2011年11月18日金曜日

kinokuniya shohyo 書評

2011年11月18日

『暇と退屈の倫理学』國分功一郎(朝日出版社)

暇と退屈の倫理学 →bookwebで購入

「退屈について教えてあげよう」

 「退屈」はきわめて深遠なテーマである。パスカル、ニーチェ、ショーペンハウエル、キルケゴール、ハイデガー……近代ヨーロッパのおなじみの思想家たちはいずれも「退屈」に深い関心をよせ、あれこれと考察を展開してきた。

 なぜ、こんな地味なテーマに?と思うかもしれないが、「退屈」を遡ると「アンニュイ」や「メランコリー」、「不安」といった同系列の概念を経由し て、近代個人主義の根幹にある「私の気分」というたいへんややこしい問題に行きつく。「近代とは何だったのか?」という、これまでさまざまな学問領域で繰 り返し立てられてきた問いにきちんと答えるためには、「退屈」の問題を避けて通ることはできないのである。

 日本でも山崎正和『不機嫌の時代』など、「退屈」の周辺を扱う優れた考察がなかったわけではないが、正面切ってこの問題を扱うのものはそれほど多 くなかった。「白けの時代」はあっても(1970年代は「白け世代の時代」と呼ばれたのです)、退屈の研究者がこぞって退屈をめぐって口角泡を飛ばし侃々 諤々するというような、「退屈の花盛り」とでも称すべき時代はいままで訪れたことはなかったし、これからも到来することはないだろう。

 その理由ははっきりしている。「退屈」という語をタイトルに冠した途端、博士論文であろうと、単行本であろうと、シンポジウムであろうと、非常に 魅力のないいかにもくすんだ、文字通り退屈な所業に見えてしまうのである。これほど輝きのないテーマはない。たとえば以下のようなタイトルが書店にならん でいる様を想像して欲しい。

『文化と退屈』
『お一人様の退屈』
『退屈の水脈』
『退屈が滅びるとき』
『羊をめぐる退屈』
『燃えよ退屈』

 どの本もいかにもつまらなそうで、とても手に取る気がしないのは明らかである。

 しかし、このような思考実験が示すのはなかなか興味深い事実でもある。退屈とは、潜在的にはたいへん魅力的なテーマなのに、なかなかそこに人の注 意を向けるのが難しい事象なのである。とりわけ日本語の「退屈」や英語のboredomという言葉は、フランス語のアンニュイ(ennui)が何となく カッコイイのに比較して、とるに足らない心理として疎まれ、蔑まれ、また無視されてきた。だが、このような扱いづらさそのものが、ひょっとすると「退屈」 の本質なのかもしれない。つまり、ちょうどウンチやおしっこについてと同じように「大人というものは、退屈についてやたらと語っちゃあいけませんよ」とで もいうタブーが形成されてきたのではないかという気がするのである。

 そんな状況にあって、國分浩一郎の『暇と退屈の倫理学』はたいへん果敢な試みである。タイトルにも堂々と「退屈」という言葉を冠し(さすがに『退 屈の倫理学』は避けたようだが)、内容的にもこれ以上ないほど正面から退屈というテーマに切りこんでいる。そして、何より重要なのは、これが明らかに啓蒙 書として書かれているということである。そこがまさにこの本の新しさではないかと思う。

 すでに近代の哲学者たちは頻繁に退屈について論じてきたが、それらの多くは思弁や分析の形をとってきた。つまり、独り言すれすれの、それこそ�つ ぶやき�のようなスタイルで静かに語られるのが退屈だったのである。本書の中心部はハイデガーの退屈論の紹介に費やされているのだが、國分の解説を通して 浮かび上がるハイデガーは、大きな声で聴衆に呼びかける演説者であるよりも、辛抱強く、孤独に、自分の心理の襞をめくりつづけようとする思索者なのであ る。

 これはある意味では仕方のないことだ。退屈という心理は、愛や喜びや怒りとはちがって、対象に向かうわかりやすいベクトルが見えるものではない。 むしろそれは心に生ずる凹みやくぼみなのであり、欠乏や不在や不可視としてしか語られえない。だから、ハイデガーの得意とするいわば「一時停止」の心理学 を用いて、シーンと静まりかえった書斎で、まるで顕微鏡によって心の動きを検分するような精緻さとともに語られるのに適してはいても、威勢のいい大きな声 でわかりやすく話題にするのは難しい。

