2012年10月26日金曜日

kinokuniya shohyo 書評

2012年10月23日

『イギリスの大学・ニッポンの大学 — カレッジ、チュートリアル、エリート教育』苅谷剛彦(中公新書ラクレ)

イギリスの大学・ニッポンの大学 — カレッジ、チュートリアル、エリート教育 →bookwebで購入

「東大って、やっぱりダメなの?」

 オックスフォード大学との比較を通し、日本の大学、とくに東大を批判する——たいへんわかりやすい図式だと思う人もいるかもしれないが、ややトー ンの変わる第三部に至って、語ろうとする内容をはみ出さんばかりに横溢する著者の熱意に打たれる。筆者自身にとっても生々しい問題なので、今回は多少書評 の枠をこえて末尾で私見も述べたいと思う。ともかく、まずは本の紹介から。

 本書は三部構成からなる。第一部はオックスフォードに専任教員として赴任した著者のカルチャーショックを描いた一種の「旅行記」と考えればいい。 ただし、『ガリヴァー旅行記』のようなものとちがって視線はまっすぐというか、珍妙なものをおもしろおかしく描くというよりは、まじめで、建設的である。

 なかなかこうはいかない。オックスフォードやケンブリッジの大学システムというのは、はじめて見る人にとってはどうしたって珍妙である。林望 (『イギリスはおいしい』)や藤原正彦(『遙かなるケンブリッジ』)をはじめ「英国オールド・ユニバーシティもの」のエッセイは、だいたいはこれら変てこ りんな大学やそこに生息する不思議な人々にあきれつつも愛おしむというところから出発するのである。

 まずよくわからないのが「カレッジ」だ(college.「コレッジ」「学寮」とも言う)。たしかにカレッジには「寮」としての機能があるのだ が、そこにはまたフェローと呼ばれる教員もいて、主に学部生の教育の面倒を見る。本書で話題になる「チュートリアル」が行われるのもカレッジ単位である。 カレッジには貧富の差があって、金持ちカレッジは大々的な投資を行ったり、高級ワインのストックを持っていたり、卒業生である皇太子がヘリコプターで現れ たときのためのヘリポートがあったり。絵はがきに写っているおとぎの国の城みたいな建物は、たいていこうした金持ちカレッジの所有物である。有名カレッジ の学寮長(master)ともなると、元首相が候補になったりする。対して貧乏なカレッジでは学寮の設備が不十分だったり、お小遣い(グラント)が少な かったり、卒業生にも頻繁に寄付のお願いが送られたりする。新興カレッジは宣伝のためもあってスポーツ推薦にも積極的で、大学ラグビーチームのメンバーの ほとんどが特定のカレッジに集中し、寮内は巨漢ばかりなどということにもなる(ややおおげさですが)。

 このカレッジ単位で行われるのが件の伝説的な「チュートリアル」である。学生一〜二人につき一人の教員という贅沢なセッションを定期的に行うため には、相当の数のスタッフが必要になる。もちろん熱意のある優秀な人が多いだろうが、中には熱意のない人、抑圧的なだけの人もいる。いつも寝不足の人もい る。二人しか学生がいないのに、学生がレポートを読み上げている間、居眠りする人もいる。どの教員にあたるかは運次第。しかし、入試からはじまってつねに 面接で選抜され、面接できたえられた学生たちは弁舌さわやかで頭脳明晰だから、おそらくどんな教員にあたってもそれなりに対応できるのだろう。

 背景にあるのは社交の文化である。本書でも詳述されるように、教員も学生も、メニューこそ別だが、カレッジの同じ食堂で夕食をともにする。専門を 異にする研究者たちがワインを傾けながら会話を弾ませ、週に何度かはフォーマルディナーもある。こうした伝統は、いくらうらやましくてもそう簡単に移入で きるものではないが、それが結局は苅谷氏の言う「顔の見える教育」にもつながってくるのかもしれない。対面的な環境の中で、あくまで人物本位で相手を教育 し、育てる。これに対して、日本的な(あるいは東洋的な)匿名試験の制度が育てたのは「顔の見えないエリート」だった、というのが本論の中心的な議論なの である。

