2010年12月15日
『共視論 — 母子像の心理学』北山修編(講談社)
「重なる視線が意味するもの」
いきなり「共視論」などと言われても何のことか想像がつかない。まるで�一見さんお断り�みたいなタイトルである。しかし、このテーマ、かなりの注目株 ではないかと筆者は思っている。その可能性と広がりはなかなかのものだ。この論集では執筆者の中心は精神医学や心理学の専門家だが、今後もっと広い領域に 影響を及ぼしてもおかしくないと思う。そもそも「共視」とは何か。発達心理学にはjoint attention(直訳すると「共同注視」とか「共同注意」)という概念がある。ふたりがともにひとつの対象に目をやる行為のことである。このような行 為をわざわざ概念化するのは、このジョイント・アテンションの発生が幼児の発達の中ではとても意義深いことと考えられているからである。誰かとともにひと つの対象をながめるようになることは、幼児の心において�画期�を成す。それは幼児が他者の意図や心的状態を読み取り始めた証拠だからである。
この論集の編者・北山修は、このジョイント・アテンションという先行概念をもとに「共視」という語を造った。わざわざ新しい言葉をあてたのは、よ り広い文化学のコンテクストに打って出るためである。きっかけとなったのは浮世絵だった。北山は膨大な浮世絵のコレクションを調査してきたが、その中から 母子像だけを取り出して分類すると、ある構図が繰り返し現れることに気づく。母と子がともにひとつの対象を眺めるという図が非常に多いのである。たとえば 母とその胸に抱かれた幼児とが、かざした傘に向けて視線をやる歌麿の「風流七小町 雨乞」のように。そこで北山は考えた。こうして子供が母の視線を追いな がら母と対象を共有し、その中から言語を習得したり、思考のパタンを学んだりする、そのプロセスが浮世絵には雄弁に表現されているのではないか、と。(第 1章 北山修「共視母子像からの問いかけ」)
しかし、このような着眼はきっかけにすぎない。「母子関係が媒介物を橋渡しにして開かれていく」という認識を出発点においてみると、「共に眺め る」という行為が情緒的・身体的な交流でも非常に重要な意味を持っていることに考えが及ぶ。たとえば「面白い」という感覚。一説には、この語は火を囲みな がらひとつの話題に引きこまれている人々の顔が、白く映えることに由来するのだという。interestingという感覚の基底には「共に眺める」という 身振りがあるということである。(20)
出発点が浮世絵ということにも表れているように、本書は、文化現象や症例を具体的な図版やイメージと結びつけて語る点に特徴がある。とりあげられ る材料としては浮世絵、とくに母子像が多いのだが、ほかにも印象的だったものとして、やまだようこによる小津安二郎の『東京物語』の分析があった(第三章 「共に見ること語ること — 並ぶ関係と三項関係」)。映画では、尾道から東京に出てきた老夫婦が、子供たちに歓待されるどころかむしろ厄介者扱いされ、 体よく熱海の旅館に追い払われるという筋書きになっている。老夫婦はその宿屋でも騒音のために寝つけず、浴衣のまま海外に出て行って海を前にならんで腰を おろす。有名な場面である。
とみ 京子ァどうしとるでしょうなァ……?
周吉 ウーム……。そろそろ帰ろうか。
とみ お父さん、もう帰りたいんじゃないですか?
周吉 いやァ、お前じゃよ。お前が帰りたいんじゃろ。
周吉 東京も見たし、熱海も見たし——。
周吉 もう帰るか。
とみ そうですなァ。帰りますか。(85)
ふたりが並んで堤防にすわって海をながめている。まさに「共視」の場面だ。だから、その�視線�にもいろいろな意味が読み込めるのだが、やまだはこ こでの�言葉�にも注目する。この会話、まるで二人が輪唱しているようではないか、と言うのである。「かさね」の語りになっているのだ。
「そろそろ帰ろうか」「もう帰りたいんじゃないですか?」「お前が帰りたいんじゃろ」「もう帰るか」「帰りますか」というよう に、「カエル」「カエル」「カエル」「カエル」「カエル」 が、微妙にズレを含んでくりかえされる「カエル・コール」が交わされているのである。どちらがこのことばを発してもいいほど、自己と他者のことばが、共鳴 的にうたうようにリフレインされ、ひびきあっている。(86)
このような考察は、一般のテクスト分析を行う者にも大きな示唆を与えてくれると思う。
私はこのような「かさねの語り」を、主体と客体が対面的に対峙してやりとりする「対話的語り」と区別して、「共存的語り」と名づ けた。対話的語りは、バフチンが理論化したように、自己の声と他者の声は対峙して闘い、「とるか、とられるか」という闘争のアリーナでおこなわれる。共存 的語りでは、二人の主体が並ぶ関係に立ち、自己と他者の声は相互主体的で共鳴的に重ねられ、ズレのあるくりかえしをおこなうことで会話が推移してい く。(86)
やまだのいう「共存的」な語りのことさらな出現は、たとえば『東京物語』のような作品の何とも言えない�変な感じ�のおもしろさを説明してくれるだ ろう。とともに、このような共存的な語りがもっと目立たない形で広く一般の語りの中でもこっそり機能しているのではないかと仮定してみたくもなる。筆者の 友人は電車の中での30代女性の「そうそう合戦」に注目し、「あの人たちは、一方で�そうそう�と相手の話に勢いよく相づちを打っているようでいながら、 実は一切相手の話を聞かずに自分の話だけしているようなのだ!」と感動していたが、こんなところにも「共存的語り」の一変形が見られるかもしれない。
この本の構成は実にヴァラエティに富んでいる。すでにとりあげたもの以外にも、以下のような切り口がある——江戸の劇場文化(田中優子)、発達心 理学(遠藤利彦)、知覚心理学(三浦佳世)、社会心理学(山口裕幸)、精神病理(黒木俊秀)、育児文化(中村俊哉)。こうして異なるアプローチをならべる ことで、「共視」という話題に無理に枠をはめるより柔軟な広がりを持たせることを狙ったのだろう。それが成功していると思う。
ここまででとりあげきれなかった章にも、「共視」にかかわりそうな、しかし、同時に別の関連領域にも踏みこんでいるような興味深い指摘がたくさん あった。たとえば脳にある種の欠損を負った患者の話(第七章 遠藤利彦「まなざしの精神病理」)。この患者はなぜか他者の感情のうち、�恐怖�だけが読み 取れなくなった。その原因をさぐっていくと、どうやら相手の�まなざし�のとらえ方が関係していたという。この患者は、他者の視線に注意を向けることが出 来なくなっていたのである。これは「まなざしにかかわる精神病理学的な現象が、ほとんどの場合、他者との関係性における不安や恐怖を反映してい る」(185)という指摘と合わせて考えてみると、なかなか意味深い事例である。浮世絵母子像の「共視」なら、焦点のあたるのは慈愛とか保護といったテー マだが、視線は恐ろしいものともなりうる。「正視恐怖」という症例があることからもわかるように、こちらを脅かすものとしても視線は機能するのだ。そのよ うな機能が「共視」と表裏になる形で働いているのだとすると、いろいろ考えてみたくなることが出てきそうだ。…と、こんなふうに�ゲームの場所�を広げる 窓口として、「共視」のこれからには大いに期待できそうな気がする。
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