 しかし、著者の國分はそのようなブルジョア的な思弁性で「退屈」を語ることを拒絶したのである。退屈論者にしばしばつきまとうエリート意識と縁を切り、「俺」を主語にしたべらんめえ調のダイナミックな文体で退屈に切りこむ。

俺はこの本を書きながら、これまで出会ってきた、いや、すれ違ってきた多くの人たちのことを思い起こしていた。俺が彼らのことをこんなにも鮮明に記憶しているのは、間違いなく、自分は彼らにどこか似ていると思ったからだ。(12)
 この一節に明確にあらわれているのは、國分が「私の退屈」を語ることに終始しまいとしていることだ。俎上に載せられるのは、「みんなの退屈」なのである。「みんな〜したらどうだ?」というメッセージとともに、�実践�が目指されている。

 國分の議論のひとつの出発点となるのは、第二章で紹介される「定住革命」である。人間は元々定住志向ではない、絶えざる「遊動」にこそ向いてい る、という西田正規の説によりながら、定住せざるを得なくなることで人類は退屈を抱え込んだのだと國分は言う。そこには無理がある、と。この無理を打開す るために、今のゆがんだ消費文化が形成されたのだということで、話は経済の話に進んでいく。

 啓蒙を意識しているだけあって、議論は明晰である。「俺」を主語にした突っ張った冒頭部を引き継ぐようにして、本論でも明快な断言が力強く牽引 し、有名哲学者、有名経済学者に対してもべらんめえ調の批判が投げかけられる。読者の中には、そうしたパフォーマンスめいた演出に反感を覚える人もいるか もしれないが——そして、たしかにやや性急と見える断言がないでもないかもしれないが——「退屈語り」というきわめてブルジョア的な圏域を、やや強引なま での手法で開かれたものにし、この地味でくすんだテーマを、街行く大学生が気軽に話題にしうるようなものとして引き立てようとするその心意気には喝采を送 りたい。哲学入門として読めるところもいい。

 本書の芯をなすハイデガーの退屈論についての考察の中に、環世界という概念が出てくる。動物にはそれぞれ固有の知覚の方法があって、その動物固有 の空間や時間をつくっているという考え方である。動物は自分をとりまくこの環世界に完全にとらわれている。しかし、人間はちがう。なぜなら、人間はひとつ の環世界から別の環世界に移ることができるから。これは別の言い方をすると、人間がどの環世界にも属さずにいられるということである。この無所属の実感 が、退屈のひとつの起源をなす。と同時に無所属となることが可能だからこそ、人間は考えることができる。哲学することができる。退屈とは、哲学するという 行為のきわめて本質的な部分に食いこんだ何かなのだ。

 本書は啓蒙書として、またメッセージの書として書かれているだけに、かなり明確な結論を用意している。浪費せよ、消費するな、というのだ。それだ け聞くと「???」なテーゼかもしれないが、通して読むとストレートすぎるほどストレートな議論であることが見えてくる。ただ、本書は結論を求めて読むた ぐいの本ではない。おそらく結論を期待して読む人はむしろ期待はずれに終わると思う。大事なのは、こんなに大きな声で「退屈」が語られたということなので ある。実践の書という体裁をとっているとはいえ、3月以来、「それどころじゃない」という雰囲気が支配してきた世の中に、およそ浮世離れした(と見えるが 実はそうでもない)この退屈というテーマをぶつけてきたところを買いたいと思うのである。


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2011年11月17日木曜日

kinokuniya shohyo 書評

2011年11月16日

『文化・メディアが生み出す排除と解放』荻野昌弘編(明石書店)

文化・メディアが生み出す排除と解放 →bookwebで購入

「文化の両義性をかすりとる」


 文化やメディアの排除性を否定的にとらえた書物は数多くある。だが本書の特徴は、文化やメディアの解放的な側面も含めた両義性に注目し、それを丹念にか すりとろうとしている点にある。編者は述べる。「安易に『良い文化』と『悪い文化』に文化を色分けし、良い文化だけを増やせばいいというわけではない。単 純に排除する文化を『排除』して、そうでないものにすればいいというわけではない」。排除する営み自体を考察の対象にし、編者が「ユートピア」と呼ぶ、差 別を超えたさらなる次元を探ろうとするのだ。そのような視点は、(濃淡はあるにせよ)全章にわたって意識されている。