 ところで、ひとつややこしいのは、大学が単なるカレッジの集合体ではないということである。オックスフォードにしてもケンブリッジにしてもそれぞ れ30を越えるカレッジがあるのだが、こうした封建領主のようなカレッジ群とは別に(一部のカレッジは広大な土地を所有している)、「学部」や「学科」な どユニバーシティの枠が存在する。つまり個々のカレッジによる教育を横断するようにして、これらの組織が体系立った、専門の講義などを提供するのである。 とくに大学院生の場合はこれらの「学部」や「学科」が教育の中心となっており、指導教員も自分の所属するカレッジのフェローが担当するとは限らない。何と 言っても財力があるのはカレッジの方なので、本部たるユニバーシティの支配力はそう簡単には及ばないようだが、そのバランスは変わりつつあるようにも見え る。苅谷氏が言うようにオックスブリッジの魅力は、カレッジを基盤としたチュートリアルにあった。それが近年の大学院重点化で、徐々に中央集権化されてい くのかもしれない。

 第二部も「旅行記」の続きと言ってもいいが、対象はオックスフォードからイギリスの教育システムそのものへと広くなる。近年のイギリスの教育改革 が引き起こした騒動の原因は何だったのか。教育社会学を専門とする苅谷氏の視点がもっとも鋭く発揮されるのはこの部分だろう。問題となったのは、誰が大学 生の教育費用を負担するのかという点である。イギリスでは政府の財政赤字圧縮のために、それまでは大学は無償だったのに学生から授業料が徴収されることに なり、しかもその額が値上げされつつある。当然、学生からは反発が起きたわけだが、その反発を抑えるためのさまざまな方策が整備されつつもある。ただ、そ もそもの問題の根は、一部の階級のためのものだった高等教育が戦後一気に大衆化したことにある。これはイギリス特有の問題とも言えるのだが、苅谷氏がここ で日本の問題を接続してみせるところがおもしろい。日本でこれまであまり話題にならなかった、「誰が高等教育の費用を担うのか」という問題がイギリスでは こうしてきっちり争点になっている。対して日本では、教育費が親から子への贈与という形を取ってきたことで——つまり個々の家庭まかせになってきたために ——費用負担の問題が社会的な視点から論ぜられてこなかった、というのである。

 そして第三部。いよいよ日本の問題である。というか、「日本病」のこと。議論は一気にヒートアップし、もはや旅行記どころではなくなる。日本では 大学教育が機能していない。そもそも企業や社会が大学にきちんとした学生教育を期待してこなかったこともあり、東大を始めとする日本の大学は学生を教育す るという責務を果たしてこなかったのではないか。大学人も企業人も「コップの中の争い」にばかり目を向け、優秀な人材がグローバルな規模で移動する「コッ プの外の競争」に太刀打ちできる体勢がまったく整っていないのではないか。苅谷氏は学部を三年制にし、修士課程を拡充するといったプランも提示して、この ような日本病を打開する方策を打ち出そうとする。

 議論の中心はおそらくふたつある。ひとつは「コップの中の争いはもうやめないといけない」というメッセージである。イギリスの大学で教え ている苅谷氏ならではの視点だと言えるし、説得力もある。では、どうしたらいいか。オックスフォード大学での経験を踏まえて苅谷氏があらためて訴えるのは 「批判的な思考」の養成である。日本の大学に足りないのはこれだ、という。大人数の教室で先生の講義を必死にノートするだけでは決して育たないもの。オッ クスブリッジのチュートリアルはまさにこの「批判的な思考」を、小人数の対面教育を通して教え込んできたのではないか。

 さて。どうなのか。そこで少しだけだが、私見を述べてみたい。
 まず一対一か、一対多かという問題に焦点をあてた点はたいへんおもしろいと思う。これは教育問題をはるかにこえて、近代の文化の中で人々が知とどのよう につきあってきたかという話とも直結するからである。今、私たちは「コピーならいくらでもできます」という状況の中にいる。紙の本という些かなりと手触り の伴う仮想的な「先生」さえ電子化され、自動学習装置やらEラーニングやらで、もはや私たちは誰を相手に勉強しているのかさえわからなくなりつつあるし、 ましてや知の機能の一部が、たとえば計算機や、ワープロや、その他の記憶媒体、映像媒体などに外部委託されるのがごくふつうになった。もはや個人の知的活 動そのものが分業化されている。そこに「対面」という、一見アナクロな視点を持ち込むことで、あらためて私たちの主体性を根本から問い直すことが可能にな る。

 問題は「何を」教えるかである。「批判的な思考」という考えはきわめて魅力的だと思うのだが、これは果たして学問の手続きとして教えられるものな のだろうか。いや、たぶん教えられる。たとえば今、英文科の大学院でも——うまくいっているかどうかは別として——目指しているのはそういうものだ。みな で文学テクストを読み、文学テクストについて書かれた批評を読み、「この批評ってどうよ?」「この読み方どうよ?」と問う。これはまさに「批判的な思考」 の原型である。

