2012年5月18日金曜日

kinokuniya shohyo 書評

2012年05月17日

『三月兎の耳をつけてほんとの話を書くわたし』川上亜紀(思潮社)

『三月兎の耳をつけてほんとの話を書くわたし』 →bookwebで購入

「散文って窮屈じゃないですか?」

 10年前の「グリーンカルテ」を読んで以来、何となく気になってきた書き手である。「グリーンカルテ」は数年前ついに単行本となったが、必ずしも 多作な人ではないから、新しい作品が出て「あ、出た」と思った。今回は詩集。その冒頭の表題作二篇「三月兎の耳をつけてほんとの話を書くわたし」(* と**)がとてもいい。この2つのためだけでも、手に取る価値のある詩集だ。

 現代詩の居場所ということを考える。詩は最古のジャンルで云々とあちこちで言われてきたし、筆者もそれは大事なことだと思うのだが、その一方で詩 は「古さ」だけに依然して生き延びているわけでもない。今や詩は日陰のジャンルであることが定着した感があるが、それでも人がときに詩で語る必要を感じる のは、散文の「まともさ」に窮屈な思いをするからではないかと思う。

 散文は最低限の身支度を調えた言葉である。もちろんだらしなくすることもできるし、攻撃的にも、露出的にも、変態的にもなれる。でも、どこかにラ インがある。それを越えると散文どころか「文」と見なされなくなる。このラインは、人が誰かを「ちょっとおかしい」と感じ始めるときのラインと似ている。 つまり、多くの人が「正気」と考えるラインと、散文のラインは重なる。

 では詩はどうか。詩はしばしば精神の失調を題材にし、とくに20世紀に入って「医療的」と読んでも差し支えないような作品が書かれてきた。しか し、精神科医が言うように、私たちはときに過剰に精神疾患に創造性を期待してしまう。病的な妄想はしばしば驚くほど紋切り型なのである(「わたしは天才 だ」とか「自分は実は天皇である」など)。本人だけが自分の発想の特別さを確信している。もちろん、これでは詩にならない。

 ただ、「正気」の世界に住んでいる人も、ラインの向こう側を知らないわけではない。人間の大きな特徴は、境界を生きるというところにある。「文」 のルールにとらわれつつも、人は「文でない世界」をも垣間見ている。ひそかに「文でない世界」から養分を受け取りつづけているのである。

 詩は、このやり取りの過程をとらえることができる。とりわけ20世紀以降の詩人は、しばしば言葉以前の——もしくは言葉未満の——人間の心の荒涼 とした部分まで語ろうとしてきたから、少々の荒れ野でも乗り出していく用意がある。つまり、「文の世界」と「文でない世界」とが交わりを持ち、養分を送っ たり受け取ったりしているような、やや薄暗い領域を言葉にすることができる。こんなことが起きていますよ、と見せてくれる。

 「三月兎の耳をつけてほんとの話を書くわたし」(*)でも、どうも言葉がふつうでないようである。冒頭から語り手は「ほんとのこと」を書くのだと 言いつのっているが、ふつうに「ほんとのこと」を書くだけの人が、毎行のように「ほんとのこと」「ほんとのこと」と繰り返したりはしないだろう。

ちょっと待って
地震がくる前にほんとのことばかり書かなきゃいけない
ほんとのことばかり言っても誰も聞きたがらないんだ

タイトルからしてそうなのだが、読んでいてすごく神経に障る「文」である。「文でない世界」に行ってしまったわけではないが、ぴりぴりした腫れ物み たいな文で、「まともな文」なら用意されているような、読み手のためのスペースが見つからない。「ほんとのことを書かなきゃいけない」と言いながら、こち らにその「ほんとのこと」を読ませる気がないのかとさえ思う。しかし、こんなふうに「読ませる気がないのか?」のぎりぎりのところで語ってもいいのが詩で ある。おかげで、ふつうなら言わないようなことも言えるようになる。

きのう、わたしの母親だというひとを殴って、
椅子を床に叩きつけて、いくつか傷をつけてしまった
(茶色のクレヨンを探して床に塗る)
そのうえ、カーテンにぶら下がって怒鳴ったので、
窓の上の壁のカケラが、ぽろんと絨毯に落っこちてきた
(壁を拾ってとりあえず物置のなかへ)

 「読ませる気がないのか?」とこちらが感じるのは、実は向こうが無理をしているからだということがだんだんわかってくる。言うのがすごくたいへんなことを言おうとしているらしい。そこに無理が生ずる。ぴりぴりする。

二〇〇二年の暑い夏に体重が減ってしまったのはつまらない人災と猫の避妊手術によるものかというとそれだけではない まだ 若い従弟がとつぜん死んだ 月に手が届かなかったので梯子を倒してしまった。母はその朝すぐに羽田空港へ向かった。(中略)夜になってから父が弔電の作文 をした わたしがそれを電話で読みあげた(その頃父の肺癌はまだ見逃されていた わたしが父親の肺のCT写真を見せられたのは翌年の春だった 父の兄が来 て苦い顔をした)

 小説の中で語ってもいいようなことかもしれない。しかし、詩でなければならなかった。「文でない世界」がすぐそこまで迫ってきているから。詩の言 葉を通さなければ、下手をすると語り手のいう「ほんとのこと」は永遠に言葉にされずに終わるかも知れない、とそんなことまで含めて語りたいのである。やっ とのことで語っている。

この三年間、わたしはなにもしていないのに忙しい
そして毎日同じことを考えていた

五円玉のようなほんとの話が溜まっていくから
まんなかの穴に糸を通して結んで吊り下げていく
ああ、ほんとの話が百は溜まっている!

 私たちが読みたいのもおそらくこのことなのだ。「ほんとの話」の内容よりも、「ほんとの話」を語ろうとする語り手の、「五円玉のようなほんとの話 が溜まっていく」という気分を。なかなか語ることができないのだけれど、今やっと言えているらしい。人はなぜか、誰かが無理をしてやっと言えたことを読む のがとても好きなのである。

ほんとの話をいくつかしたつもりになると
またそこからほんとの話が枝分かれしていって伸び放題のツル草になる
でもぜんぶほんとの話だ、これからはもうほんとのことばかり書くんだ

頭のなかのツル草は伸び放題
三月兎の耳をつけて毎日ほんとの話ばかりするので
詩も書けないしあなたにも会えない

それでもこれはほんとの話なんだ

 無理をしないでも言えてしまうようなことは、どっちみち、言っても言わなくてもいいようなことなのだろう。そこら辺にいくらでも転がっていること なのだ。だったら聞きたいとも思わない。「ほんとの話」の内容だって、どれくらい興味があるのかわからない。でも「ああ、ほんとの話が百は溜まってい る!」という声にはつい耳を傾けてしまう。その声が変に陽気に聞こえるだけになおさらだ。何でこんなに元気なのだろう。無理をした分だけ、妙な活力が湧い たのか。そこには「文」の境界ならではの匂いがする。そういう言葉はひょっとすると、今までぜんぜん知らなかったようなことを教えてくれるのではないかと 思わせるのである。


→bookwebで購入






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