2013年8月28日水曜日

asahi shohyo 書評

折口信夫の青春 [著]富岡多惠子・安藤礼二

[評者]赤坂真理(作家)  [掲載]2013年08月25日   [ジャンル]ノンフィクション・評伝 

表紙画像 著者:富岡多惠子、安藤礼二  出版社:ぷねうま舎 価格:¥ 2,835

■対談で描き得た人物像の新地平

 折口信夫は、長らく私の気になる人だった。今や私のアイドル と言っていいが、彼自身の著書は、ぐっとくると直観はしても、とっつきにくい。しかし、折口に共振した人が紡ぐ言葉には、読んで心をわしづかみにされるも のがあり、私が折口に近づいたのも、本書の対談者、安藤礼二や富岡多惠子の著作を通してだった。
 折口信夫には、謎が多い。柳田國男の弟子という のが広く知られた顔だ。しかし、柳田に出逢(であ)う前に、折口の世界はすでに豊穣(ほうじょう)だったのであり、言語学、宗教学、のみならず短歌、小説 など、これだけ多くの領域で一流の著作をなした人は、そうはいない。本書では、主に柳田以前、折口という「人」が形成される幼年期から青春期を、著作等を 手がかりに追っている。
 折口は同性愛者だった。その点も、二人は追う。暴露趣味ではなく、ごく自然に、人と人が出会い惹(ひ)かれ合い別れた記録として。すべての人間関係は恋愛に似る。そしておよそ「個」などというきらめきは、他者との圧倒的なかかわりの中からしか出てこない。
  私が、他の折口論にいまひとつ興味を持てなかったのは、ほとんどの論者が、折口のセクシュアリティを、あたかもないかのように扱い、結果、どこかが薄かっ たからだ。富岡や安藤は、それほどに大きなファクターが、人生と表現に影響を与えないほうがおかしいと考える。折口は、同性愛者であることを隠さず、要職 に就き、愛する者たちと共同生活を営み、磁力を放つ著作をなし続けた。家父長制の強かった時代において、想像を絶する勇気である。無視するほうが失礼では ないか。
 驚くべきことに、この種の人材は、今日の日本社会においてさえほとんどお目にかかれない。異性装タレントには驚くほど寛容な一方、喧伝 (けんでん)される幸せのかたちは、「男女が結婚して子供をつくり育てる家庭」ばかりであり、それ以外の物語はほとんど話題にもされない。それは多数派だ ろうが、そのかたちばかりが強調されて多様性がなく息苦しさを覚えることも、少子化の大きな原因ではないだろうか?
 読めば読むほど引き込まれる 本である。謎がさらに大きな謎を呼ぶミステリーのようであるし、明治から昭和という激動の時代と一人の人間のドキュメンタリーとしても、人間の孤独や愛を 普遍的に描いた文学作品としても読める。資質も性別も世代もちがう二人の論者が、補完しあうようにピースをはめ、そうでなければ完成しない像があったと思 わされる。
 閉塞(へいそく)感や疎外感に苦しむ、すべての人に。私は、折口信夫がこの国に生きていたという事実、それだけで、励まされる。
    ◇
 ぷねうま舎・2835円/とみおか・たえこ 35年生まれ。詩人・小説家。2001年、『釋迢空ノート』で毎日出版文化賞/あんどう・れいじ 67年生まれ。文芸批評家・多摩美術大学准教授。02年、『神々の闘争 折口信夫論』で群像新人文学賞優秀作。

この記事に関する関連書籍

折口信夫の青春

著者:富岡多惠子、安藤礼二/ 出版社:ぷねうま舎/ 価格:¥2,835/ 発売時期: 2013年06月

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釋迢空ノート

著者:富岡多恵子/ 出版社:岩波書店/ 価格:¥1,218/ 発売時期: 2006年07月

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神々の闘争 折口信夫論

著者:安藤礼二/ 出版社:講談社/ 価格:¥1,890/ 発売時期: 2004年12月

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2013年8月24日土曜日

kinokuniya shohyo 書評

2013年08月21日

『オットー・クレンペラー あるユダヤ系ドイツ人の音楽家人生』エーファ・ヴァイスヴァイラー(みすず書房)

オットー・クレンペラー あるユダヤ系ドイツ人の音楽家人生 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「現代音楽から古典音楽の大家へ—クレンペラー没後40年」

 今年はドイツの名指揮者オットー・クレンペラー(1885-1973)の没後40年の年でもある。クレンペラーといえば、私がクラシック音楽を聴き始め た頃は、ベートーヴェン、ブラームス、ヴァーグナー、ブルックナー、マーラーなど、ドイツ=オーストリア系の音楽の大家のように扱われていたが、若い頃 は、現代音楽を積極的に取り上げる指揮者として名声を博していた。彼の伝記としては、ピーター・ヘイワースの二巻からなる名著(『オットー・クレンペ ラー:その生涯と時代』第一巻1983年、第二巻1996年)があるが、本書(エーファ・ヴァイスヴァイラー『オットー・クレンペラー』明石政紀訳、みす ず書房、2011年)は、つねにヘイワースを意識しながら、それとは違う視点を打ち出すことに努力を傾注した作品に仕上がっている。意外にも、本書がドイ ツで出版された初めてのクレンペラー伝だという。