 第1章「食とマイノリティ」(角岡伸彦)は食と差別をテーマとする。何を好んで食べるか、何を絶対に食べないかによって仲間意識がつくられたり、あるい は敵がつくられたりするという。大阪市内の沖縄出身者、在日朝鮮人、被差別部落の住民が多い街での聞き取りからは、食文化にまつわる差別や葛藤が描き出さ れる。そのなかで、稀有な例だとしても、ホルモン料理を通じたあるカップルの相互理解のエピソードは、上記の解放の契機と言えるのかもしれない。
 第2章「蘇り、妖怪化する歌、『お富さん』をめぐって」(本山謙二)は「歌謡曲は時代を食って色づき、育つ。時代を腹に入れて巨大化し、妖怪化する」と いう阿久悠の言葉から始まる。春日八郎による『お富さん』(1954)は長い間、宴会やカラオケで歌われた曲で、青江三奈(1970)や都はるみ (1971)がカバーし、近年にはソウル・フラワー・ユニオンの中川敬(2006)も別ユニットでカバーしている。本山によれば『お富さん』は「ゾンビの ような歌」であり、その傍らには常に「弱い者」たちが存在したのだという。『お富さん』から見られる排除と解放とは一体何か。本山は歌舞伎にルーツを持つ その歌詞、沖縄民謡を基調としたそのサウンド、蘇って歌われる「現場」の記述などからそこに迫ろうとする。
 第3章「スポーツと差別」(水野英莉)は、2009年のベルリン世界陸上選手権女子800mで金メダルを獲得したキャスター・セメンヤ選手を例に、ス ポーツにおけるインターセックス(両性具有)の排除が指摘される。水野は「ドーピングを禁止して『自然な身体』を保つことを要求するIAAF(筆者注、国 際陸上連盟)やIOCが、なぜインターセックスに対しては外科的な手術による『自然な身体』の人工的な加工を求めるのか」と疑問を投げかける。平等を掲げ てきた近代スポーツがその追求において、逆に新たな排除を生み出したという事例といえよう。
 第4章「差別・排除を助長する/回避するインターネット」(前田至剛)はネットの匿名性をテーマにしている。前田は負の側面が取り上げられることが多い ネットであるがゆえに、その両義性に重点を置こうとする。精神疾患をもつ人たちが集うウェブサイトの分析やそこで知り合った人たちへの聞き取りからは、彼 らが対面的な状況で「健常者」のまなざしを内面化することで症状を悪化させていることが指摘される。前田は、ネットが差別や排除を助長している現状にも目 配りしたうえで、匿名的なネットから生まれる自助活動やそれらを通じた繋がりを描き出している。
 第5章「障害者表象をめぐり"新たな自然さ"を獲得するために」(好井裕明)は、メディアのなかでの障害者の描かれ方をテーマにする。好井の議論は、メ ディアでの障害者の表象がどう変わったか、それが良いか悪いかというものではない。そこで注目するのが「フィクション/ファンタジーとしての障害者表象」 である。好井によれば、これらは安定した解釈枠組みに収めた「健全な」障害者表象に対して、「私たちの『あたりまえ』に亀裂をいれ、最終的にそれを壊し て、新たな『あたりまえ』をつくりかえていくという意味での『不安』『不安定』」なのである。いくつもの映画やドラマでの描き方を検討したうえで、「不 安」「不安定」からつくりだされる思いや感動、それを通じた新たな文化を構想する。
 第6章「<マンガと差別>を考えるために」(山中千恵)も、好井同様、単にマンガで描かれる差別表象を問題にするものではない。山中は次のような問いか ら出発する。�なにを指してマンガというのか。�マンガの登場人物の図像はなにを反映しているのか。�マンガ読者はいかにしてマンガの世界に入り込むの か。�そもそも、マンガは本当にわかりやすいのか。2010年の東京都青少年育成条例改正をめぐってマンガが議論の中心になったことも示しているように、 マンガはほかのメディアと比べても社会的な感情の沸騰を引き起こすことが多い。しかしながら、そこでマンガの何が論じられたのだろうかという疑問が生じ る。個々の表象ではなく、マンガのメディア性や商品としての側面に関心を向ける山中の視点はこのようなことをとらえていくための土台となるものだろう。

