2013年10月29日
『文字の食卓』正木香子(本の雑誌社)
「絶対文字感」
「文字の食卓」は、Webサイトで連載されていたときから、たびたび立ち寄っては読むのを楽しみにしていた。文字に対する感覚がちょっと変わっていて、こんな面白い人がいるんだなあ、といつも感嘆しながら味わっていた。
本書の帯には、「滋味豊かな書体をあつめました。」とある。まるで食卓に並ぶ料理のように、いろんな書体の見本が並べられ、それらに関するエッセイが綴られている。
書体見本といえば同じ文言を様々な書体で組んだものを思い浮かべてしまうが、本書にあるのは実際に書体が使われている本から一部を抜き出したもので、文言は書体ごとにすべてバラバラ。
でも、それぞれの書体にぴったりの文章が選ばれていて、心憎いばかりだ。もともと、その書体のために書かれた言葉なんじゃないか、と勘違いしてしまうくらいに。
そして書体と、食べ物や料理にまつわる記憶が見事にリンクしながら語られていく。
見出しをちょっと抜き出してみると、
「ビスケットの文字」
「炊きたてごはんの文字」
「スパイスの文字」
「缶ドロップスの文字」
「スープの文字」
「給食の文字」
「きのこの文字」
なんか美味しそうでしょう?
それにしても、石井中ゴシックが「ビスケットの文字」とは! いろんな文字を組んできたけれど、こんな風に感じたことはなかったなあ。
そういえば著者の正木さんは、文字を「組む」なんて無粋な言葉はめったに使わない。
絵本にしては少し地味な、けれどとても美しい装丁の箱に入っていた。そのなかに入っていた「おはなし」が、この文字でかかれていたことを、大人になった今でもはっきりと覚えているからふしぎだ。(p. 23「炊きたてごはんの文字◉石井太明朝ニュースタイル」)
印刷された本の文字も、「かかれた」ものなのだ。
こんな文章を読むと、パソコンに入っているデジタルフォントも、機械が勝手に作ったものではなくて、ひと文字ひと文字、だれかがちゃんと「書いた」ものなのだと、改めて気づかせられる。
あと、こんな文章も。
小学校の記念文集に、私のかいた作文が載ることになったのだ。
でも、私は全然うれしくなかった。
教室で生徒全員に配られた冊子には、確かに、一字一句間違いなく、私が四百字詰原稿用紙のマス目を埋めたとおりの文章が載っていて、でも、それは、ずっと憧れていた「物語の文字」ではなかったから。(p. 79「発酵する文字◉モトヤ明朝」)
私なんか大学時代にワープロを買って、自分の文章が明朝体になっただけで感動していたのに、「書体が違うからうれしくなかった」とは……。それも、小学生の話ですよ、これ。
たまに絶対音感を持つ人がいるけれど、正木さんはきっと、「絶対文字感」を持っているんだろうと思う。
絶対音感を持っている人は、日常の中にあるあらゆる音も音符に変換できるそうだ。また、楽器のチューニングが少しでも狂っていると、プロの演奏ですら違和感がぬぐいされず、気持ちが悪くなるという。
本書の中で正木さんは、短文に向くA1明朝で長文を組んだ文章があって、途中で読めなくなってしまった、と書いてあった。
この書体でびっしり組まれた長い文章を読んでいると、水気の多いサラダを食べているみたいで、ふっと「読む気が失せる」ことがある。本を読みたいのに。好きな作家なのに。(p. 233「滴る文字◉A1明朝」)
絶対音感を持つ人が音のズレに対して感じる違和感と同じものを、文字に感じてしまうのだろう。
たしかに、文章と書体の組み合わせに違和感を感じることはある。でもほとんどの人は、ページを読み進めるうちに違和感は少なくなり、とくに文章が魅力的 だったりストーリーが面白かったりすれば、いつのまにか違和感は消えているんじゃないかと思う。少なくとも私はそうだ。その文字に慣れてしまうのだ。
その違和感がずっと続いて、文章を読むことすらできなくなってしまうとは。
特異な感覚を持っているがゆえに、文字を敏感に感じすぎるがゆえに、文字が読めなくなる。ある意味でこれは、とても不幸なことではないだろうか。
そういえば、この件(くだり)を読んでいてふと思い出したんだけど、先日見ていた写真集の解説がA1明朝の横組で、途中で読むのが面倒になって読み飛ば してしまったことがあった。そのときは、文字のサイズが小さいうえに行長が長すぎるからだと思っていた。もしかすると、別の書体だったら読み通せたのか も……。
「文字の食卓」が本の雑誌社から出版されると知ったとき、まっ先に考えたのが、本文書体はなんだろう?ということだった。もし写植書体が使えるな ら、本命・石井中明朝、対抗・本蘭明朝。デジタルフォントなら本命・游明朝、対抗は……筑紫明朝は色っぽすぎるし、リュウミンはあえて外されそうな気 が……と、自分が編集するわけでもないのにあれこれと考えていた。
で、実際に使われていた本文書体は、私の予想はちょっとかすってファウルチップといったところかな。
本文で使われているゴシック体は「珈琲の文字」石井太ゴシック、明朝体は特別仕様?の游明朝らしい。正木さんには游明朝は何に見えるのかな、と気になった。游明朝はデジタルフォントで、写植書体中心の本書では出てこなかったのだ。
そこでググってみると、Web版「文字の食卓」のインタビューで出てきた。游明朝は「おはぎの文字」とのこと! う〜ん、なぜ「おはぎ」なのか、知りたい。
私にとって游明朝のイメージは、「ほぼ好青年」みたいな感じかな。若々しくてキリッとしていて、恵まれた環境で真っ直ぐに育ってきた青年みたいな 文字。だけど、たまに、まだ手しか握ったことのない恋人(のような文字)が登場する。それこそ「ほ」とか「ぼ」は、どこか女性っぽくて、でも色気はまだな くて、広隆寺の弥勒菩薩みたいな中性的な感じ。なので「ほぼ」好青年。
と游明朝について書いていて、なんか、ぜんぜんダメだな、と思った。自分の中のイメージをうまく言葉にできない。
やっぱり正木さんのイメージ力、そしてそれを伝える文章力は並外れているなあ。
最後に、印象に残った言葉をいくつか。いっぱい引きたいんだけど、キリがないのでこれぐらいでやめときます。あとはどうぞ本書で、じっくり味わってお楽しみください。
書体の名前を知ることは、めずらしい貝を図鑑で調べるのに似ている。
大きさやかたち、微妙な色あいや模様を手がかりに、時間をかけてよりわけ、これだと思うものをみつけてもなお、どれひとつ完全に図鑑と同じものは存在しない。その文字が出会う言葉は無限にあるから。(p. 182「貝の文字◉ファニー」)
私たちの目にうつっている世界には、この文字でかかれることを望んでいる言葉がきっとあるはずなのに。(p. 250「珈琲の文字◉石井太ゴシック」)
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