 当時ドイツ領のブレスラウ(現ポーランド領ヴロツワフ)に生まれたクレンペラーは、少年時代をハンブルクで過ごし、正式な音楽教育はフランクフル トのホーホ音楽院やベルリンのクリントヴォルト=シャルヴェンカ音楽院で学んだが、専攻科目はピアノと作曲だった。20世紀の大指揮者ヴィルヘルム・フル トヴェングラーと同じく、最初は作曲家を目指していたのである。もちろん、作品も残されているが、残念ながら、今日その演奏に触れる機会は少ない(注 1)。だが、モスクワ生まれのドイツの作曲家で指揮者としても活躍していたハンス・プフィッツナー(1869-1949)の指導を二年間受けたことによっ て、クレンペラーもようやく将来の道を見つけたようだ。プフィッツナーは後にナチズムに接近したことで評判を落としたが、師弟の関係は、ときに険悪になり ながらも最後まで続いたという。
 クレンペラーは、どんな立場のひとでも、学ぶべきところがあればみずから進んで近づいていくという、大胆とも向こう見ずともいえる性格だったのだろう。 師のプフィッツナーと後に対立することになる作曲家フェルッチョ・ブゾーニのところにも通い、当時の前衛音楽(セザール・フランク、ガブリエル・フォー レ、バルトーク・ベーラなど)を教わった。ブゾーニはみずから主催していた「新作演奏会」で取り上げる作品のなかにドイツ音楽が少なすぎると音楽評論家に 批判されていたらしいが、若いクレンペラーに次のように語ったという。「音楽評論家など『浜辺の波のようなもので、それは人を押し倒すこともできるが、ひ とたび波が砕けてしまえば、人はまた立ちあがれる』」と(同書、31ページ)。
 とくに指揮に関していえば、クレンペラーは師よりもアルトゥア・ニキシュ(フルトヴェングラーの前のベルリン・フィルの首席指揮者)から多くを学んだと いう。彼は「教える」ことには長けていなかったが、クレンペラーは、ステージで「催眠術的な威力」を発揮するニキシュの姿に圧倒された。「彼の動きは、控 えめで、落ち着いていて、抑制がきき、細く軽やかな指揮棒は、指の有機的な延長のように見え、この指揮棒が揺れ、それがオーケストラを喋らせるかのように 思えた。彼の指示を逃れることは不可能だった。スタッカートはスタッカート、レガートはレガートなのだ。抗弁も逃亡もできなかった。彼の手が目の高さより 上がることは稀で、この目が一緒に指揮をし、オーケストラを操った」と(同書、32ページ)。


 だが、どうしたら指揮者としてのキャリアをスタートできるのだろうか。チャンスは遠からずやってきた。1905年11月、ベルリンでグスタフ・マーラー の第二交響曲の演奏会があったが、指揮者のオスカー・フリートが自分の助手で練習伴奏者になりたてのクレンペラーを舞台裏での「遠方楽団」の指揮を任せて くれたのである。マーラーの第二交響曲は、終楽章「スケルツォのテンポで、荒々しく進み出るように」で遠方楽団(トランペット四本、ホルン四本、七つの打 楽器から成る)を指揮するひとが必要なのだ。マーラー自身も練習に立ち会ったが、クレンペラーはマーラーの指示のおかげでなんとかお褒めの言葉をかけられ る仕事をすることができた。
 狂喜したクレンペラーは、マーラーの第二交響曲のピアノ連弾版までつくった。マーラーはウィーン宮廷歌劇場の音楽監督にまで上り詰めた「雲の上」のひと だったが、クレンペラーは、なんとか彼の助手になれないものかと考えた。しかし、マーラーにはすでにブルーノ・ヴァルターという心から信頼する助手がい た。それでも、指揮者になる夢は諦めきれない。二年後、オランダのチェリストと演奏旅行に出かけたとき、マーラーに会うためにウィーンを何度か訪れた。ク レンペラーはマーラーの推薦状がほしかったのだ。マーラーは、クレンペラーがピアニストとして通用する腕をもっているのになぜ指揮者になりたいのか訝った が、三度目の訪問のとき、ようやく名刺に推薦文を書いてくれた。この推薦状があったおかげで、クレンペラーは、プラハのドイツ劇場でのポスト(アンジェ ロ・ノイマンのもとで合唱指揮者兼楽長)を手に入れることができたのである。
 ドイツ劇場では懸命に働いたが、この頃から、クレンペラーを生涯にわたって悩ます「双極性障害」(躁鬱病)の症状がみられたようである。ノイマンとの関 係も悪化し、ついには解雇されしまった。そんな彼を救ってくれたのも、またマーラーの推薦状だった。1910年1月、今度はハンブルクのオペラ座から声が かかったのである。


