2010年12月5日日曜日

kinokuniya shohyo 書評

2010年11月30日

『プラトン序説』 ハヴロック (新書館)

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 オングの『声の文化と文字の文化』でたびたび引用され、考察の重要な柱になっていた本だが、驚くべきことが書いてある。プラトンの時代はギリシアが口誦文化と文字文化が激突した知的革命の最終段階にあたり、プラトンは新興の文字文化の側に立って旧来の口誦文化と戦ったというのだ。

 デリダの『グラマトロジー』以来、プラトンは音声中心主義と文字抑圧の元凶とされてきたが、そのプラトンが文字陣営の立役者だったというのである。

 プラトンが文字を告発したのは『パイドロス』と『第七書簡』においてだが、ハヴロックが注目するのは『国家』のプラトンである。プラトンは哲学者 が支配する理想国を描きだすが、詩人をその理想国から締めだした。詩人追放は他愛のない枝葉と見る人もいるが、ハヴロックは『国家』は政治批判ではなく教 育制度批判の書であり、詩人と哲学者はパイデイア(教育・教養)の主導権をめぐって対立していたとする。

 ハヴロックは『イリアス』に代表される叙事詩が単なる気晴らしではなく、若者にギリシアの歴史や地理、諸王家の系譜、しきたり、処世術、航海術等 々の知識を伝えるメディアの役割を果たしていたことを論証していく。叙事詩は教科書であり百科事典、民族の知恵の宝庫だったのだ。

 ギリシア人は紀元前18世紀から紀元前12世紀まで独自の音節文字をもっていたが、蛮族侵入によってミケーネ文明が崩壊するとともに文字の知識を失ってしまう。ギリシア史の暗黒時代、文化の継承は韻律と決まり文句によって堅牢となった口誦詩に頼るしかなかった。

 紀元前9世紀頃、ギリシア人はフェニキア人から単子音文字を学び、母音字をつけくわえてアルファベットを作りだすが、アルファベットが社会に根づ くには300年から400年を要した。読み書き能力がようやく一般化したのはペロポネソス戦争末期のことである。プラトンが活躍したのはその一世代後であ り、詩人が主導した口誦文化が文字文化に最終的に交代する時期にあたっていた。

 文字文化の浸透はギリシア人の意識のあり方も変えていく。ソクラテスの問答法は口頭でおこなわれたが、ハヴロックによれば文字による意識の覚醒をうながした。

 紀元前五世紀後半のある知識人グループ全体にこのようなかたちで採用されたと推定される対話法とは、意識をその夢の言語から目覚めさせ、抽象的な 思考へと意識を鼓舞するための武器だったのである。こうして、「私がアキレウスと一体化する」という考え方よりも、むしろ「私がアキレウスについて考え る」という考え方が生まれてきた。

ソクラテス的精神状態がホメロス的精神状態にとってかわったのである。

 この時重要な役割をはたしたのが「プシュケー」という言葉だった。もともと「空気」をあらわした「プシュケー」という語はソクラテスからプラトン にいたる時期に「魂」をあらわすように変化したことが知られているが(アリストパネスは『雲』や『鳥』で「プシュケー」の新しい意味をからかっている)、 ハヴロックは「プシュケー」の語義の変化の背景には文字による意識の変容があったとしている。

 ソクラテスの精力の大部分はおそらく、すべての経験をイメージ連鎖で表現してきた詩的な基盤からいまやみずからを批判的に切離しつつあった思考す る主観(プシュケー)を定義することに費やされた。そして、思考する主観はこのようにみずからを切離すにつれて、みずからの経験の新しい内容を形成する思 想ないし抽象物について思考するようになる。ソクラテスにとってこれらの概念がイデアになったという当時の証拠は見当らない。これはプラトンがつけ加えた ことだとみなすほうが安全であろう。

 ハヴロックはそこまで書いていないが、『パイドロス』で文字批判の根拠とされた「プシュケー」は文字の産物ということになるのだろうか。デリダの音声中心主義批判とはなんだったのか。もう一度『パイドロス』を読み直した方がよさそうだ。

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