2013年11月1日金曜日

kinokuniya shohyo 書評

2013年10月18日

『国語教科書の闇』川島幸希(新潮社)

国語教科書の闇 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「もう『羅生門』にはうんざりですか?」

 教科書の闇!
 国語教科書ビジネスに多少なりとかかわりのある筆者としては、ついドキドキしてしまうタイトルである。闇、暗部、腐敗、狂気、毒婦、猟奇的殺人……つい想像がふくらんでしまう。

 そんなセンセーショナルな展開を期待した人は、この本のテーマが「なぜ国語の教科書には、『羅生門』、『こころ』、『舞姫』が必ず載って いるのか?」という、お世辞にも派手とは言えないものであるのを知って、やや拍子抜けするかもしれない。しかし、がっかりするのは早い。著者はこのタイト ルに見合うだけの刺激的な文章で盛り上げてくれるし、調査も丁寧。何より「このことって、案外、重要では?」と立ち止まらせてくれる。途中、一握りのイン タビューを根拠に話が進められるあたりは「どうだろうか?」と思わないでもなかったが、著者のメッセージが驚くほど明確なのは美点である。本書の核になる のは、次のポイントだ。

 もう一度言おう。「羅生門」も「こころ」も「舞姫」も名作だ。けれども私は教科書の教材として「舞姫」は失格だ と思うし、「羅生門」と「こころ」も一人勝ちになるような優良教材とは考えられない。少なくとも、芥川と漱石の他の作品との選択肢が学校や教員にあってし かるべきだろう。(180)

「もう一度言おう」との言からもあきらかなように、この主張は繰り返されるものだ。また、こうしてはっきり提示される前から、論述の向かう地点もだいたい予想できる。

 本書の前半ではかなりのスペースをとって、なぜ「羅生門」「こころ」「舞姫」という作品が定番教材として定着していったか、その歴史が検証され、 理由が考察される。中でも興味深く思えたのは、この考察の過程で言及される野中潤氏の一連の論考であった。とくに氏の「敗戦後文学としての『こころ』」で 指摘される、死者に対する生者の「罪障感」という心理は、教科書づくりを文化史の一部としてとらえる上で説得力があるように思えた。

『こころ』という小説を聖典に祭り上げていく最初の導因になったのは、教科書編纂者および国語教師が抱える敗戦後 の罪障感ではなかったか、ということが、ここまで論じてきたことから導き出されたわたしの仮説である。受容史という観点を導入すれば、『こころ』はまさし く敗戦後文学としての相貌を持っているのだ。(川島 121)

 教科書づくりの背後にあるイデオロギーを批判の対象とするという作業は、教科書が数年おきに改訂されていく「生もの」であるということを考えれ ば、下手に古典的な作品の「思想」を脱構築するよりはるかに実りおおき作業なのかもしれない。このような教科書批判をポピュラライズしたのは、本書にも登 場する石原千秋氏の一連の著作だろうが、そもそも清水義範の『国語問題必勝法』などからもわかるように、国語という教科にはどうもあやしい、いかがわし い、それだけにおもしろい奥行きがある。むろん、だからこそ権力が介入したり、権威主義が横行したり、詐欺まがいの事例が生まれる余地もある。そう考える と、著者の立てた「闇」というタイトルもあながち無根拠ではない。

 『国語教科書の闇』に示されるのは、定番教材御三家が「定番化」したのが80年代にすぎず、決してこれらが「永遠の定番」などではないということ である。そういう意味では、出発点にあるのは歴史主義的な相対化の試みである。つまり、一部教材の定番化は何らかの歴史的偶然が働いたもので、根拠は薄 弱。定番教材を入れないと教科書の売れ行きが落ちる、などというのも幻想であり、教員が求める、というのも幻想。定番化の背景にあるのは、既存教材をつ かって確実に検定をパスしたい編者たちの思惑では?というのが著者の川島氏の見方である。そんなことのために、高校生にとってはあまりに暗くて難解で、ろ くな反応も引き出さない教材を使うくらいなら(たとえそれらが文学作品としてすぐれていたとしても……)、小説を読みたい!という気にさせる、もっと明る いものを採用せよ、と川島氏は提言する。

 川島氏の出張はきっぱり明確だから、それだけに反論も呼ぶだろう。おそらく筆者の狙いもそこにある。国語教科書の作品の選ばれ方について、もっと 議論しませんか?ということなのである。それに便乗するわけではないが、某社の国語教科書づくりに少しだけかかわった立場でいくつか自己インタビュー的に コメントすると、