 クレンペラーは、名指揮者が誰もが辿るように、ハンブルクのあともバルメン、シュトラースブルク、ケルン、ヴィースバーデンなどの歌劇場を渡り歩くこと になるが、おそらく過労や人間関係のもつれから躁鬱がひどくなると、しばしばケーニヒシュタインのサナトリウムに逃げ込むようになった。このサナトリウム を創立した院長オスカー・コーンシュタムは、ジークムント・フロイトのような理論は持ち合わせていなかったが、「患者の話をじっくり聞き、患者に生きる勇 気を与える」という、現代の行動療法と類似の手法で治療に当たっていたらしい(同書、66-67ページ参照)。しかし、この病気とたまに訪れる「奇怪な激 昂期」は、彼の妻ヨハナや友人たちを巻き込んでひと騒動になることもあった。
 ところで、クレンペラーといえば、やはりベルリン・クロル・オペラの総監督時代の活躍に触れずにおくことはできないだろう。1927年のベルリンには、 ウンター・デン・リンデンの州立歌劇場にエーリヒ・クライバー、ベルリン市立歌劇場にブルーノ・ヴァルター、ベルリン・フィルにフルトヴェングラーという 名指揮者が揃っていた。いまから思えば、黄金時代である。クレンペラーは、相変わらず、現代音楽に積極的に取り組み、「ストラヴィンスキーの<エディプス 王>を指揮したころにはドイツ最高の現代音楽指揮者のひとりであるとの名声を獲得していた」という(同書、177ページ)。また、ワーグナーの<さまよえ るオランダ人>を初稿版で上演し(1929年1月15日)、「ヴァーグナーに積もり積もっていた塵や垢を徹底的にぬぐい払おうとした」(同書、182ペー ジ)が、この上演はヴァーグナーの孫フランツ・バイドラーには評価されたものの、ヴァーグナーの息子ジークフリートとその妻ヴィニフレートには受け容れら れなかった。ジークフリートは、後にその演出を「文化ボルシェヴィズム」と呼んで蔑んでいたという(同書、182ページ参照)。
 だが、黄金時代はいつまでも続かない。やがてナチ党が躍進するにつれて、プロイセンの州政府は、1930年10月6日、クロル・オペラの閉鎖を決定し た。クレンペラーがユダヤ人であったことも、彼が取り上げる音楽が「前衛的」に過ぎて「ドイツ的」ではないことも大きく関係していただろう。クレンペラー の小さな子供たちは、なぜ父親が追放されるのかが理解できなかった。するとクレンペラーは一言だけ言葉を発したという。「わたしがユダヤ人だからだ」と (同書、191ページ)。
 その後、クレンペラーは数々の災難に見舞われる。スイスを経由してアメリカに渡り、ロサンジェルス・フィルハーモニーの首席指揮者となったが、まもなく 脳腫瘍ができていることが判明し、1939年9月18日、4時間半に及ぶ手術を受けた。術後意識が回復したときには、右目の括約筋と舌の右側が麻痺してお り、右腕もやっと動かせる程度だった。数日後には髄膜炎も併発した。オーケストラからも解雇された。精神状態も悪化した。このような最悪の状態から立ち直 るのは並大抵の努力では難しかっただろう。
 第二次世界大戦後、三年間、ブダペストのオペラ座の首席指揮者をつとめたが、その後も火傷を負ったり転倒によって大腿骨を骨折したりと不運が重なった。
 しかし、1959年、フィルハーモニア管弦楽団の首席指揮者となり、晩年の活動の場を得たのは幸いだった。私がクラシック音楽を聴き始めた頃に市場に出 ていたのは、たいてい、フィルハーモニア管との晩年の録音、それもドイツ=オーストリア系の古典派からロマン派に至る音楽が中心だった。なぜ彼はあれほど 以前は力を入れていた現代音楽を録音しなかったのだろうか。本書によれば、彼はブーレーズ、シュトックハウゼン、ときにヘンツェを好んで聴いていたらしい が、録音したのが古典音楽に偏ったのは「商業的理由」によるものだったという(同書、205ページ参照)。つまり、現代音楽は売れなかったのだ。しかも、 クレンペラーも生計を立てるためにお金が必要だったので、レコード会社の意向を無視できなかった。ただ、そうはいっても、彼の指揮は、主観性を排し、泰然 とした音楽の流れをつくりだすことによって最も優れたベートーヴェン全集のひとつに結実したように思われる。


 本書は、クレンペラーのプライベートな面についても多くのエピソードが紹介してある。他の偉大な音楽家についてもいえることなので、いちいち記さない が、本書は、多くの人間的欠陥をもちながらも、不屈の精神によって怪我や病気を克服し、偉大な指揮者と評価されるようになった経緯がわかるように丁寧に叙 述してある。クレンペラー没後40年と知って本書を取り上げるゆえんである。

1 ヘイワースは、クレンペラーの作曲は「躁鬱病の錯綜」の産物だと軽く触れていただけだったが、本書は「作曲家クレンペラー」も再評価に値すると いう立場をとっている。ただし、今日、彼の作品を実際に聴いたひとはごく少数だと思われるので、どの程度の評価になるのかは正直わからない。


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Posted by 根井雅弘 at 2013年08月21日 06:02 | Category : 音楽




kinokuniya shohyo 書評

2013年08月14日

『和歌とは何か』渡部泰明(岩波書店)

和歌とは何か →紀伊國屋ウェブストアで購入

「和歌と演技」

 �和歌語り�は一つのジャンルである。呼吸がちょうどいいのだろう、ふと和歌をのぞいて賞味しては、「ふむ」と一呼吸置いてからおもむろに地の文 に戻るという流れが、ある種の読書にぴたりとはまる。ぐんぐん、ずいずい読むのではない。ぱらぱら、はらはら読む。岩波新書だけをとっても、斎藤茂吉の 『万葉秀歌』(上下)や大岡信の『折々のうた』シリーズなど短詩型に焦点をあてたものが定番となってきたのは、そうした収まりの良さと関係あるのだろう。

  和歌語りの典型的なパターンは、濃密な「情」をたたえた和歌を、ちょっと距離をおいた評者が「知」のことばで受け止めるという形である。だから、さまざま な秀歌をあっちこっち覗きながらも、どことなく涼しい顔というか、退屈げでさえあるような、どこ吹く風という空気がある。そして、そんな緩い空気の中に、 ときおり射貫くような、あるいはひねりや毒を少しだけ盛った、寸言めいた評が差し込まれたりする。

 しかし、本書『和歌とは何か』の著者の 姿勢はそんな「どこ吹く風」の批評とは少し違う。著者の渡部泰明氏には明確に伝えたいテーマがある。「和歌とは演技だ」というテーマである。だから渡部氏 ははじめからけっこう忙しい。序章でも、和歌なんてピンとこないでしょう?私だってそうですもん!と口調に熱がこもる。氏は宣言するのである。和歌を読む ためには「儀礼的空間」ということを頭にいれるといいのです、と。そういう場所で行為として行われるのが和歌なのだ、と。そして本論に入ると、渡部氏は約 束どおり枕詞や序詞、縁語といったおなじみの和歌のレトリックの機能を、「演技」、「偶然性」、「出会い」、「儀礼」、「行為」といったキーワードを助け に読み解いていくのである。