 しかし、このような作業に到達する前にやらなければならないことがある。本書でも話題になる「ディシプリン」(discipline)だ。「ディ シプリン」は通常「学問」とか「専門分野」と訳される語だが、元々は「規律」「修練」との意味をもっている。よりわかりやすくは、その専門で研究を行うに あたって身につけなければならない「言語」のようなものだと考えればいい。むろん、狭い意味での「語学」とは違う。「語学」はディシプリンの典型かもしれ ないが、ここで言いたいのは哲学の言語、数学の言語、法律の言語、化学の言語といったものであり……おそらくは教育学の言語といったものもあるだろう。こ のような言語の習得は地味で、退屈で、抑圧的で、ときには権威主義的だったりするし、少なくとも勉強を始めたばかりの個人の意見などがまかり通る世界では ない。しかし、この部分をいったん通過しないと、そもそも学問的な議論をするための入場券が手に入らない。

 だが、言語を学ぶための修練はこのところたいへん不人気である。反復練習や暗記を通して手続きや方法を習得させる科目は、独創性やら天才やらノー ベル賞とは縁がなさそうだし、きらびやかな知的輝きには欠けるように見られる。かわって称揚されるのは「ダイナミックな知的発想」だったり、「従来の規範 にとらわれない自由でタフな思考」だったりするのだ。今はやりの�国際化�もその延長で語られることが多い。

 明治以来何度目かわからないが、今あらためて国際化という理念が頻繁に唱えられている。東大でもそうである。そこでも必ずからんでくるのは「言 語」である。出発点で問題になるのは「留学生を教える言語は?」とか「日本人学生がエジプトに留学して現地の言葉がわかるの?」といったベタなことであ る。ただ、実は国際化ということをいうときには、言語の問題は最後までついてまわる。教育環境や専門領域といったバックグランドを異にする人々が一堂に会 して何かを議論しようというとき、「言語」を共有しなければ、社交辞令をかわして一緒にメシを食っておわりということになるだけだろう。たとえそれがカ レッジのフォーマルディナーであったとしても、だ。つまり、グローバル化とか国際化といった派手なことを言えば言うほど、人々が忌み嫌う地味な「言語学 習」の問題が前景化せざるをえないはずなのである。

 日本の従来の中等教育は徹底的に「言語学習」的なものだった。意見を言う前に、まず「言葉」を覚えて身につけなさい、と言われる。これは明治以 来、まず外国語を覚え、外国的なものの考え方を身につけることが学問の第一歩となった、つまり文字通りすべてが語学からはじまったという歴史とも関係して もいるのだろう。おかげで日本では、つべこべ言わずにまず「言語」を身につける技術がたいへん発達した。

 「批判的な思考」への傾斜はそうした伝統と縁を切るものなのだろうか。それとも「批判的な思考」そのものをディシプリンとして教育の中に組み込む ことは可能なのか。  おそらく答えは後者なのだろう。筆者がこうしてわざわざ出しゃばって私見を述べようと思ったのも、イギリスという国では批評の方法が、とりわけ文学テク ストの解釈を通して、きわめて早い段階で理論化され洗練されてきたということが念頭にあった。つまり、批判的な思考=critical thinkingを個人芸のレベルで勝手に行うだけでなく(それなら太古の昔から行われていただろう)、制度化・マニュアル化して一種のディシプリンとし て大学で教えるようになったのは、イギリスの大学の英文科なのである。苅谷氏の言うように、そこにチュートリアルの伝統がからんでいたと見ることも十分に 可能だ。

 しかし、そのような批評の流れと付き合ってきた英文学の研究者の一人として言うと、たしかにイギリスの知的伝統の中に批判/批評という行為は深く 根づいているし、活字上であれ口頭であれ討論を円滑に運ぶ技術もたいへん優れている、そのおかげで、制度化された批評行為もたいへん洗練されたものには なったのだが、同時に、マニュアル化されすぎた批評理論ほど退屈で刺激に乏しいものはない。いや、退屈なだけでなく、多くの場合、それは見当違いの結論し か導き出さず、あまり役に立たないものなのである。

