今井顕
(いまい・あきら)
ピアニスト・国立音楽大学大学院教授。
16歳で渡欧、ウィーン国立音楽大学に入学、早くも19歳で卒業。数々の国際コンクールで頭角を現し、日本の誇る国際派コンサートピアニストとして活躍中。
24年ものあいだヨーロッパに滞在し、ウィーン国立音楽大学ピアノ専攻科にて日本人初の講師/客員教授として教鞭を執った。
2011年03月21日
『老いの才覚』曽野綾子(ベスト新書295)
私は年齢的に50代後半に突入したところである。親の年齢は80代となった。私の両親、そして家人の母が健在だ。私の両親もさまざまな局面で手助けが必要 になってきたが、問題は家人の母親だ。典型的なアルツハイマー型痴呆を抱えている。「どうしても一人で暮らしたい」と譲らないので今のところは好きにさせ ているが、それを補佐するためのまわりの苦労は半端ではない。だいたい口で義母に勝てる者がいない。恐るべきは認知症の屁理屈だ。本人の記憶力は日増しに 衰えるが、身体はいたって健康だ。介護者にとってはそこがやるせないところでもある。
介護というものは実際にやってみないとわからないものだ、とつくづく思う。それも「肉親の介護」がきつい。配偶者の親も親ではあるが、血はつながっていな い。一概には言えないものの、血がつながっていなければ自分の意識のどこかに多少なりとも醒めたところを確保できるように思う。しかし血縁となるとつい感 情的になって、手荒に対応してしまい勝ちなのだ。
日本社会の高齢化にはそら恐ろしいものがある。今介護を必要としている老人たちよりさらに上の世代は、まずは今より大人数の家族で世話をできるケースが少 なくなかったし、今ほどは長生きしなかった。最先端の医療による延命措置にも限りがあったに違いない。介護に対する社会の意識は、今日と少なからず異なっ ていたように思われる。
もちろん別の見方もあろう。その当時実際に介護を担当しなければならなかった人にとっては、今日のようにその苦労や心痛を共有できる場も、利用できる施設も相談相手も限られており、状況は今と比較にならないほど八方ふさがりだったに違いない。
いずれにせよ、介護を必要としている老人を放り出すわけにはいかない。しかし私たちが考えるべき問題は、今はまだ動ける私たちが選ぶべき「我が身今後の生 活形態」である。好んで痴呆になる人はいないが、私たちすべてに「将来人に迷惑をかける」可能性がひそんでいる。できることはただひとつ。「自分で判断で きるうちに自分の生き方を決め、それを確実に実行すること」である。口先だけのきれいごとで終わらせてはいけないのだ。
私の親たちも元気なうちは「そのうち身体が動かなくなったら、どこか施設に入ろうと思っている」と言っていた。しかし、実際それが必要になった時点では判 断力が衰え、物件を捜す体力も気力も残っていない。タイミングを逃してしまったのだ。たとえ経済的に余裕があって有料の施設を利用できるような場合でも、 昨今の経済状況の中、そうした施設が倒産してしまう危険もあろう。まさにロシアンルーレットのような状況だ。
元気なうちに自分の晩年の生き方を決めたいものだ。そして、まだ余力のあるうちはできるだけスマートに生きていきたい。そんな思いを感じながらこの本を読 んだ。理想と現実の間にギャップはあろうが、「できることはできるうちにやる」という覚悟と勇気が必要だろう。つけ加えておけば「早めにやる」ということ も。数も減っていく若い世代に「順番だから」と、今の介護者が担わされている負担をこのまま押しつけるわけにはいかない。