 英米文学を専門とする筆者のような者には、この「行為」という概念はとても興味深い。というのも、英米文学の 批評でも、J・L・オースティン(ジェーン・オースティンではない)の言語行為論以降、詩や小説の語りを一種の行為と見ることで、その中に広い意味での政 治性や、読者・マーケットとの関係構築、さらには呪術的な発信作用などを読み取る視点が提示されてきたからである。ホイットマンのような、いかにも派手な パフォーマンスを思わせる詩人に限らず、前回本欄で扱ったディキンソンのように、ひとりでこっそり囁くかのような場合でも、「行為としてのことば」という 要素を見て取ることはできるし、そういうふうに読むことで、解釈に広がりや深みが出る。

 ただ、本書で渡部氏が強調する「行為」という概念は、西洋的な言語行為論の枠組みと単純にかさなるわけではなさそうである。渡部氏は和歌が詠まれ た当時の状況を再構築しながら、和歌ならではの社会的機能にせまっていく。当然ながらそこには、当時の日本に特徴的な祭儀の感覚がからむのである。とりわ けおもしろいのは「唱和」という概念である。声を合わせる、ということ。

 これはたしかに気になるところだ。和歌のレトリックに人が難しさを感じるのは、掛詞や縁語などにあらわれた声の複数性に戸惑うからである。ひとつ の言葉や句が、同時に複数の声を担うという、その同時性・シンクロの感覚にいったいどう感動したらいいのか、そんなことをして何が嬉しいのか、どこが楽し いのか、それが現代人にはなかなか理解できない。

 従ってしばしば和歌語りでは(あるいは学校の授業では)そうしたレトリックについては淡々と語って済ませる。どう受け止めるかまでは踏み込まず に、単にその構造や機能を説明し「あとはご自由に」となる。ある意味では無難で賢明なやり方なのだが、渡部氏がおもしろいのは、そうした部分にさしかかる と、椅子から腰を上げんばかりにして、いよいよ熱心に語りはじめるということである。次々に比喩や付加疑問文的・「でしょう?」的突っ込みを繰り出し、 「えいや! どうだ! これでもわからないかぁっ!」とほとんどこちらの肘を引っ張らんばかりにして前に進んでいく。少し長くなるが、ぐいぐいとステップ アップしていく氏の語り口の例として「掛詞のリアリティ」についての説明を見てみよう。

 掛詞のリアリティは、言葉の持つ意味に依拠しているというより、言葉が存在していることそのものの重みによって いる、と私は思う。風景とわが身が偶然に出会う。それは一つの事件である。その事件が存在した重みを、言葉の出会いの中に置き換えようとするのが掛詞なの であろう。我々が生きているのは、突き詰めれば偶然の積み重ねの世界にすぎない。ただ、日常生活の中では、個々の出来事がある程度の必然性を持って連なっ ている、と何となく思い込んでいる。これが原因でこういう結果になったと思い込むことで、心の安定を得ている。しかし、強く何かに心動かされた時—— 美 しいものにふれた、恋をした、人が亡くなった——、世界は新たな姿を見せる。個々の物事が面目を一新し、幸運にもたまたまそこに存在したのであったことに 驚かされる。お定まりの因果関係など、どこかに吹き飛んでしまう。(75)

 掛詞って要するに駄洒落でしょ?などと思っていた人は、にわかに違う空気が流れ出してはっとするだろう。しかもそれはかび臭い学者的な説明ではない。渡部氏は勇敢にも「感動」そのものに切り込んでいくのである。

 それをどう表現するか。その時の自分の心に感じたあり様を詳しく語る、という手がある。これは我々にもなじみや すい。しかし、もう一つ、世界が偶然ならば、それを言葉の偶然性に移し取る方法もあったことを、掛詞は教えてくれるのである。掛詞は、偶然性をむしろ強調 して、物と心、風景の文脈とわが身の文脈とを強引に重ね合わせ、風景との出会いの衝撃を再現してみせる。(75)

 何しろエッセンスの部分を語っているので、引用部だけですべてを理解するのは難しいかもしれないが、本書を具体例とともに順に読み進めていけば、 こうした盛り上がりどころを十分に楽しむことができる。渡部氏によれば掛詞とは「声を合わせることを演じつつ、偶然を必然に変えてしまうようなレトリッ ク」なのであり、「言葉の偶然の一致が、歌の秩序にぴったりと当てはめられ必然化していく姿は、人々の心を捉えて離さなかった」という。

 今も昔も、人は偶然に起こる出来事に弄ばれ、かつ孤独に苦しめられながら生きざるをえない。どうにかそこから脱 したいというあえかな願いを、言葉の上で見事に実現しているのが掛詞なのだ。これこそ定型文学・和歌の神髄ともいうべき「力」である。その意味で掛詞は、 和歌の中心的レトリックと呼ぶにまことにふさわしい。(78)

 和歌を理解するためには「偶然でありながら、そうでしかありえぬ、という感覚」に敏感になる必要がある。序詞の説明の中でも、渡部氏はこの感覚に こだわりつつ、それを人と人とが声を合わせる「唱和」、さらには「共生の感覚」や「共同の記憶」に結びつけてみせる。このあたりは本書の芯となる議論だろ う。

つなぎ言葉に見られる偶然の音の一致は、和歌の定型に支えられて、必然的なものであるかのように感じられてくる。 するとそこに、人と声を合わせているかのような感覚が発生する。声を合わせている時、人は他の人も同じものを見、同じことを感じているような確信に囚われ る——決してそうとは限らないのだけれども——。この声の響く中で、序詞の風景は、体験に縛られない、純度の高い懐かしさをかもし出しながら、共同の記憶 となって人々に受け入れられるのであった。(58)

 「唱和」という概念には、「いただきます」や「乾杯!」も含まれる。こうした部分からも察せられるとおり、本書で渡部氏が強調する「演技」は、 「儀礼」という概念と密着しているのである。「演技」は単に「ふりをする」「ウソをつく」というような皮相な意味でとらえられているのではない。それは人 と人とが社会の中で共生していく上で欠くことのできない祭儀的な装置なのであり、和歌を詠むという行為が、さまざまなイヴェントや習慣を通してそうした祭 儀に組み込まれていたことは、「演技」というキーワードを助けにするとはっきりと見えてくる。本書の後半では、「贈答歌」「歌合」などの具体的な検証を通 して、行為としての歌にいちいち微妙なニュアンスがこめられていたことが説明されるが、あらためて当時の社会の洗練と爛熟を感じさせるところである。

 本書で渡部氏がことさら「演技」というポイントに力を入れたのは、現代の読者にとって和歌がますます読みにくくなったことと関係しているだろう。 自身の役者としての経験を踏まえ(氏はかつて野田秀樹氏らとともに「夢の遊眠社」で演劇活動を行っていた)、上演という枠にとどまらない「演技」の社会的 な機能を自覚してきた氏は、そうして得た想像力を存分に駆使し、まるで我がことのように歌人たちの心境を推し量りながら、ときには力強く、ときにはさらに 力強く、和歌語りを進めるのである。

 私たちは「詩が読めない時代」を生きている。和歌語りに限らず、批評という�介添え者�なくしてはもはや詩は読まれ得ないのかもしれない。しか し、本書を読むとわかるように、和歌はそれ自体の中に強力な批評性を内在させたジャンルでもある。縁語にしても、本歌取りにしても、先行テクストとの微妙 な距離感をはらんだ批評的なレトリックだと言える。和歌とは自ら語り歌う形式であると同時に、他の歌を読み、読んだテクストを想起する形式でもあるのだ。 その意味では、そこにはきわめて現代的な「詩」の可能性があると言えるのかもしれない。


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kinokuniya shohyo 書評

2013年08月13日

『海のイギリス史−闘争と共生の世界史』金澤周作編(昭和堂)

海のイギリス史−闘争と共生の世界史 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 ずいぶん挑戦的で、挑発的な本である。このような本が編集できるようになったのも、日本の西洋史研究がヨーロッパから学ぶ段階から脱し、独自の西洋史観 をもって歴史学を語ることができるようになったからだろう。それは、歴史学の基本を踏まえて、世界史のなかでヨーロッパを語ることを意味している。この当 たり前のことを、ヨーロッパ人の西洋史研究者のみならず、かれらから学んできた日本の西洋史研究者も、なかなか気づかなかった。これまで、ヨーロッパ史は ヨーロッパ世界のなかだけで語られ、ヨーロッパ外のことに関心がなかった。

 本書の「総説 海の歴史のルネサンス」は、まず「歴史学の定義」から入る。編者、金澤周作は、つぎのように本書で共有する定義を説明している。「歴史 学、それは、知られざる過去の人間の営みを、現在の地点から、可能な限り確かな証拠と可能な限り飛躍のない論理に基づいて再構成した上で、現在を生きる私 たちの歴史像に一石を投じる学問である」。

 そして、おもしろいはずの歴史をつまらなくしているのは、この「定義からの逸脱が原因である」、「つまらないと感じる歴史は、現在の自分にも既存の歴史 像にもなんら響かないものなのかもしれない」という。つまり、歴史を現代の目で見ていないからつまらないのである。とすると、イギリスの歴史も、イギリス が世界の超大国として繁栄した時代のひとりよがりの歴史観でみているからつまらないのであって、現代の日本人の目から見れば、おもしろくなるということだ ろう。

 イギリス史を「とてもおもしろい」ものにするために、編者は「人と海の歴史的な関わりを多面的に扱う海の歴史」(海事史)に注目した。「海の歴史は、一 方で、イギリス近世・近代史のバランスのとれた、多面的な姿を描き出す上で非常に適し、他方で、「イギリス」を主要なアクターないし背景にするグローバル な人間行動を再構成する前提として不可欠な視角なのだ」。さらに、海の歴史は、イギリス史叙述を引き裂いてきた「三つの「二重性」−微視的/巨視的、陸的 /海的、強い/弱い」を、3つながらに統合する可能性を秘めているという。

 おもしろい「海のイギリス史」を書くために、「本書の提案」として「四つの心構え」をあげている。まず、「海の歴史に関わる主体をなるべく多くすくい上 げること」、つぎに「誰かのイメージとして、あるいは交流の事実の集積の結果として、独特な個性を持った海域ができるという」こと、「より曖昧で不正確な 表象や言説にも注意を払っていく」こと、そして4つめとして、「イギリスの海事は、ナショナルな条件の下で展開したが、やはりグローバルな舞台を忘れるわ けにはいかない」ことをあげている。

 本書は、「イギリスの海の歴史「研究」の全貌をまとめ上げ、基礎的事実とともに多彩な研究動向とこれからの方向性を提示する、イギリスでも日本でもおそ らく例のない「研究入門」のための書」で、つぎの3部構成をとっている。「第1部では海の歴史の光の面、すなわち概してイギリスの強さをあらわす側面を扱 う」:「第1章 探検・科学」「第2章 海軍」「第3章 海と経済」「第4章 港」。「第1部とは対照的に、第2部は、影の面、すなわちイギリス史の本流 から外れるような、イギリスの弱さを示す側面を扱う」:「第1章 海難」「第2章 密貿易と難破船略奪」「第3章 海賊」「第4章 私掠」。第3部では、 「網羅的に整理したイギリスの状況を、他地域の事例から相対化する」ため、第3部の執筆者は第1部・第2部の執筆者たちと対話を重ねた上で執筆している: 「第1章 近世フランス経済と大西洋世界」「第2章 近世フランスの海軍と社会」「第3章 ポルトガル・スペインと海」「第4章 オランダと海」「第5章  近代中国沿海世界とイギリス」。さらに、本書には20のコラムが挿入されている。