 本書は、どうしても差別を固定した理解の範囲でとらえたい人にとっては、向き合いたくないものかもしれない。だがその両義性、好井の言葉でいえば「不安 定さ」から差別や排除を考え直したい人にとっては好書であるし、それ以上に、固定的な理解自体がまだ形成されていない若い人たちにこそ手に取ってもらいた い一冊だ。

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2011年11月15日火曜日

asahi shohyo 書評

石ころをダイヤに変える「キュレーション」の力 [著]勝見明

[掲載]2011年11月13日   [ジャンル]経済 社会 

表紙画像 著者:勝見明  出版社:潮出版社 価格:¥ 1,365

 「キュレーション」は美術館や博物館で企画や展示を担当する専門職の「キュレーター」に由来する言葉。著者は、モノや情報が飽和状態になっている ビジネスの世界でも、キュレーターのように(1)既存の意味を問い直して再定義し(2)要素を選択して絞り込み、結びつけて編集し(3)新しい意味、文 脈、価値を生成する——ことが求められていると説く。
 実例として、米アップルやセブン−イレブンの戦略、ノンアルコールビール「キリンフリー」などの成功を挙げる。キュレーションは単なるモノづくりでなく、作り手と消費者が双方向で新たな価値を「共創」する「コトづくり」であるとの視点に今日性を感じる。
    ◇
 潮出版社・1365円

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asahi shohyo 書評

対談集 なにものかへのレクイエム——二〇世紀を思考する [著]森村泰昌

[掲載]2011年11月13日   [ジャンル]文芸 人文 

表紙画像 著者:森村泰昌  出版社:岩波書店 価格:¥ 1,890

 古今東西の有名絵画の登場人物や映画女優に扮する作品で知られる著者。今回は、レーニン、ゲバラ、毛沢東から三島由紀夫といった、主に20世紀に内外を揺るがせた有名人に扮した表題の個展が全国を巡回したのを機に、多彩な分野の人々と交わした対談を集めたものだ。
  新右翼団体の鈴木邦男、作家の平野啓一郎、社会学者の上野千鶴子、政治学者の藤原帰一……。このバラエティーが面白く、また、テーマも芸術論から20世紀 論まで、縦横無尽。それにしても、三島の自刃が与えた衝撃の大きさに改めて気づく。東日本大震災後に行われた作家、高橋源一郎との対話では、この国の行く 末について考えさせられること多々。
    ◇
 岩波書店・1890円

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著者:森村泰昌  出版社:岩波書店 価格:¥1,890

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asahi shohyo 書評

科学ジャーナリズムの先駆者 評伝 石原純 [著]西尾成子

[評者]辻篤子(本社論説委員)  [掲載]2011年11月13日   [ジャンル]科学・生物 ノンフィクション・評伝 

表紙画像 著者:西尾成子  出版社:岩波書店 価格:¥ 3,570

■物理学のあり方論じた真の学者

 「石原純」という名前は、多くの人にまずなじみがないことだろう。とすると、「科学ジャーナリズムの先駆者」という表題だけでは、やや誤解を招くかもしれない。
 著者が冒頭で記しているように、何より、第一級の理論物理学者であるからだ。20世紀初め、物理学に革命をもたらした相対論や量子論について、日本で最初の論文を発表し、議論をリードした。
 歌人でもあり、岩波書店の月刊誌「科学」が1931年に創刊された時の初代編集主任も務めた。物理学や科学に関する数多くの著作は、湯川秀樹、朝永振一郎といった、後のノーベル賞受賞者たちが物理学の道に進むきっかけともなった。
 その初の評伝である。
 これだけの科学者の名があまり知られていないとは。不思議ですらある。
 妻子ある身での恋愛がスキャンダルになり、42歳で東北帝大教授を退職したこともあるのだろうか。以来、研究からは身を引き、科学を論じ、伝える側に回った。
 「科学」11月号の対談で、江沢洋・学習院大名誉教授は「石原のような生き方をした人を物理学者と認めないのは日本の物理学の大変な不幸だと思う」と語っている。伝えることは本来、学者そのものの責任であり、物理学がいかにあるべきかを論じる人も物理学者だ、とする。
 石原の一貫する主張は、社会の健全な発展のためには自由な科学研究が不可欠だ、というものだ。真の科学振興は、合理的かつ独創的な思考を育むことだとして、科学教育の重要性を訴え、戦時中の政策を批判した。
 終戦後の9月、ただちに復刊した「科学」の巻頭言は「科学と自由」、続く10月号は「気宇を広大に」である。その後まもなく、交通事故がもとで帰らぬ人となる。
 その生涯と主張は、今日の科学と科学者のあり方にも、大きな示唆を与えてくれる。
    ◇
 岩波書店・3570円/にしお・しげこ 35年生まれ。日本大学名誉教授。『こうして始まった20世紀の物理学』。

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著者:西尾成子  出版社:岩波書店 価格:¥3,570

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こうして始まった20世紀の物理学

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著者:西尾成子  出版社:裳華房 価格:¥1,470

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2011年11月13日日曜日

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絶望の国の幸福な若者たち [著]古市憲寿

[評者]中島岳志(北海道大学准教授)  [掲載]2011年10月30日   [ジャンル]社会 

■不安で幸せ?論争的な若者論

  現代日本の若者は不幸だといわれる。格差は拡大し、経済成長も難しい。しかし、社会調査では意外な結果が出る。20代の実に7割が、現在の生活に満足して いると答える。今の若者たちは、自分たちの生活を「幸せ」と感じているようなのだ。著者は、この奇妙な幸福感の源泉を探り、現代社会のあり方を模索する。
 若者は本当に「幸せ」なのか。別の調査では、「不安がある」と答える若者の割合も増加している。若者の傾向は、「幸せ」と同時に「不安」を抱えているというアンビバレントなものなのだ。
 では、なぜそのような事態が生じるのか。それは「将来の希望」が失われているからである。もうこれ以上、幸せになるとは思えないため、若者たちは「今、幸せだ」と答えるしかない。今よりも幸せな未来を想像できないからこそ、現在の幸福感と不安が両立するのだ。
  若者は「自己充足的」で「今、ここ」の身近な幸せを重視しているという。親しい仲間たちと「小さな世界」で日常を送る日々に幸福を感じているようだ。ま た、一方で社会貢献をしたい若者も増加している。最新の調査では20代の若者の約60%が社会のために役立ちたいと考えている。
 ここでキーワー ドとなるのが「ムラムラする若者」だ。仲間といっしょに「村々する日常」とそれを突破する「ムラムラする非日常」を同時に求める心性が、多くの若者に共有 されているという。しかし、非日常はすぐに日常化する。そこが居場所となれば、急速に社会性は氷解する。
 著者は、それでいいじゃないかという。複数の所属をもち、参入・離脱の自由度が高い承認のコミュニティーがあれば、十分生きていけるじゃないかという。
 しかし、現実には仲間がいるのに孤独や不全感を抱える若者も多い。賛否が分かれるであろう論争的な一冊だ。
    ◇
 講談社・1890円/ふるいち・のりとし 85年生まれ。慶応大学訪問研究員(上席)。『希望難民ご一行様』。

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著者:古市憲寿  出版社:講談社 価格:¥1,890

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希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想

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著者:古市憲寿、本田由紀  出版社:光文社 価格:¥903

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三浦哲郎、内なる楕円 [著]深谷考

[掲載]2011年10月30日   [ジャンル]文芸 ノンフィクション・評伝 

  昨年亡くなった私(わたくし)小説作家に関する評論集。書名は、東京で生きる東北人の孤独を描いた短編「楕円(だえん)形の故郷」にちなむ。三浦は東京で 暮らしながら、故郷の東北・南部地方に絶えず目を向け、北の人たちの悲しみをみつめた。東北と東京という二つの定点をもつ楕円形が三浦の文学世界、と著者 は考える。
 逆接の接続詞への言及も興味深い。「忍ぶ川」などごく初期の作品を除けば、三浦は強い拒絶を示す「しかし」を使わず、やわらかな「け れども」を使った。転換したのは、きょうだいを自死や失踪で失った三浦が滅びの血を受け入れ、正面から向きあう決意を固めた時期。人間味に満ちた文体の原 点がここにある。
    ◇
 青弓社・2730円

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ラシーヌ論 [著]ロラン・バルト

[評者]中条省平(学習院大学教授)  [掲載]2006年12月03日   [ジャンル]文芸 アート・ファッション・芸能 

■「恋愛悲劇の作者」像を覆す伝説の書

 30年も前からみすず書房の近刊予告に載っていた伝説の書物がついに姿を現した。これだけで「事件」である。
  その上、本書はバルトの本のなかでも〈ヌーヴェル・クリティック(新批評)〉の理念を具体化し、従来の実証主義的文学研究者の激怒を呼んだ記念碑的な著作 だ。実際、パリ大学教授・ピカールは「新批評あるいは新たないかさま」という本を書いて、バルトを攻撃し、文学史に残る論争に発展したのだった。
 だが、そうした歴史的な事情から遠ざかったいま、虚心にこの書物に接する読者を打つのは、バルトの読解のこの上ない鮮烈さだろう。
 フランス古典主義を代表する大詩人ラシーヌ。優雅をきわめる恋愛悲劇の作者というイメージは一挙に覆される。
 「悲劇の偉大な場所は、海と砂漠のあいだの、絶対的な影と太陽に追いつめられた不毛の土地である」
  冒頭の一文に代表される直感的な世界把握の鋭さ。そして触覚的ともいえる感性の冴(さ)え。一方には、夜と影、灰燼(かいじん)、涙と眠りと沈黙の断絶な き現前があり、もう一方では、武器、松明(たいまつ)、叫び声、きらめく衣装、生贄(いけにえ)を焼く祭壇、金と炎とが際立つ。そんな明暗法の世界として ラシーヌを再構成するあざやかな読解に、私たちは息をのむしかない。
 しかし同時に、バルトは恐るべき荒々しさで、ラシーヌの世界を、エロスと暴力、血と罪、挫折と死が渦まく原始遊牧民的な欲望の世界としても図式化してみせる。
  その繊細さと暴力性のコントラストに、哲学、言語学、精神分析の薬味を絶妙の匙(さじ)加減でふりかけるバルト節、こんな文章のアクロバット芸は誰にもま ねできない。どんなに難解な概念を操っても、どれほど荒唐無稽(こうとうむけい)に論理を飛躍させても、バルトの書くものには、つねに名人芸の色と艶(つ や)があって、読む者を楽しませ、酔わせてくれるのだ。
 解題と訳注の密度と量にも驚嘆する。特に、100ページに及ぶ卓越した解題は、フランス演劇に精通する訳者ならではの、ラシーヌを通して現代演劇の最前線を照らしだす試みにもなっているのである。
 評・中条省平(学習院大学教授)
   *
 渡辺守章訳、みすず書房・5670円/Roland Barthes 1915〜80年。フランスの批評家・思想家。

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著者:ロラン・バルト、渡辺守章  出版社:みすず書房 価格:¥5,670

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ギリシアの神々とコピーライト [著]ソーントン不破直子

[評者]巽孝之(慶應大学教授)  [掲載]2007年12月09日   [ジャンル]人文 

■歴史の中でたどる「作者とは」

  19世紀後半、ニーチェは「神の死」を提唱し、20世紀後半、フーコーは「人間の死」を、バルトは「作者の死」を宣告した。彼らの批判的思考の道筋は、西 欧文明がいかに長いこと、「神」の権威をモデルに「人間」の権利や「作者」の著作権を保証してきたかを認識させてやまない。
 本書がユニークなの は、あらためて「作者という神話」を批判せずとも、古くはギリシャ古典や旧約・新約聖書の時代より、作家とはあくまで神の代理にすぎず、作家が「霊感」を 受けたと主張すればするほど、それは個人の独創性ならぬ詩神の権威のほうを裏書きしたのだ、という前提から始めていることである。ルネサンスの人間主義や 近代以降のロマン主義を経てようやく、作家の作品を人間の側の私有財産、作家を神に成り代わるべき存在と見直す視点が生まれたのだという。
 だが 20世紀のモダニズム以後、そのように強大化した作者を警戒する意識が生まれ、21世紀の今日ではデジタル共産主義の台頭により、著作権は再びゆらいでい る。かつての霊媒は、いまや亡霊と化した。2500年にわたる文学史の根幹を問い直す本書は、現代批評理論の入門書としても、広くお薦めできる。
 巽孝之(慶応大教授)
   *
 学芸書林・2940円

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著者:ソーントン不破直子  出版社:學藝書林 価格:¥2,940

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