 もちろん、議論の妥当性を論理的に問うという作業は、どんな学問においても必須のプロセスだろう。しかし、「批判的な思考」とはその一歩先を行く ものであるはずだ。論理を辿りさえすれば誰もがたどり着ける地点を目指すだけではなく、ふつうなら見損ねるものを見極めたり、なかなか気づかない暗部に光 りをあてたりする、苅谷氏の言うのはそのような知的作業のことだろう。そうであるなら、それはマニュアル化などはできないし、むしろ教えられた瞬間にその 命を失うかもしれない非常にデリケートなものである。

 もしcritical thinkingなるものに�コツ�があるとするなら、それは外にでる、もしくは斜めから見るということではないかと思う。あらかじめ設定された視点から はずれたところから対象をとらえる。そのために、つねに立ち位置をずらす。そうすることで、惰性的な枠組みや、意図的に仕組まれた誤謬の罠から自由になれ る。そういう意味での国際化、もしくは「国外化」にはたいへん意味がある。しかし、言うのは簡単なようだが、どこまでそれは�習得�できるのか。ましてや �伝授�できるものなのか。そこでふと思い出すのは、イギリスの大学の、あのアナクロで珍妙なあり方である。ひょっとすると、あの�ずれ�が関係している のか。がちがちのようで、巧妙にゆるい部分が仕組まれている。変な方向にそれる。妙なこだわりにも寛容。それに、あのイギリス人の脱力的なギャグ! そ う、「遊び」の思想がなくては、斜めから見るなんてことができるわけがないのだ。

 というわけで、筆者の「私見」にはふたつのポイントがあった。国際化という華やかな看板が、地味な「言語習得」の問題と無縁ではありえないこと。 それから、「批判的な思考」との付き合い方の、その魅力と難しさ。どちらも本書の議論と対立するものではないし、むしろ本書に触発されて考えたことなので ある。


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2012年10月23日火曜日

kinokuniya shohyo 書評

2012年10月09日

『森敦との時間』森富子(集英社)

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「これというものをひとつ書けばいい」

 森敦は、その実人生の「物語」で知られた人である。作家を志して旧制一高を中退、菊池寛や横光利一の推挙で若くして文壇デビュー。太宰治をはじめ 当時の花形作家とも交わり、22歳にして『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』に連載を持った。ところが、その後小説の発表は途絶え、山形、新潟、三重と各地 を放浪する生活が始まる。おもしろいことに、その後も作家の間には森信者が増え続け、小島信夫、後藤明生、三好徹、勝目梓といった人々がしがない印刷会社 に勤める無名の森敦に助言を求め続けた。人呼んで「森敦詣で」。以前、この書評欄でもとりあげた勝目梓『小説家』では、森の独特な振る舞いが次のように描写されている。

 あるとき、池袋の居酒屋の二階の座敷で開かれた『茫』の合評会に、主宰者の高田欣一が、見るからに曲者といった印象の眼 光鋭い五〇年配の人物を連れてきた。そうして、その人物はどこか胡散臭い感じを漂わせながら、しかし自信に満ちた断定的な口調で、その号に掲載されている 作品の批評をはじめた。曲者然とした胡散臭い印象とは裏腹に、その批評は犀利である上に、問題の捉え方にきわだった独創性をうかがわせるところがあった。 つまりその人物は、『茫』に掲載されている作品それぞれをタネにして、自身のユニークな文学観を開陳しているのだった。そうしてその場はその人物の独り舞 台のようになっていた。(362-63)

 とにかく座談の名手。電話魔。作品への感想を求める作家たちとひとりひとり順番に面会し、思わせぶりな語り口に昔話や文学論を織り交ぜながらも貴 重なコメントをしてくれる。「深淵の帝王」などとも呼ばれた。その森が62歳にしてついに「月山」で芥川賞を受賞することになる。今も破られていない芥川 賞の「最年長受賞記録」である。「とにかくひとつこれというものを書けばいいのだ」というのは森の持論でもあったが、ついにそれを果たしたことになる。

 『森敦との時間』はこうして遅いデビューを果たした森の姿を、養女としてその生活を支えた富子の立場から描いたもので、『森敦との対話』につづく 評伝となる。森敦は芥川受賞後、その波乱に富んだ人生や独特の雰囲気が話題になり、原稿の注文だけでなく、テレビ、ラジオの出演依頼も殺到した。住んでい たおんぼろアパートには毎晩のように崇拝者や編集者たちが押し寄せ、狭い四畳半にぎゅうぎゅうになって森の話に耳を傾ける。会社から帰った富子は毎晩その 接待に追われた。缶詰をあけた程度のつまみも、あっという間になくなる。疲れ果てて缶詰めをあける余裕もないときは、鮨を頼むのだが…。

 届いた鮨桶を卓袱台の中央に置くと、いっせいに客の箸がのびてくる。二重に並んでいた客が、右半身の一重の列になって、 のばした箸で鮨をつまむ。みな右利きだから右手をのばせばいい。もし左利きがいたらおかしなことになるだろう。チチまでも半身に構えているからおかしい。 (6)

 富子自身も作家志望だった。養女になったのも、森敦と同人誌で一緒だった縁からである。しかし、今の引用箇所からもわかるように、本書には作家的 な、文学的な文章を書こうとする暗い情念や執着からついに自由になったような身軽さがある。語る自分の言葉に拘泥することなく、急ぎ足で、さっぱりした気 分で、「まったく何言ってんだか!」というような突き放した口調とともに、「チチ」である森敦をからかうように、文句を言いながらも、愛おしんで語るので ある。途中、文の主語が森敦なのか森富子なのかわからなくなるところもあるのだが、森の最晩年を描いた最終部では、それがくるっと感動的な場面に転換す る。

会議で帰宅の遅い日は、冷蔵庫から料理を詰めたお重を食べる習わしが続いていた。しかし、私の帰宅を待つようになった。食卓に腰掛けて待つ姿を見るのはつらい。(252)

もちろん「会議で帰宅の遅い」のは、会社勤めの富子である。「冷蔵庫から料理を詰めたお重を食べる習わし」は、外食嫌いの森敦のこと。「食卓に腰掛けて待つ」のは森敦で、それを見て「つらい」のは富子。ところがこの場面は、こんなふうに続く。

……食卓に腰掛けて待つ姿を見るのはつらい。わざと大声で「ただいま!」と叫び、冷蔵庫からお重を出し、ビールで乾杯をする。
「これ、飲んでくれないか」
 湯飲み茶碗くらいの小さなコップに入ったビールだ。それが飲めない! どうしたのだろう。
「そう」
 明るい声で言いながらコップを受け取って、私は一気に飲む。
「美味しかったね」
 チチは、さも自分が飲んだかのように言った。(252)

 なるほど、こういうことだったのだ。富子の飲んだ一杯のビールを、さも自分が飲んだかのように「美味しかったね」と言うようになった最晩年の森 敦。養女になって一五年、一度も言われたことのなかった「ありがとう」という言葉を頻繁に口にするようになったのもこの頃だ。「美味しかったね、ありがと う」などとも言った。

 主語がなくてこんがらかるのは、決して一心同体ということではない。名前が言えないのはどこか関係が不安定なのである。どこか照れくさい。だから 「チチ」なんていう窮余の策で言及する。困った人だけど愛しい。富子にとって森敦は終始「まったくもお」的な存在であった。自宅で散髪してあげたら、前髪 のことで「こんなに、短く切ってしまって!」と大騒ぎ(たしかに写真で見るとふだんの森敦は前髪が長い)。富子が引いた電話なのに「長い」「使うな」と文 句を言うかと思うと、自分では残飯の処理ひとつできない。テレビに出れば、ズボンの裾から下着が見えている。

 しかし、こんなふうに「まったくもお」の地点に持ってくるまでには、富子だってきっとたいへんだったのだ。あまりにカリスマ的だった森敦という人 の言葉を、やわらかくほぐしてみせたのは富子の手柄の一つである。たとえば「月山」の生原稿紛失事件がちょっとしたサスペンスまじりに語られる箇所がある が(どこぞの「見目麗しい女性」にでもあげたのではないかと富子は疑ったりする!)、これにからめての以下のような一節がある。

チチは、ノートに書いている。
〈「存在」を意識するとは、失われたものがよみがえる(原文は傍点。以下、太字については同)ということである。失われたものがよみがえる(同)という概 念が如何に重大であるか、これを見ても分ると思う。われわれが「存在」を意識するとき「嘔吐」するとは〈或は「笑う」とか、「絶望」するとか)この失われ (同)、そしてよみがえったものに対して、「嘔吐」するということである。〉(「吹雪からのたより」)
 チチの言う「存在」を「生原稿」と置き換えてみる。生原稿という存在を意識すると、失われた生原稿がよみがえってくる。よみがえってくるたびに、絶望的 な気分になるし、ときには笑いが止まらぬほど喜劇的な気分になる。つまり、失われた生原稿に対して、「嘔吐」するのだという。
 チチと話した後に、嘔吐することがある。それは胃腸が弱いために起こる生理的な現象だと思っていた。嘔吐するのは、失われた生原稿がよみがえるからだろうか。 (125)

 森敦の省察にちょっと横からちょっかいを出して、厳かな「神話」をひっくり返そうとしたとも読める部分だが、最後の下りは逆に意味深長である。何 しろ失われた生原稿には、「女」がからんでいたかもしれないのである。「養女」富子はいろいろと苦しい思いをしていたのかもしれない。

 急ぎ足に淡々と語るかのような口調なのに、何度も繰り返し出てくる話題がある。会社からの帰宅時に富子は電車に乗っていられなくなって何度もトイ レに駆け込んだ。何時間もかけて都心から布田まで帰ったこともある。「途中下車病」などと富子はひょうきんに言ってみせるが、今で言うパニック障害だろ う。接待ストレスだけではない。その根本には、折に触れて森敦から「書いてない!」と言われた富子の心の緊張があるように思える。もちろん、それは富子だ けの問題ではない。書けるか、書けないか、というぎりぎりの境地を生きながら懸命に放浪した森敦にとっても、文章で生きるというのは苦しい怖ろしいこと だったのである。

 将来を期待されながら原稿が書けず、ついに作家デビューを果たす機会を失ってしまった若き日の森敦。そのことがあったから、芥川賞受賞後の殺人的 なスケジュールを体調を崩しながらも懸命にこなした。一度注文を断ったら、もう来なくなるかも知れない…、そんな恐怖感があった。ついに入院。富子はどん どん仕事を断った。しかし、断ったのは主にテレビやラジオの仕事だった。「そうかあ。もう仕事がないのか」と森敦は寂しそうだったが、富子は「侘びしい境 地になれば、小説が書けるかもしれない」と思ったのである(133)。

 下手に文学的になるまい、と覚悟を決めて書いたようにも見える著者の筆が、最後に少しだけ居住まいを正したようになる箇所がある。腹部大動脈瘤で 急死した森敦に霊安室で付き添う富子は、泣き崩れたいのに一滴の涙も出ない。そのとき、隣の部屋から女性の泣き声が響いたのである。

 韓国の男性が交通事故死したという。泣き声は途切れることがなく、高く低く響く。チチへの手向けの泣き声のように聞こえる。(262)

 天才とははた迷惑なものだとよく言う。傍らにいる人には、本人の分も含めて言いようのない「負担」がかかる。森敦が天才だったのかどうかは筆者に はわからないが、ともかく理解しがたい人を「天才」と呼んですませるのは安易なような気もする。書ける・書けないという地点に踏みとどまり、その苦難を味 わいつづけたからこそ、彼は「書く人」に伝えるべき言葉を持ち得たのではないだろうか。


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asahi shohyo 書評

飛田で生きる [著]杉坂圭介

[文]吉川明子  [掲載]2012年10月26日

表紙画像 著者:杉坂圭介  出版社:徳間書店 価格:¥ 1,575

 大阪市営地下鉄「動物園前」駅から徒歩数分のところに"異界"が広がっている。同じような造りの"料亭"が連なり、開け放たれた玄関の奥には、手 招きするオバちゃんと、ピンクのライトに照らし出され、にこりと微笑むきれいな女性の姿。ここは旧遊郭の名残を色濃く残す飛田新地だ。
 会社から 整理解雇され、父の保険金が入ったばかりの著者。突然、高校時代の先輩に「飛田の親方、やらへんか?」と持ちかけられる。「月、五〇〇万前後の儲けや」と いう。そんなわけがないと思いつつも、話を聞いた飛田経営者の「いかがわしい場所とか言われるけど、そういう場所で人間の道極めるのもオモロイで」という 一言が心に残り、この世界に飛び込んだ。
 料亭の二階で行われている"自由恋愛"の実際や、女の子が飛田に来る理由、月三百万円稼いでも割に合わないという親方稼業など、本書に綴られた赤裸々な内情に面食らう人もいるだろう。
 しかし、それらは飛田を彩るピンクの照明のように妖しい光を放ち、読み手の心の奥にぐいぐいと入り込んでくるのだ。

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飛田で生きる 遊郭経営10年、現在、スカウトマンの告白

著者:杉坂圭介/ 出版社:徳間書店/ 価格:¥1,575/ 発売時期: 2012年08月

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マリーエンバートの悲歌 [著]マルティン・ヴァルザー

[評者]松永美穂(早稲田大学教授・ドイツ文学)  [掲載]2012年10月21日   [ジャンル]文芸 

表紙画像 著者:マルティン・ヴァルザー、八木輝明  出版社:慶應義塾大学出版会 価格:¥ 3,360

■ゲーテ55歳差「最後の恋」

 ドイツの文豪ゲーテが74歳のときに19歳の女性(ウルリー ケ・フォン・レヴェッツォー)に求婚したのは有名な話。自分の主君であるカール・アウグスト公に仲介の労をとってもらい、きわめてフォーマルに申し込んだ のに、先方からはうまくはぐらかされ、「これからもよいお友だちでいましょう」という雰囲気で別れざるを得なかった。本書は、体よくふられて悶々(もんも ん)とするゲーテの気持ちを、執筆当時すでに80歳を超えていたヴァルザーが、微に入り細に入り描いてみせた小説である。
 地位と名声を手に入 れ、すでに孫もいる大作家ゲーテの片思い。この片思いから美しい詩の数々が生まれたと思えば、まあ、よかったんじゃないのといいたくもなる。ウルリーケが 一生結婚しなかったという話は、この本で初めて知った。いつも母親の監視下にあったウルリーケの本心は、どこにあったのだろうか。読了後、そっちの方が猛 烈に気になってきた。
    ◇
 八木輝明訳、慶応大学出版会・3360円


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マリーエンバートの悲歌

著者:マルティン・ヴァルザー、八木輝明/ 出版社:慶應義塾大学出版会/ 価格:¥3,360/ 発売時期: 2012年09月

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天草の豪商・石本平兵衛 1787—1843 [著]河村哲夫

[評者]出久根達郎(作家)  [掲載]2012年10月21日   [ジャンル]歴史 経済 

表紙画像 著者:河村哲夫  出版社:藤原書店 価格:¥ 3,990

■忘れられた大商人の素顔

 三井・住友・鴻池に次ぐ江戸期の豪商だが、この人の名を知る人は多くないだろう。
 薩摩を始め九州諸藩の御用商人として活躍し、唐津藩主だった水野忠邦に取り立てられる。水野の金主となり、彼の昇進を支援する。水野はやがて幕府の老中となり天保の改革を進めるのだが、石本も勘定所御用達を仰せつかる。冒頭の三商人が占めていた特権を得たのである。
  しかし石本の命運は、水野の栄達に左右される。権力との癒着は、消長を共にすることだ。砲術家・高島秋帆と連携し、西洋兵器の輸入をもくろんだ石本は、洋 学者を嫌う鳥居耀蔵の手で逮捕される。渡辺崋山や高野長英らを弾圧した「蛮社の獄」の余勢である。石本は獄死し、半年後、水野は強権政治を非難され失脚す る。
 本書は五百ページの伝記だが、いま一つ平兵衛の姿がはっきりしない。彼の研究は学界で始まったばかりという。最大の謎は、これほどの豪商の名がなぜ忘れられたか、だ。
    ◇
 藤原書店・3990円