 「総説」の「おわりに−メッセージ」には、本書の目的が「本書が開く世界」の見出しのもとに、つぎのように述べられている。「まず、イギリス近世・近代 という、世界の歴史において特筆すべき存在感を示した対象を、今までよりも深く、また違った仕方で理解するために、海の歴史にまつわる基本的な史実や論点 を整理すること。しかし、イギリス近世・近代だけを見てイギリス近世・近代の「個性」を描いてしまうような愚を避け、同時代の西欧諸国、そしてアジアの海 の歴史の成果と対話しながら、より相対化された像を提供することも目指している。これは同時に、イギリス史にとって鏡の役割を果たしてくれる当の諸外国の 歴史を相対化することにもなろう。さらに、過去というそれ自体混沌としかいえない対象に、どこからどうやってどのような網をかけ、その混沌を「歴史」とい う物語として再構成していくかについての、アイデアの数々を提供することも本書が意図していることである」。

 そして、最後に、「読者の皆さんへ」「この本が、斬新な研究の炎を諸所で燃え立たせることができるような、消えない埋め火であらんことを願いつつ、あな たを以下の本編が描き出す万華鏡のような海の歴史の世界に送り出したい」と結んでいる。ここまで書くのであれば、読み終えた読者に、編者の思いと同じだっ たか、問いかけてほしかった。読者は、編者の思いを越えて、あるいはとんだ思い違いをして読んだかもしれない。短い「あとがき」でもあれば、読者は編者と 思いを共有できたことを確認して、本書を安心して閉じることができただろう。

 歴史をつまらなくしている原因のひとつに、いまだに近代をリードしたヨーロッパを中心とした歴史観がある。編者もそのことに充分気づいているから、第3 部第5章の「近代中国沿海世界とイギリス」があり、同部第3章や第4章などもヨーロッパ世界にとどまらず世界を扱おうとしている。それで充分でない部分 は、コラムで補っている。しかし、残念なことに西ヨーロッパや東アジア以外は、「海の歴史」に関心のある研究者が少なく、研究があまり進んでいない現実で は、補いようがない部分もある。西洋中心史観が時代にふさわしくない歴史観であることは、近代の終焉を感じ始めたかなり以前から気づいていたにもかかわら ず、それにとってかわる歴史像が描けないために、時代遅れなままの状況が続いている。

 もうひとつ、歴史をつまらなくしているのは、陸地中心史観で、陸の概念で陸から海を一方的に見てきたからだ。これについては、まだ気づいている人が少な く、研究はまったくないといっていいほど少ない。陸から海へ・海から陸へ、双方向から見る視点がないのは、海を主体的に見る発想自体がなく、海を陸の従属 物と見ているからだろう。今日、海を陸地の延長だと見て、紛争の海にしているのも、一方的な陸地中心の見方からだ。古来から、海は、グロティウスが唱えた ように、利用する者にとっての「公海の自由」がある。陸地の支配者が占有するものではない。大切なことは、海の歴史研究の発展を、紛争の海を助長するため に利用されることなく、平和な海に戻すために役立てることだ。そうしなければ、現実の問題に役に立たない歴史は、つまらない「趣味」の世界のものだと思わ れてしまうだけでなく、紛争の種になる有害なものになってしまう。

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Posted by 早瀬晋三 at 2013年08月13日 10:00 | Category : 歴史





kinokuniya shohyo 書評

2013年08月12日

『捕虜が働くとき—第一次世界大戦・総力戦の狭間で』大津留厚(人文書院)

捕虜が働くとき—第一次世界大戦・総力戦の狭間で →紀伊國屋ウェブストアで購入

「総力戦の狭間で「働く捕虜」」

 本書(大津留厚著『捕虜が働くとき—第一次世界大戦・総力戦の狭間で』人文書院、2013年)は、従来ほとんど取り上げられなかった第一次世界大戦中の 「働く捕虜」たちの実態を詳細に紹介した好著である。第一次世界大戦を「総力戦」として捉える見方は大戦中からあったが、著者によれば、その言葉は、ドイ ツの軍人エーリッヒ・ルーデンドルフによる同名の著書(1935年)の刊行以来、次第に定着するようになったという。私たち日本人は、とかく第二次世界大 戦に関心が向かいがちだが、ヨーロッパでは、多くの証言があるように、「青天の霹靂」のごとく勃発した第一次世界大戦の衝撃が大きかった。しかし、大戦の 推移やその後のパリ講和会議などについてある程度知っていても、大戦中に捕虜になった人たちが「労働」に駆り出された事情についてはほとんど知らないと いってもよいほどだ。本書は、その穴を埋める貴重な研究である。

 1907年のハーグ陸戦条約第4条には捕虜の人道的な処遇について、第6条には捕虜の労働に関しての規定がある。その内容は、かいつまんでいう と、将校を除いて兵士に労働をさせることはできるが、戦争に直接かかわる業務や過度な労働を課してはならないというものであった(同書、10ページ参 照)。しかし、当初の予想に反して大戦が長引き、オーストリア=ハンガリーの場合、大戦中200万の自国兵士を捕虜として失うと同時にほぼ同数の200万 の敵国兵士を捕虜として収容せざるを得なくなると、その規定は「原則」ではあっても実情はそれからかなり離れたものになっていく。敵対したロシアは、同じ 捕虜でも、スラヴ系兵士を優遇し、ドイツ系やハンガリー系などを少し厳しく扱っていたが、しかし、これもあくまで「原則」に過ぎなかった。著者は次のよう に言っている。

「つまりオーストリア=ハンガリーは200万強の働き盛りの男性が捕虜となって労働市場から姿を消し、その代りに200万人弱の働き盛りの男性を捕 虜として抱え込むことになった。失われた労働力の補完だけではなく、200万人近い捕虜を扶養するためにもいかに捕虜を労働力として利用するかはオースト リア=ハンガリーにとっては重要な課題となった。しかしそれはオーストリア=ハンガリーだけのことではなかった。」(同書、64-65ページ)

 当初想定してなかった事態に直面し、オーストリア=ハンガリー陸軍省は捕虜兵を雇用するに当たっての指針を改訂し(1915年8月10日)、雇用 者と軍との負担の分担を明確にした。しかし、働く環境が劣悪なものであることに変わりはなく、1917年には捕虜兵労働部隊の監査が行われることになった という。


 捕虜兵労働部隊は、どんな労働を課せられていたのだろうか。著者は、オーストリア=ハンガリーの第11軍団の後方任務に就いた捕虜兵労働部隊を例に挙げ ているが、そこでは、例えば道路建設、ロープウェーの建設、パン焼きなどが挙げられている。ロープウェーの建設は「戦闘に関係する業務」の可能性が高いが (つまりハーグ陸戦条約違反)、オーストリア=ハンガリー軍は捕虜兵にそこまでの配慮をする余裕がなかったという(同書、84ページ参照)。捕虜兵を警備 する人員も足りなかったので、監視の目をすり抜けて逃亡する捕虜兵も後を絶たなかった。さらに、捕虜兵と地域住民との「交際」という問題もあった。とく に、軍は、現地の女性と捕虜兵との「交際」によって感染症が増えることを警戒していたらしい。だが、著者は次のように述べている。「捕虜の労働力は交戦国 に欠かせないものとなり、捕虜の集団は細分化されて雇用された。そのため捕虜が現地の人びとと親密な関係を築く可能性は高かった。感染症の蔓延などの負の 側面には軍も神経を尖らせたが、警備に大きな勢力を割く余裕もなく、厳しい監査が行われたとは考えにくい」と(同書、94-95ページ)。
 大戦の長期化とともに食糧事情も悪化していったが、1917年後半には、不満を抱いた捕虜兵の逃亡が増加し、それに対応しなければならない警備兵も疲弊 していった。監視を担当する立場にある監視委員も、自らの職務に耐え切れずに辞任を申し出るほどであったという(同書、101ページ参照)。


 ロシアの捕虜となったが幸い早期に帰国できたオーストリア=ハンガリー軍の兵士たちは、まだシベリアに残されている仲間たちの安否を案じていたが、まも なく捕虜としての自分たちの経験を風化させないために機関誌『プレニ』を発行し、そのスローガンに「苦悩があって初めて光がある、光があって初めて愛があ る」という言葉を掲げた(同書、122ページ参照)。のちに捕虜に関する新たなジュネーヴ条約が締結されるが(ジュネーヴ条約は何度も改訂されているの で、第一次世界大戦後であれば1929年の改定を指すと思われる)、なんとナチ政権のドイツががオーストリアを併合したあとの『プレニ』には、そのスロー ガンと並んでナチスのハーケンクロイツが付されることになったという。旧捕虜兵の経験が第二次世界大戦中の捕虜の扱いに必ずしも活かされなかっただけに、 表紙にハーケンクロイツを付した機関誌をみると複雑な思いを抱かざるを得ない(同書、123ページの表紙を参照のこと)。


 本書には、日本で捕虜になったドイツ人やオーストリア人などの興味深い記述もあるが、中心はオーストリア=ハンガリーに置かれている。著者によれば、こ の十年間で、第一次世界大戦の捕虜研究は急速に進んだという。来年(2014年)は、第一次世界大戦の勃発から100年という節目の年に当たるが、この機 会に、第二次世界大戦の研究に比べて地味な印象のあったこの分野での研究が飛躍的に高まることを期待したい。


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Posted by 根井雅弘 at 2013年08月12日 17:30 | Category : 歴史






2013年8月16日金曜日

asahi shohyo 書評

グローブトロッター—世界漫遊家が歩いた明治ニッポン [著]中野明

[評者]内澤旬子(文筆家・イラストレーター)  [掲載]2013年08月11日   [ジャンル]歴史 国際 

表紙画像 著者:中野明  出版社:朝日新聞出版 価格:¥ 1,995

■人は旅になにを求めるのか

 19世紀末の欧米にグローブトロッター(世界漫遊家)と呼ばれる人々が出現する。交通機関の進展と低廉化にともない、旅が消費の一形態として、貴族だけでなく、多くの民間人に開放されたのだ。
 鉄道や汽船を乗り継ぎ、世界各都市から辺境まで、どこでも行ってみたい、見てみたいという欲求に突き動かされて歩き回る彼らにとって、開国されたばかりの日本は、いわばレアアイテム。多くの旅の記録が残されている。
 本書はそれらの旅の記録から、開国から数年刻みで刻々と発展してゆく明治期の日本の様子を追う。
 明治期の旅施設の整い具合も興味深いが、グローブトロッターたちのタイプ別分析が面白い。快適さを人脈で得るか、お金で購(あがな)うか。多くの土地を急いで踏破するか、ニッチな目標に沿ってじっくり滞在するか。
 人が旅になにを求めるのか、当時もより便利になった今も、あまりにも変わらないことに驚かされる。
    ◇
 朝日新聞出版・1995円