 ◇「たしかに定番教材には指定席が用意されていて、座布団まで敷いてありましたね」
 ◇「ええ、『教科書の文章としてふさわしいかどうか』はあうんの呼吸的なところがあり、『道徳的かどうか』などという単純な尺度はありません」
 ◇「今、学校では入試対策もあって小説が軽視されています。そのため、編集委員が手間暇をかけるのも評論文の方になります。いきおい、『小説は定番でもいいかぁ』的な空気がないとは言い切れません」
 ◇「だいたい、現代風で、おもしろくて、楽しくて、生徒が喜びそうで、しかも検定に通りそうな、悪意も、セックスも、クスリも、バイオレンスもない教材を見つけてくるのは、ものすご〜くたいへんです」
 ◇「編集委員会はすごくまじめにやってますよ。ええ。会議の最中も、安いお菓子くらいは食べますが、アルコールはなし。ほとんど研究会のようにして、徹底的にテクストをほぐします。あ、弁当が出ることもありましたかな」
 ◇「権限はもちろん編集委員会にありますが、実力派の体育会系編集者の方などは、けっこう編集委員会でも発言されます。そういう方はとても有能で、見識もあり、何より元気です」
 ◇「座布団つきの『定番』があるとはいえ、1回分の改訂のために800本くらいピースを読まされます。おかげで拙宅には、売るほど裏紙が溜まりました』
 ◇「編集委員は高校で教員をされている方々が中心ですが、みなさん、決して怠惰ではありませんし、驚くほどいろんなところに目配りをされていて、びっく りします。とにかく新しい教材を見つけて何とか新鮮な教科書をつくろうとする熱意を感じました。あたり前ですが、文章を読むということにかけてはみなさん プロです」

 …というようなことになる。ところで便乗ついでにひとつだけ筆者の不満を付け加えると、晴れて教科書のラインナップが出そろった頃から、編集委員 はいわゆるTM(教師用指導書)を書かされる。三省堂の場合は(あ、言っちゃった!)、署名入りだ。筆者はかねがね国語という教科の一問一答式に疑念を もっていたので、教材のあらゆるセンテンスに注釈をつけたうえで、こころみに一問一答式を徹底的に排除してみた。一問多答式にしたのである。その結果、ど うなったか?

 もちろん、国語という教科の目的のひとつが「事務能力のある大人」を育てることにあるのはよくわかる。「シュークリーム一個ください」と言われた ら、きちんとシュークリーム一個を差し出せる人たちが日本の文化をつくってきたのである。「シュークリーム」と言ったはずなのに、コンニャクが出てきた り、洗面器を差し出されたり、突然、頭突きをされたりしたら困る。(海外ではそういうことも起きる)そういう意味では一問一答式で、きちんと正しい答えを 言う練習をさせるのは大事だ。「まちがえたらたいへんなことになるよ」という緊張感は、成長の助けにもなるだろう。

 でも読解力を鍛えるためにほんとうに大事なのは、「読解してやろう」「読み解いてやろう」「何か見つけてやろう、読み取ってやろう」と奮い立つこ とではないかと思う。レディメードの「感情」やら「気持ち」やらを、淡々と事務的に答えさせるような脚問は、「そうか。読むとは、いかに退屈さに耐えるか の勝負なんだ」と勘違いさせるだけ。多答式でそれが一気に解消されるとは思わないし、「民主的に多文化主義的にいろんな答えを許容しましょう!」などと主 張したいわけでもないのだが、少なくとも文章というのは、ぐにゃぐにゃした実におかしな生き物だという印象を持ってもらえたらけっこうではないかとは思っ ている。

 しかし、仕方ないことかもしれないが、某社からは朗らかに「すばらしい指導書! ぜんぶのセンテンスに注釈つけるなんて! すごい、すごい、拍 手! 愉快、愉快、あっははははは。あ〜あ……で、それはそれとして、とりあえず一問一答式でないと話にならないんですけど。はい、やり直し」というよう なお答えが届いたのであった。というわけで、一問一答式をめぐる戦いははじまったばかりなのである。


→紀伊國屋ウェブストアで購入

Posted by 阿部公彦 at 2013年10月18日 04:55 | Category : 教育/子ども



0 件のコメント: