2011年4月1日金曜日

kinokuniya shohyo 書評

2011年04月01日

『歌う国民 唱歌、校歌、うたごえ』渡辺裕(中公新書)

歌う国民 唱歌、校歌、うたごえ →bookwebで購入

 小学校の入学式の日、教室で「みんなのうた」という新書本ほどのサイズのオレンジ色の本を配られた。それまでには手にしたことのない、小ぶりで文字も小さな本だったので、とても大人っぽいものに思えてうれしかったのをおぼえている。

 なかには歌詞つきの楽譜がずらり、おぼえているのは、「朧月夜」「隅田川」「我は海の子」「ちいさい秋みつけた」「ペチカ」「雪のふる町を」など 四季おりおりの歌や、「野ばら」「すいかの名産地」「ドナドナ」など。それから「ゆけゆけ飛雄馬」などアニメの主題歌も収録されてあった。この本は小学校 の六年間ずっと使いつづけた。

 毎週水曜日は「歌の朝礼」といって、この「みんなのうた」をもって体育館に集まり、みんなして歌うのだった。一学年六クラスという時代だったの で、さすがに全校生徒全員が一緒ではなかったと思うが、学年全員が集っていたのはたしかだ。壇上で、年配(小学生だったから、そうみえただけかも)の男の 音楽の先生が、いたく熱心に指揮棒を振っている姿に吹き出しそうになるのを、必死にこらえて歌っていた。

 明治政府が発足してわずか十二年後に「音楽取調掛」を組織し、さらにはそれを発展させて「東京音楽学校」を設立して西洋音楽を導入しようとしたの は、これが近代国家における「国民」確立のためにぜひとも必要だと考えられたためだという。西洋音楽の方法によって、これまで日本にあった既存の音楽とは べつの「国民音楽」を作りあげることが、近代国家を整備するための急務であったのだ。

 そんな、明治政府による「国民音楽」のなかでもとくに重要とされたのが、「国民」を啓蒙するためのさまざまな情報が盛り込まれた「唱歌」だった。 これをみんなで声をそろえて歌うことは、「国民」たるにふさわしい健やかな身体と精神を育み、「国民」としての連帯意識を高めるのに役立つ。「唱歌」と は、明治政府によって作り出された「国民づくり」のためのツールだったのである。

 昭和四十年代から五十年代にかけて小学生だった私の「みんなのうた」には、唱歌や童謡からポピュラー音楽、アニメの主題歌まで、いろいろな歌が詰 め込まれてあったし、それをみんなで歌う(歌わされていた、ともいえるが)ことに明治時代ほどの政治性はないかもしれない。それでもあの朝の体育館での合 唱は、明治以来の「唱歌」の伝統を受け継ぐものとしてあるのだということを、本書は教えてくれる。

 と、ここであわてて付け加えるのだが、本書はなにも「唱歌」が上からの「国民づくり」のためのものであったという、その政治性を糾弾しようとして いるのでは決してない。音楽にせよ美術にせよ、近代におけるその受容と制度の成立には、国家の思惑が深く絡んでいる。けれども、文化というものはすべてお 上のイデオロギーのもとに創出されるわけではなく、「多くの人々が様々な形で関与することを通して形作られ、変容されてゆくもの」なのだ。

 文化というものは、継承と断絶とのはざまの、つながっているようないないような、微妙な空間をさまよいながら形作られてゆくも のです。唱歌やその周辺にある「唱歌的なるもの」をめぐるそのような動きに注目しながら明治以後の文化のうつりゆきをもう一度捉え返してみたいのです。

 その「唱歌的なるもの」として、卒業式で歌われる歌や校歌、都道府県歌、社歌、労働者の歌といったコミュニティ・ソングが取り上げられている。本 書の前半では明治時代の「唱歌」を切り口として、日本人が西洋音楽をどのように受け入れ、どのように扱ったのかが、後半では、「唱歌」の伝統を受け継ぎつ つ、日本人が作り出したさまざまな歌とそれをめぐる状況が紹介される。

 いわゆる「芸術としての音楽」の受容とはべつの、みんなで声を合わせて歌う歌における音楽の受けいれられかた、またそこからひろがり発展した文化のありようを追っていく本書は、もう一つの日本近代音楽史である。

 明治以後の日本の音楽文化がたどってきた歴史はしばしば、西洋に「追いつけ追い越せ」を合い言葉に、少しでも西洋の「本格的」 な芸術音楽に近いコピーを追い求めてきた歴史であるかのように描かれてきました。そのために、唱歌のようなものはその位置を確保することができず、受容の 幼稚な段階の中途半端な産物として片づけられるようなことになりがちでした。

 たとえば、こんにちの私たちが思い浮かべることのできる「唱歌」と名のつく歌のなかでもっとも有名な、「きーてきいっせいしーんばしをー♪」とい うあの「鉄道唱歌」は、なんと歌詞が66番まであるのだそうだ。そこには、新橋を出発した汽車が走る「東海道線沿線の景観や産業の様子が延々と歌われて」 いる。そんな、近代的な知識を学ばせるための歌は、「芸術としての音楽」とはいい難い代物、と私たちは思ってしまうが、それは私たちが西洋近代的な芸術観 に拠っているせいなのである。そもそも、明治の人たちにとってはまだ、音楽は「芸術」ではなかったのだ。

 日本の独特の「唱歌」文化は、「本格的」な芸術音楽にいたらない中途半端なものなどではなく、それとは別の「コミュニティ・ソ ング」の系列の文化というコンテクストの中で、それが西洋から世界に向けて広がっていったグローバル・ヒストリーの一部をなすものとして捉えられるべきな のです。そして重要なのは、この「コミュニティ・ソング」の文化にみられる独特の「日本化」のありようです。

 その、独特の「日本化」のされかたは、「換骨奪胎と流用」とも表現されている。たとえば、初期の唱歌には、西洋の歌曲の歌詞を日本語にしたもの (原曲とはほど遠い内容だったりする)があるが、そうした歌詞の改変は日本の民謡などでは伝統的に行われていたことなのだった。日本語という言語のなりた ちのためもあるだろうが、私たちはいまだに替え歌が好きである。

 この「替え歌の伝統」などは文字通りの換骨奪胎というか、とてもわかりやすい例えだが、それに限らず、日本人はお家芸ともいえる「換骨奪胎と流 用」とを、さまざまな場面で駆使しながら文化を作りあげてきたのだろうと思う。ことに、西洋の文物が押し寄せた明治という時代、人々はじつに一生懸命に、 そして大まじめにそれらを日本独特の仕方で受容しようとしただろう。

 明治人たちの残した「唱歌」が滑稽で非芸術的なものにみえたとしても、彼らの「やりかた」は、すっかり近代化された私たちのなかにもきっとまだ 残っている。そういえば「歌の朝礼」のとき、みんなで声を合わせるなか、退屈な朝礼に飽き飽きし、どの歌でもいちいち替え歌にして歌わなくては気がすまな い男子がいたものだ。

 日本は西洋の音楽文化をそのまま輸入して猿まねしてきたかのようなイメージで語られることがよくありますが、こうしてみると、 当時の人々は西洋の最先端の動きを、自分たちの社会状況に合わせて臨機応変に「最適化」して取り組んでいるように思われます。それを単純な「西洋化」とし て語ってしまうのは、タテマエだけでものを考えるエリートの視点であって、実際には文化が大衆的な局面になればなるほど、時にはそのタテマエをも有名無実 にしてしまうような仕方での「土俗化」が行われているのです。

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