この記事に関する関連書籍

グローブトロッター 世界漫遊家が歩いた明治ニッポン

著者:中野明/ 出版社:朝日新聞出版/ 価格:¥1,995/ 発売時期: 2013年06月

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asahi shohyo 書評

ドゥルーズの哲学原理 [著]國分功一郎

[評者]いとうせいこう(作家・クリエーター)  [掲載]2013年08月11日   [ジャンル]人文 

表紙画像 著者:國分功一郎  出版社:岩波書店 価格:¥ 2,205

■相手の考えの奥に潜り込む

 フランス現代思想は難解だ、と我々の多くは考えているはずだ。特にジル・ドゥルーズはその最高峰だ。難しい。
 そのドゥルーズを快刀乱麻を断つごとく、簡潔に読みほどいていくのが若き哲学者・國分功一郎である。かといって、わかりやすい解説書にありがちな"超訳"は一切ない。
  著者はバディウの指摘した、ドゥルーズにおける自由間接話法の多用から話を始める。他者の発言をカッコにくくらず、「と言った」とも受けず、裸のまま地の 文の中に置く手法である(この評の冒頭、3行目「特に」以下がそれにあたる。「我々の多く」がそう言うのか、書く私の発言なのか、決定不能になる)。
 すると、評する主体と評される主体は交じり合う。まるで相手の考えの奥に潜り込むようにして、ドゥルーズは対象を思考する。
 その上で、哲学研究は何をするべきか?というドゥルーズの問いを著者もまた問う。そこには著者ならではの「自由間接話法」も働く。問いはどちらのものでもある。
 "哲学者本人にすら明晰(めいせき)に意識されていない"問いを描き出すこと。とドゥルーズは、あるいは著者は答える。哲学研究とは哲学者の意識を超えることなのだ、と。
 こうした原理的な構えから、ヒューム的な主体、フロイトからラカンに至る精神分析的知見、フーコーの権力論を欲望から読み解くことなど、ドゥルーズを巡って難解な用語で語られてきた概念が、徹底的な平易さで説かれる。
 すると、生活から果てしなく遠かった現代思想がここで必要だとヒリヒリ感じられてくる。例えば以下の言葉。
「服従を求める民衆が他の者にも服従を強いる、というありふれた(中略)、あのおぞましい現実」
 これこそ今の日本ではないか。それがさらに「なぜ人は自由になろうとしないのか」と言い換えられて初めて、我々の目は覚める。明るい。
    ◇
 岩波現代全書・2205円/こくぶん・こういちろう 74年生まれ。高崎経済大准教授(哲学・現代思想)。

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ドゥルーズの哲学原理

著者:國分功一郎/ 出版社:岩波書店/ 価格:¥2,205/ 発売時期: 2013年06月

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asahi shohyo 書評

日本のタコ学 [編著]奥谷喬司

[評者]荒俣宏(作家)  [掲載]2013年08月11日   [ジャンル]科学・生物 

表紙画像 著者:奥谷喬司  出版社:東海大学出版会 価格:¥ 3,990

■「頭」か「腹」か、から「心」まで

 ここ20年で大飛躍をとげた日本の「タコ学」。その成果 を集めた論文集となれば一読せずにいられない。たとえば「タコの体」は、どこが頭でどこが背中なのか? 最新の理解によれば、一般に坊主頭と思われている 部分は、内臓が入っているので「腹」。眼(め)と口と脳がある場所は8本足の股座(またぐら)に収まっているが、「頭」に当たる。
 その頭に8本 足がくっ付いているから、彼らは「頭足類」と呼ばれる。一方、口がある部分を「体の尖端(せんたん)(前)」とすると、坊主頭の先っぽは体の後端となる。 また、ふつうは内臓がある方が腹(表〈おもて〉面)なので、その逆側に付いている足や口は背(裏面)にあると言うしかない。要するにタコと人間の体は別の 進化系統に拠(よ)っているのだ。
 ところが、謎だらけのタコの体も、その設計図が腹側に神経を置き背側に内臓を置くという点でクラゲ(刺胞動 物)やハエ(節足動物)などと一致している。我々人間を含む脊椎(せきつい)動物だけがその配置を逆転させ、内臓を腹側に置いているのだ。また、食べるた めの口はどの動物でも体の前方にある。ここまでは設計図が同じでも、タコの場合は肛門(こうもん)が後ろへ行かずに折り返され、口と隣り合う形になる。
 胚(はい)の段階で前後に延びていたタコの神経は両方の端が丸まって脳という塊になる。ここに視覚、五感などの知覚中枢が集まるので、じつは人間とタコの脳は同じプランを持っていることになる。ということは、「心」についても同一の基礎に立つのではないか?
  さぁ大変だ。話はここからタコに人間的な自意識があるかどうか、否、タコの脳を通じて人間の脳のカラクリが解明できるかという哲学的展開となる。本書の後 半には懇切丁寧な最新タコ図鑑が付され、イイダコの学名(種小名)決定において江戸の俳諧書『海乃幸(うみのさち)』と『和漢三才図会』が役立った話な ど、美味(おい)しい話題の大皿盛りである。
    ◇
 東海大学出版会・3990円/おくたに・たかし 31年生まれ。東京水産大学名誉教授。『軟体動物二十面相』など。

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日本のタコ学

著者:奥谷喬司/ 出版社:東海大学出版会/ 価格:¥3,990/ 発売時期: 2013年06月

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和漢三才図会 1

著者:寺島良安、島田勇雄、竹島淳夫/ 出版社:平凡社/ 価格:¥3,360/ 発売時期: 1985年

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軟体動物二十面相

著者:奥谷喬司/ 出版社:東海大学出版会/ 価格:¥1,680/ 発売時期: 2003年08月

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