2013年11月1日金曜日

kinokuniya shohyo 書評

2013年10月25日

『歴史をかえた誤訳』鳥飼玖美子(新潮文庫)

歴史をかえた誤訳 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「一語の誤訳が世界を変える!」

 「もしたった一語の日本語を英訳する仕方が違っていたら、広島と長崎に原爆が投下されることはなかったかもしれない」
 歴史に「〜たら」や「〜れば」は禁句だと言われるが、この一文の持つ重みと恐ろしさは、想像を絶するものがある。数十万人の命を奪い、過去、現在、未来において人々を苦しめている原爆が「たった一語」の英訳のせいで落とされたのならば。

 鳥飼玖美子の『歴史を変えた誤訳』では、興味深いどころか、恐ろしい「誤訳」の例が豊富に紹介されている。前記の例で言うと、これは当時の鈴木貫 太郎首相のポツダム宣言に対する発言のことだ。鈴木は「静観したい」と考えていたようだが、戦争を完遂する雰囲気の元、もっと強い言葉が必要だった。それ で「黙殺」を使った。これを日本側が「ignore」と訳し、連合国側がそれを「reject」と解釈したらしい。

 もちろん、この微妙な訳語がなくとも、他の多くの理由があり原爆が落とされたのかもしれない。だがそれでも、例え数パーセントの確率でも、落とさ れない可能性があったのならば、どんなに悔やんでも悔やみきれないだろう。それほどに通訳、翻訳は難しい。同じ言語を使用していても解釈に齟齬が出るのは 珍しいことではないのだから、2言語間の意思の疎通となると、気の遠くなる話である。

 「善処します」(いかにも日本のお役人的言語だが)との発言に対し「I’ll do my best.」と通訳したり、「ハリネズミ」を「賢いネズミ」と通訳したりして、大変な外交問題となった例。「オフレコ」の解釈の違いや、英語のキーワード の翻訳にまつわる難しさ等、様々な例を挙げて、綿密な調査や判断と共に、鳥飼独自の見解が示されている。

 笑い話としか言えないような例も紹介されているが、とても笑えない話もある。私たちの世代にとっては非常に懐かしい、反戦歌手のジョーン・バエズ が来日した時、コンサートで彼女が「ナガサキ・ヒロシマ・・・・・・」と発言したのに、通訳は「この公演はテレビ中継されます」と訳し、「私は自分の払っ た金をベトナム戦争をまかなうために使われたくないので、税金を払うのを拒みました」と言うと「米国では税金が高い」とやったそうだ。しかもこれがテレビ で流れたらしい。

 結局のところ通訳者の取るべき立場は二つあるようだ。発言者に寄り添い、言わんとしているところを最大限読み取り、それを伝える。この場合、逐語 訳とはならず、意訳することとなる。もう一つは、例え通訳者がどう思おうとも、発言者の言葉をそのまま伝える立場だ。例えその一言によって戦争になろうと も、発言されたことを明確に伝えるという考え方だ。

 鳥飼の立場は、通訳者というのは「発言者になりきるのが通訳の厳然たる使命」であり、「そこにいても、じつはいない、透明な存在なのである。」と 考える。それが嫌になったら「通訳をやめるしかない」という厳しい倫理観を示している。ここまで考えなければ、迷いが出て中途半端な通訳になってしまうの かもしれない。

 種々の形でグローバリゼーションが進む中、この本は多くのことを示唆してくれる。だが私にとっては、著者の以下の言葉が最も説得力を持って響いてくる。「通訳にせよ翻訳にせよ、最終的には母語の能力が決定的な要素を持つ」


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Posted by 石村清則 at 2013年10月25日 22:33 | Category : 言語/語学



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