頁)

 この時、荷風68歳。この前後にも、親戚の家の子供に、数少ない大切な蔵書を盗まれて古本屋に売り払われたり、泥棒に入られたり、猥褻文書の問題 で警察に呼び出されたりといった具合に事件が次々と起こって、もう散々な日々である。ずっと後から歴史的に見れば、永井荷風は戦後いち早く文壇に復帰し、 昭和23年から『荷風全集』全24巻が5年がかりで出版され、昭和27年には文化勲章を受章するという栄誉に恵まれ、私生活の上でも毎日のように浅草に出 かけては踊り子たちと付き合うという幸福な生活を送ったかのように片付けられてしまうのだが、しかし実際にそのとき未来が見えていなかった荷風自身にとっ ては、本当につらい日々だったのだろうとこの日記から実感できる。

 つまり、この本を読んで鍛えられるのは、私たちの弱者への想像力である。家屋を失った人間の心細さ。住居や食事のことで他人の世話になっている人 間の、周囲に対する気兼ねのような気持ち。いわば被災者たちは単に物質的に困っているわけではなく、一人の人間としての誇りを傷つけられているのだ。本書 は、著名作家の日記でありながら、空襲の一被災者として、他人の助けを借りながら細々と生活を続けていく無力な人間の様子がありありと描かれている。その 状況を彼は挫けることなく生き抜き、恥じることなく日記として記録し続けた。そこに私は、自分が無力な状況でもなお誇りを持って生き続けようとする人間の 慎ましい姿を見て、ある種の希望を感じる。本書は、やはり、いまでこそ感じることのできる魅惑を持っていると思う。

(付記 1)
 私の生家は、京成八幡駅あたりの、荷風終焉の家のすぐ近くにあった。私が生まれたのは昭和34年8月19日。荷風が死んだのはその4か月程前の同年4月 30日。大黒屋にかつ丼を食べに行く荷風と、母親のお腹の中にいる私はすれ違ったのではないかと、いつもこの日記を読むたびに夢想してしまう。
(付記 2)
偶然にも岩波書店は、いま『荷風全集』の増刷版を毎月出しており、今月は『断腸亭日乗』の昭和12年から16年までを収録した第24巻が出たところである。


→bookwebで購入

0 件のコメント: