2011年3月31日木曜日

kinokuniya shohyo 書評

プロフィール

書評空間(書評ブログ)今井顕

今井顕
(いまい・あきら)
ピアニスト・国立音楽大学大学院教授。
16歳で渡欧、ウィーン国立音楽大学に入学、早くも19歳で卒業。数々の国際コンクールで頭角を現し、日本の誇る国際派コンサートピアニストとして活躍中。
24年ものあいだヨーロッパに滞在し、ウィーン国立音楽大学ピアノ専攻科にて日本人初の講師/客員教授として教鞭を執った。

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2011年03月21日

『老いの才覚』曽野綾子(ベスト新書295)

老いの才覚 →bookwebで購入

今、評判の本だ。書評を通じて本好き諸氏の興味を刺激し、購入をうながすことなどまったく必要ないと思われるが、自分自身が「親の介護」という現実にどっぷりはまってみての感想を述べてみたいと思う。

私は年齢的に50代後半に突入したところである。親の年齢は80代となった。私の両親、そして家人の母が健在だ。私の両親もさまざまな局面で手助けが必要 になってきたが、問題は家人の母親だ。典型的なアルツハイマー型痴呆を抱えている。「どうしても一人で暮らしたい」と譲らないので今のところは好きにさせ ているが、それを補佐するためのまわりの苦労は半端ではない。だいたい口で義母に勝てる者がいない。恐るべきは認知症の屁理屈だ。本人の記憶力は日増しに 衰えるが、身体はいたって健康だ。介護者にとってはそこがやるせないところでもある。

介護というものは実際にやってみないとわからないものだ、とつくづく思う。それも「肉親の介護」がきつい。配偶者の親も親ではあるが、血はつながっていな い。一概には言えないものの、血がつながっていなければ自分の意識のどこかに多少なりとも醒めたところを確保できるように思う。しかし血縁となるとつい感 情的になって、手荒に対応してしまい勝ちなのだ。

日本社会の高齢化にはそら恐ろしいものがある。今介護を必要としている老人たちよりさらに上の世代は、まずは今より大人数の家族で世話をできるケースが少 なくなかったし、今ほどは長生きしなかった。最先端の医療による延命措置にも限りがあったに違いない。介護に対する社会の意識は、今日と少なからず異なっ ていたように思われる。

もちろん別の見方もあろう。その当時実際に介護を担当しなければならなかった人にとっては、今日のようにその苦労や心痛を共有できる場も、利用できる施設も相談相手も限られており、状況は今と比較にならないほど八方ふさがりだったに違いない。

いずれにせよ、介護を必要としている老人を放り出すわけにはいかない。しかし私たちが考えるべき問題は、今はまだ動ける私たちが選ぶべき「我が身今後の生 活形態」である。好んで痴呆になる人はいないが、私たちすべてに「将来人に迷惑をかける」可能性がひそんでいる。できることはただひとつ。「自分で判断で きるうちに自分の生き方を決め、それを確実に実行すること」である。口先だけのきれいごとで終わらせてはいけないのだ。

私の親たちも元気なうちは「そのうち身体が動かなくなったら、どこか施設に入ろうと思っている」と言っていた。しかし、実際それが必要になった時点では判 断力が衰え、物件を捜す体力も気力も残っていない。タイミングを逃してしまったのだ。たとえ経済的に余裕があって有料の施設を利用できるような場合でも、 昨今の経済状況の中、そうした施設が倒産してしまう危険もあろう。まさにロシアンルーレットのような状況だ。

元気なうちに自分の晩年の生き方を決めたいものだ。そして、まだ余力のあるうちはできるだけスマートに生きていきたい。そんな思いを感じながらこの本を読 んだ。理想と現実の間にギャップはあろうが、「できることはできるうちにやる」という覚悟と勇気が必要だろう。つけ加えておけば「早めにやる」ということ も。数も減っていく若い世代に「順番だから」と、今の介護者が担わされている負担をこのまま押しつけるわけにはいかない。

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kinokuniya shohyo 書評

プロフィール

書評空間(書評ブログ)伊藤智樹

伊藤智樹
(いとう・ともき)
富山大学人文学部准教授。1972年愛媛県生まれ。
さまざまな病いを持つ人々が支え合うセルフヘルプ・グループを中心に調査を行いながら、「病いの語り(illness narrattive)」研究を行っている。
著書『セルフヘルプ・グループの自己物語論—アルコホリズムと死別体験を例に』(ハーベスト社)、共著書『<支援>の社会学—現場に向き合う思考』(青弓社)。

2011年03月25日

『<当事者>をめぐる社会学——調査での出会いを通して——』宮内洋・好井裕明編著(北大路書房)

<当事者>をめぐる社会学——調査での出会いを通して—— →bookwebで購入

「「当事者」を語ることの意味」

「この苦しみは体験した者でなければわからない」。これは、私が研究の過程で知り合ったある難病を持つ方が、専門職を前に体験談を語った中で出てきた言葉 です。一瞬、「あなたたちは『非当事者』であり、私の気持ちなんかわからない」を言われているようで、ドキリとします。しかし、そう言いながらも、その人 は専門職に語りかけており、決して(少なくとも全面的な)拒絶は感じられない——ここでは、「当事者」という言葉に、軽微な断絶とともに「もっと関心を もって見てほしい」というつながりの要求が潜んでいるように思われます。もちろん、別の場面、たとえば「この場の議論には『当事者』不在だ!」と言われる とき、そこでは「当事者」と目される人の声が十分に聴かれていないこと、そしてそのことが何らかの損害につながっていることが告発されています。

このように考えてみると、「当事者」という言葉は、なかなか奥が深い、とても単純なようで、それでいて考えれば考えるほど複雑な言葉であるように思えます。

この本は、そうした「当事者」の奥行きと複雑さについて考えさせられる本です。執筆陣は、気鋭の社会学者たちによって構成されており、扱われる領域 は、性風俗店で働く「おんなのこ」たち(第1章 熊田陽子)、性同一性障害のカウセリング場面(第2章 鶴田幸恵)、環境運動(第3章 西城戸誠)、農業 (第4章 松宮朝)、移民経験者(第5章 樋口直人)、障害者の家族や支援者(第6章 中根成寿)、認知症の人とケア労働者(第7章 天田城介)、テレビ メディア(第8章 石田佐恵子)、そして差別(好井裕明)とバラエティに富んでいます。どの執筆者の調査体験も非常に興味深く、また、読んでいて、自分自 身が研究の中で知り合った方たちとのさまざまな場面が、頭の中に浮かんできます。

たとえば、私は吃音(きつおん=どもること)のセルフヘルプ・グループに2002年以来参加させてもらって論文を発表したことがありますが(現在で も時々参加させてもらっています)、ふりかえってみると、集会の最初の方で参加者が自己紹介する場面では、そこに居るのが常連メンバーだけという場合でな ければ、「私自身は吃音ではありませんが…」とはっきり言うようにしているようです。いつもこの台詞を口にする瞬間、なんだか必要以上に「私とあなたたち とは違うんだよ」ということを強調しているかのような軽微な気まずさを感じながらも、何かはっきり言う必要もあるような気がして、何とはなしに続けてきた 習慣です。しかし、この本を読みつつ考えてみると、そこではっきり言っておくことによって、私のことをよく知らない参加者が「あの人は、とても吃音には見 えないけど、本当のところはどうなんだろうか」という疑問を悶々と抱いたり、ある時思い切って「伊藤さんは吃音なんですか」と聞いてみて「違うよ」と言わ れたときの気まずさ(あるいは「裏切られた」とか「だまされた」と思う)危険をあらかじめ防いでいると考えられます。また、少し世知辛い言い方をすれば、 「私は当事者でないから、グループの関心や運動に100%同一化できないかもしれない」とあらかじめ断っている、という見方もできます。一方、聞く側に 「なんだか冷たい言い方だな」という印象を持たれて、近寄りがたい奴だと思われる危険もあります。

このようにしてみると、「当事者」という言葉は、ある体験への近さについて「当事者/非当事者」という線引きを行なう行為の産物としてとらえられる ように思います。この言葉を使うことで何かが行なわれ、それに伴って、発話者やその他の人に何らかのメリット・デメリットが生じます。そうすると、「当事 者」を何か固定的・実体的なものとして考えるよりも、もう少し動的なものとして、つまり、ある場面では「伊藤は非当事者だからわかるまい」と思われるかも しれないし、別の場面では「伊藤は傍観者よりもずっと近い、ほとんど『当事者』と変わらない」と思われるかもしれない、そういう<たえず線を引かれ直され うる>ものととらえた方がよいのではないか、と思います。

改めてこのように述べてみると、何だか当たり前のことを確認しただけのような気もするのですが、私のような質的調査研究(フィールドワークやインタ ヴュー調査)を行なう者にとっては、定期的につい点検してしまう、そしておそらくその必要があることなのだろうと思います。なぜなら、調査の過程では、強 い思いを持った人や、いわゆる重たい現実に直面することが多々あり、特にメンタル・コンディションが悪い時などは、「非当事者」である自分の無力に打ちひ しがれてしまうので、その状態を相対化し、自分を立て直し鼓舞する作業が必要になってくるからです。そのためには、自分が徹頭徹尾「非当事者」と決めてか かるような発想は正しくないし有害である、ということに改めて気づく必要があるのです。

ですから、質的調査研究を行なっている人で、「当事者」との関係の作り方、維持の仕方に悩んでいる人にとっては、この本は有意義な刺激を与えてくれ る一冊になると思います。どこから読み始めても最初はつかみどころがないように感じるかもしれませんが、少し我慢してすべての章を読んでみていただきた い。単純に「研究対象者」イコール「当事者」といえないことや、「当事者に近いほどよい研究ができる」というわけではないことなど、さまざまな発見が得ら れると思います。


*この本の書評に関しては、もう少し専門家向けの内容の書評が近々『社会学評論』に掲載される予定です。購読されている方は、是非そちらも併せてご覧ください。


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kinokuniya shohyo 書評

プロフィール

書評空間(書評ブログ)辻 泉

辻 泉
(つじ いずみ)
1976年東京都生まれ。
東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得満期退学。博士(社会学)。
松山大学人文学部専任講師、助教授・准教授を経て、現在は中央大学文学部准教授。
メディア論、文化社会学が専門。各種メディアの受容過程に関する実証的な調査を手広く行う中で、とりわけファン文化に関するエスノグラフィックなアプローチをライフワークとして継続中。

主著に『デジタルメディア・トレーニング』(共編著、有斐閣、2007年)、『文化社会学の視座』(共編著、ミネルヴァ書房、2008年)、『「男らしさ」の快楽』(共編著、勁草書房、2009年)、など。

2011年03月30日

『ナショナル・アイデンティティの国際比較』田辺俊介(慶應義塾大学出版会)

ナショナル・アイデンティティの国際比較 →bookwebで購入

「ナショナル・アイデンティティの実証的研究!」

 2011年3月11日に発生した未曽有の震災以降、「日本という国の力を信じている」「いまこそ国が一つになる時だ」といったメッセージを多く目にするようになった。
 その一方で、こんなメッセージを目にすることもある。おおむね先のメッセージには同意しつつ、「でも、できれば"国"と言わないでほしい。そう 言われると、在住の外国人からすると排除されてしまったような気持になる。"日本という社会"と言ってくれると嬉しい」というものだ。

 たしかに、今回の震災にしても、あるいはほかの機会にしても、われわれはどこかしらで、国に対する思いや感情を持つことがあるようだ。しかしな がら、なんとなく感覚的には理解しているつもりでいて、果たしてこの"国"とは一体何なのか、あるいはそこで覚えている感情とはいかなるものなのか、さら には、それを強くもつものとそうでないものがいるのはなぜなのか、といったことは実証的に明らかにされてこなかった。


 こうした状況を踏まえたうえで、本書はナショナル・アイデンティティの実状について、既存の調査データの2次分析を行うことで、実証的に明らかにしよう としている。これまで、理論的な議論に偏りがちだったこの概念について、その実社会における現状を実証的に明らかにした点において、高い評価に値するもの といえる。

 また本書の構成も、十分に説得的なものといえるだろう。

 第一に、これまでの理論的な議論の変遷を丁寧にレビューしながら、ナショナル・アイデンティティの概念の捉え難さ、および本書における定義が明確化されている。

 そして第二に、本書が採用しているのは、国際比較という手法だが、これはナショナル・アイデンティティの現状が、おそらくはそれぞれの国ごとにそ の背景やコンテクストが異なることが想像される点からすれば、まさに理にかなった手法と言えよう。また、その比較についても、ただ単にいくつかの国の実態 を明らかにするだけでなく、互いに関連付けながら適切に結果の解釈がなされている点が高い評価に値する。

 分析対象とする国の選定も本書の目的からして妥当なものである。筆者が明らかにしたいのは、もちろん日本におけるナショナル・アイデンティティの 現状だが、それと最も関係の深いといえるアメリカ、後発近代社会という点で共通するドイツ、そして「多文化社会の実験国」ともいえるオーストラリアが取り 上げられている。日本におけるナショナル・アイデンティティの現状を理解する上で、適切な文脈化が図られている。

 さらに末尾の11章では、過去の調査結果との対比から、経年変化の可能性についても示唆されている。今後は、さらに分析対象とする国を広げるなど、ますますの研究の進展が期待できよう。

 著者の田辺俊介氏は、実は評者の大学院時代の同期であり、長年来の友人である。そのような人物の著作を、ここで紹介するのにためらわれる部分もないわけではない。

 しかしながら、むしろ本書は、改めて日本という社会そのものの存在が問い直されている今こそ、読むべき一冊だと強く信じ、ここに紹介する次第である。



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asahi shohyo 書評

テレビは総理を殺したか [著]菊池正史

[評者]江上剛(作家)

[掲載]2011年3月20日

表紙画像著者:菊池 正史  出版社:文藝春秋 価格:¥ 956


■視聴率競争に巻き込まれた政治

 本書に巻かれた帯が衝撃的だ。小泉純一郎元首相から菅直人首相まで6人の首相の顔写真が並び、そこに彼らの寿命(在任期間)が表示されている。小泉氏の5年5カ月を筆頭に、きれいに短くなっている。さて菅首相はどうなるのだろうか?

 彼らの寿命を決めるのはテレビとの関係と著者は言う。テレビを最初にうまく利用したのは小沢一郎氏だ。政治改革論争が盛り上 がった際、「改革派VS.守旧派」の二極対立構図を打ち出した。テレビはこの「わかりやすさ」に飛びついた。テレビは営業収入を上げるために、ニュースに も視聴率が求められていたのだ。政治は視聴率競争に巻き込まれていく。視聴率が上がれば続報を打ち、下がれば打ち切るようになる。

 二極対立構図を最大限に活用したのは小泉氏だ。彼はテレビの嗜好(しこう)を知りつくし、お茶の間を独占し続け、寿命を延ばす。

 歴代の首相たち、そして小沢氏のテレビに対する態度がどのようなものであったかが生々しく描かれ、興味が尽きない。またテレビの役割と視聴率に踊らされるテレビマン、そして視聴者である私たちにも反省を迫る好著だ。

表紙画像

テレビは総理を殺したか (文春新書)

著者:菊池 正史

出版社:文藝春秋   価格:¥ 956

asahi shohyo 書評

正岡子規 言葉と生きる [著]坪内稔典

[評者]四ノ原恒憲(本社編集委員)

[掲載]2011年3月20日

表紙画像著者:坪内 稔典  出版社:岩波書店 価格:¥ 756


■様々な顔持った「表現者」の生涯

  「子規」「不如帰」「時鳥」「杜鵑」「蜀魂」「杜宇」……。日本語で詩を作るアメリカ生まれのアーサー・ビナードさんは、これらすべてを「ホトトギス」と 読む日本語表現の豊かさに、あるエッセーで触れていた。でも、正岡子規のことを知れば知るほど、「子規」の表記が印象深くなるとも。

 俳人の著者が、「言葉の表現者」としての子規の生涯を描いた本書にも、そんな漢字の表記と同じように、本当に様々な相貌(そう ぼう)の子規がいる。松山藩の下級藩士の家に生まれた子規は、小学校時代から、水滸伝や八犬伝などで始めた筆写への熱情が、生涯続き、病床での命を支え、 作品を豊かにする。中学時代、漢詩に熱中し、また、時代の子らしく政治演説に打ち込んだ。

 上京しての学生時代には、学友を容色、色欲、才気など八部門で採点。また、親しい友人を細かく分類する。ちなみに後の漱石は 「畏友(いゆう)」、秋山真之は「剛友」とはしかり。こんな、比較、分類という方法にこだわる思考の芽生えは、後の、芭蕉に比較して蕪村、古今集に比較し て万葉集の価値の「発見」という、当時の評価を覆す、彼の大きな業績につながる。

 二十歳をすぎ、当時死病とされた肺結核による突然の喀血(かっけつ)が、「余命十年」という覚悟につながり、読むこと、描くこ とへと、さらにのめり込む。と、同時に、その眼差(まなざ)しは、天下国家から、身の回りの野の草花や小動物のいとしさに向かい始め、写生という文学上の 方法を引き寄せ始める。

 様々な「相貌」が一つになり、晩年、東京の狭い子規庵(あん)で、不自由な身を時に嘆くも、ユーモアを忘れず、多くの知人に囲まれながら食べに食べ、書きに書く子規が生まれた。

 短い章立ての冒頭に、必ず子規自身の「文章」を置き、最終章は、表に出ることなく陰で彼を支え続けた母の臨終の場の一言で終わ る。終始、著者の筆は柔らかい。子規を知る格好な評伝であるにとどまらず、「憂さ晴らし」という考えを文章観の根っこにみる著者の子規論へのヒントもま た、魅力的だ。

 評・四ノ原恒憲(本社編集委員)

    ◇

 つぼうち・としのり 44年、愛媛県生まれ。俳人、佛教大教授。『カバに会う』など。

表紙画像

正岡子規 言葉と生きる (岩波新書)

著者:坪内 稔典

出版社:岩波書店   価格:¥ 756

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カバに会う—日本全国河馬めぐり

著者:坪内 稔典

出版社:岩波書店   価格:¥ 1,680

asahi shohyo 書評

日本人の坐り方 [著]矢田部英正

[評者]四ノ原恒憲(本社編集委員)

[掲載]2011年3月27日

表紙画像著者:矢田部 英正  出版社:集英社 価格:¥ 756


■多様なスタイル排した「正座」

 「正義」「正論」「正統」……。頭に「正」をいただく文言には、どこかうさん臭さを感じ取ってしまう癖がある。でも「正座」は、日本文化の長い伝統に支えられた「正統」な座り方と、何となく信じていたが、本書で見事に覆された。

 著者は、過去の絵、写真、文書をつぶさに調べ、平安時代から江戸初期まで、「正座」は極めて珍しい座り方であった、と結論づける。立てひざで茶を点(た)てることも許されたし、正式な場でも、男女を問わず多様な座り方をしていた。

 江戸時代になり、上級武士の正式な作法として定められ、それが長い時間をかけて、幕末には庶民の一般的な座り方となった。明治に入り、教育に取り入れられた「礼法」が硬直した軍国思想に絡め取られるなかで、今の地位が確定した、という。

 著者は、「正座」に異をとなえているわけではない。「正」となった瞬間、多様な座り方が排除され、中世の茶人が重んじた「崩しの美学」など、日本文化が持っていた幅が忘れ去られたことを悲しむ。声高な日本文化論ではないが、身近な、まさに低い視線からの快論に拍手。

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日本人の坐り方 (集英社新書)

著者:矢田部 英正

出版社:集英社   価格:¥ 756

asahi shohyo 書評

再読 こんな時 こんな本

「再読 こんな時 こんな本」は、朝日新聞の土曜朝刊に挟み込まれてくる別刷り紙面「be」に掲載しています。この記事の下部から、書籍の購入ページへ飛ぶこともできます。

書店員に聞く 本家アンドロイド本

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? [著]ディック

[掲載]2011年3月26日朝刊be

表紙画像著者:フィリップ・K・ディック  出版社:早川書房 価格:¥ 777


 スマートフォンの基本ソフトで近ごろおなじみの「アンドロイド」。忘れちゃいけない本当の意味は「人造人間」です。禁断の造物主たらんとする人類の野望は、作家の霊感もかき立ててきました。(保科龍朗)

■三省堂神保町本店・福澤いづみさんに聞く

〈1〉アンドロイドは電気羊の夢を見るか? [著]ディック

〈2〉縫製人間ヌイグルマー [著]大槻ケンヂ

〈3〉心はプログラムできるか [著]有田隆也

 ▽記者のお薦め

〈4〉未来のイヴ [著]リラダン

 人の知能と肉体を模造する科学技術が見境なく進化すれば、やがて、まったく生身の人間と見分けのつかないアンドロイドを出現させるだろう。

 究極の完成度を実現しているがゆえに、そのアンドロイドに芽生えた自意識は、我が身を人工の被造物とは思わない。造り主の側だと信じるはずである。

 すると、造り主の側だった人間が逆に、らせんのように渦巻く自己不信の迷宮にとらわれてしまうのだ。「流れる血も涙も記憶も偽物かも知れない。自分がアンドロイドじゃないという確証はどこにある!?」と。

 映画「ブレードランナー」の原作となった(1)『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』もまさに、人が人である根源の証しを問いかけるSF小説だ。

 主人公、デッカードは、最終核戦争後の地球で、逃亡アンドロイドを「処理」する賞金稼ぎだ。この世界のアンドロイドも外見では 人と区別がつかず、デッカードもアンドロイドを破壊しながら、自分が人間である確信を疑う。「機械に囲まれた日常を過ごす私たちにとって、人と機械の違い が判然としなくなる未来はすぐそこにありそうに思える」と福澤さんはいう。

 (2)『縫製人間ヌイグルマー』は著者のミュージシャン、大槻ケンヂのハードロックな「オーケン節」がさくれつするSFバトル アクション小説だ。宇宙の綿状生命体に寄生されたテディベアのぬいぐるみが、超人「縫製人間ヌイグルマー」に変身して悪の巨大組織と戦う。「中身は綿なの に、愛する人を守る気持ちは人以上」(福澤さん)

 では、現実の科学はどこまで進んでいるのか。(3)『心はプログラムできるか』は、心の謎に迫る人工生命の研究成果を解説す る。例えば、人工知能の研究者は、感情を状況に応じて適切に行動するための合理的システムと定義し、暗闇の中の注意深い動作が不安げに見えるロボットなど が作られているらしい。

 記者が薦める(4)『未来のイヴ』は19世紀フランスの象徴主義の作家、リラダンの代表作。アンドロイドという造語を初めて世に広めた小説である。

 英国の青年貴族エワルドがひと目ぼれした恋人は、ビーナスに生き写しの美女だった。だが、彼女の魂は俗物そのもので、エワルド はその落差に苦悩し、自死まで決意する。彼の絶望を知った天才電気学者、エディソン(あの偉大な発明家がモデル)は、彼の恋人と寸分たがわず、理想のみを 実体化させた人造人間を創造するが……。

 人に造られたものは、かりそめの幻影にすぎないことを思い知らされる高貴な悲劇だ。

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アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))

著者:フィリップ・K・ディック

出版社:早川書房   価格:¥ 777

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縫製人間ヌイグルマー (角川文庫)

著者:大槻 ケンヂ

出版社:角川書店(角川グループパブリッシング)   価格:¥ 860

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未来のイヴ (創元ライブラリ)

著者:ヴィリエ・ド・リラダン

出版社:東京創元社   価格:¥ 1,575

asahi shohyo 書評

錯覚の科学 [著]クリストファー・チャブリス/ダニエル・シモンズ

[評者]永江朗

[掲載]週刊朝日2011年3月25日号

表紙画像著者:クリストファー・チャブリス・ダニエル・シモンズ  出版社:文藝春秋 価格:¥ 1,650


■「モーツァルトで頭が良くなる」はウソ

 私たちには見えるものしか見えない。より正確にいうと、見ようとするものしか見えない。見ようとしないものは、それがどんなに大きくても見えない。視界に入らないのではなく、視界に入っているのに見えないのだ。

 クリストファー・チャブリスとダニエル・シモンズは、共著『錯覚の科学』でその実例をたくさん挙げる。それはもう、腹一杯でゲップが出そうになるほど。

 原題を直訳すると、「見えないゴリラ」。バスケットの試合のビデオを見せ、パスの回数を数えさせるという実験を著者たちはおこ なった。実はこのビデオには、ゴリラの着ぐるみを着た学生が9秒ほど登場する。ところが被験者の約半数はゴリラに気づかなかった。パスの回数を数えるのに 夢中だったからだ。私たちは、見ようとするものしか見えない。

 それだけではない。悪意がなくても、私たちは記憶をねじまげてしまうことがあるし、根拠のないことを信じてしまう。たとえば二 つのことがらが連続して起きると、両者の間には因果関係があると思い込む。アメリカで「はしかのワクチン接種で自閉症になる」という思い込みが広がり、そ の結果、はしかが流行してしまうという、笑えない事件が本書に出てくる。

 私がびっくりしたのは、モーツァルトを聴くと頭が良くなるというのはウソだという話。少なくとも科学実験では否定されているの だとか。サブリミナル効果も。「脳トレ」だって何の効果もない(そういや、「ゲーム脳」っていっていた人はどうした?)。まあ、この本だって、疑いながら 読むべきなんだろうけど。

 本書を読むと、サラリーマン向け自己啓発書のほとんどは、脳の錯覚によって成立しているとわかる。あの手の本には、成功した事 例こそ誇らしげに載っているけど、同じようにやって失敗した事例や、別のやりかたで成功した事例などについて検討していないからだ。自己啓発書を読む暇が あったら、昼寝でもしていたほうがいい。

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錯覚の科学

著者:クリストファー・チャブリス・ダニエル・シモンズ

出版社:文藝春秋   価格:¥ 1,650

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勤めないという生き方 [著]森健

[評者]江上剛(作家)

[掲載]2011年3月27日

表紙画像著者:森 健  出版社:メディアファクトリー 価格:¥ 1,365


■仕事と生きることが一致する喜び

 去年、自殺者数は13年連続3万人を超えた。今回の特徴は就職失敗による自殺が、前年比で2割増になったことだ。その中には、53人の学生が含まれている。2007年の3.3倍。超氷河期と言われる厳しい就職環境を反映しているのだろう。

 本書には13人の勤めないという生き方を選んだ人たちが登場する。例えば、東京大学医学部からワコールに入社したが、手染め職人になった人、京都大学大学院からトヨタに就職したが島根県の隠岐島で島起こしをしている人などだ。

 「本書はいわゆる"成功本"のたぐいではない」と著者は言う。誰もが途上だ。沖縄県・南大東島のサトウキビからラム酒を造るベ ンチャー企業を立ち上げ、独立した人は「目の前のことで精一杯(せいいっぱい)ですよ」と言い、起業時を振り返る余裕はない。大手化学メーカーを辞め、職 人がつくるものをネット販売して成功した人は、様々な失敗をして初めてこれしかないと気付く。

 著者が書きたかったのは、彼らの「仕事と人生に対する考え方であり、それを実践に移した行動の軌跡」。考え方の共通点は収入よ りも自分の好きなことをすることだ。パソナを辞めて養豚業を営む人は「むかし何もわかってない頃にお金だけに憧れたけれど」、今は「仕事が生きることと一 致している。これ以上の喜びはない」と言う。

 行動の軌跡の共通点は「どうしても」という強い思いと「出会い」だ。皮革メーカーから転職して極貧生活にあえいでいた人は「革 しかなかったんです」と革職人として独立する。博報堂を辞め、建築家になった人はある日、「ここ(会社)にいたら、おれの人生って決まっちゃってるんだ」 と思う。彼らは会社を辞める時、これをやりたいというものを持っていたわけではない。しかし、彼らはよく動く。動きから「出会い」が生まれ、師匠と仰ぐ人 が現れ、現在につながっていく。とにかく動かないとだめなんだ。

 私も銀行を辞め、作家になった。彼らのことは理解できる。本書は、会社や就活で悩む人たちに力を与えてくれるだろう。

    ◇

 もり・けん 68年生まれ。フリーライター。『人体改造の世紀』など。

表紙画像

勤めないという生き方

著者:森 健

出版社:メディアファクトリー   価格:¥ 1,365

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