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天草の豪商・石本平兵衛 1787-1843

著者:河村哲夫/ 出版社:藤原書店/ 価格:¥3,990/ 発売時期: 2012年08月

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asahi shohyo 書評

もう一つの地球が見つかる日—系外惑星探査の最前線 [著]レイ・ジャヤワルダナ

[評者]川端裕人(作家)  [掲載]2012年10月21日   [ジャンル]科学・生物 

表紙画像 著者:レイ・ジャヤワルダナ、阪本芳久  出版社:草思社 価格:¥ 2,310

■進化論級の発見、迫る「その時」

 夜空を見上げ、どこかに地球に似た星があるだろうかと考えた事がある人は多いはず。実は、太陽系外の惑星の研究は今や日進月歩で、新たな発見が相次いでいる。誰もが抱く素朴な疑問に科学が迫る様を、主要研究者の一人である著者が解説する。
 「ほんの20年前まで、確実に存在する惑星系は一つだけだった」と著者は冒頭で言う。つまり、我々の太陽系だ。
  遠く離れた恒星に惑星があるか知るのは難しい。なにしろ、大きく明るい恒星に対し惑星はあまりに小さく暗い。しかし研究者は様々な方法を編み出し、不可能 を可能にした。惑星の重力で恒星が振幅することで光の色が微妙にずれるのを観察するドップラー法、恒星の前を惑星が横切る時に少し暗くなるのを捉えるトラ ンジット法など。今では惑星を直接見る方法もある。
 最初に見つかった系外惑星は恒星にごく近い軌道をまわる「ホット・ジュピター」(熱い木星) と呼ばれるタイプだった。木星のような巨大惑星が太陽の近くにあるのはそれまでの理論と食い違い、新たな太陽系形成モデルが考案されるほどの衝撃を与え た。さらに「スーパーアース」(大型の地球)と呼ばれる岩石惑星も発見されるようになった。
 目下最大の話題は、米航空宇宙局(NASA)が打ち 上げた専用の観測衛星だ。15万個の恒星が見える宙域を常に観察し、今年6月までに2300個以上もの惑星候補を見つけた。その中にはハビタブル・ゾーン (生命が存在し得る領域。液体の水の存在が重要)にあるものも多い。生命の可能性が見込めるとなると、今度は生命存在の指標「バイオマーカー」の観測に注 力することになる。
 地球外生命の「決定的証拠」が発見されればダーウィンの進化論に匹敵する衝撃を人類社会に与えると著者はいう。そして「われわれは生きているうちに『その時』を迎える」と予言する。
    ◇
 阪本芳久訳、草思社・2310円/Ray Jayawardhana トロント大学教授。惑星の多様性と起源が専門。


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2012年10月5日金曜日

kinokuniya shohyo 書評

2012年09月30日

『歴史を考えるヒント』網野善彦(新潮文庫)

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「「日本」という国名はいつできたのか?」

 「日本」という国の名前が決まったのはいつか? 一体どれだけの人がこの基本的な質問に対して正確に答えられるだろうか。網野善彦の体験によると、大学 生の解答は「紀元前一世紀から始まって十九世紀まで、満遍なく散らばって」いたそうだ。国家公務員の研修でも結果は似たようなもので、ほとんどの人が知ら なかったということだ。アメリカ人や中国人に同様の質問をした時は、1776年や1945年という答えがすぐに返ってきている。

 この事実だけで、日本人は愛国精神が足りないなどと判断するのは短絡であろう。しかし、「愛国」を振りかざして国民を「亡国」へと導いていく政治 家達の、一体何名がこの重要な質問に答えられるだろうか。網野の『歴史を考えるヒント』によると「現在の大方の学者の認めるところでは、浄御原令という法 令が施行された六八九年とされている」とのことだ。六八九年が遅いと思った人は、三世紀の卑弥呼を意識しているだろうし、早いと考えた人は、一五世紀に足 利義満が「日本国王」と称したのが脳裏をかすめたのかもしれない。

 次いで、「日本」という国名の成立経緯を考察して、「日出づるところ」という意味から考えると、やはり「中国大陸の唐帝国を強く意識した国号」だ と考える。理由は「自らを朝貢国と位置づけていた状態から、脱却を図った」からだ。故に「一部の人の決めた国名である以上、人の意思で変えられる、つまり われわれ日本人の意思で変えることもできるのです。」という虚を衝かれる意見に至る。そんな馬鹿な、と思うかもしれないが、網野が「最も問題なのは、我々 がほとんど全く意識しないまま、『日本』をあたかも天から授かった国名のように、今もぼんやりと使い続けているということではないでしょうか。」と言う 時、彼の考えの重要性が理解できる。

 地域や地域名に関する考察も面白いが、「普通の人々」を何と名づけるかというのは興味深い。国民、庶民、市民、人民等に加え、平民、常民等の名称 に考察を加えていく。日本中世史が専門である網野ゆえに、今我々が何気なく使っている言葉も、かつては違う意味で使われていたことが分かり、面白い。そし て、網野学説の基本をなしていると思われる、百姓=農民ではないということが解説される。種々の文献や事例を示してくれるので、分かりやすく説得力があ る。

 被差別民の名称や制度化についての検討も示唆に富んでいる。ある時期においては神仏に使える優れた職能民であった人々が、なぜ差別されるように なったのか。網野によると、一三世紀後半に「穢多」という言葉が使われるようになり、その頃から差別的な見方が現れたが、その差別は「社会的に固定した状 態」にはなっていなかったという。それが身分として固定されるのは江戸時代なのだが、差別の発生が「人間と自然との関係が大きく変化し、社会が『文明化』 したためである」との指摘は鋭い。

 日常用語の考察も興味深いが、網野の意見は次の一文で明らかだ。「欧米の言葉を翻訳する際、それに対応させたがゆえに、かつて日本の社会の中に存 在した言葉の多様な意味が消えてしまった場合が実際に少なからずあるのです。」「温故知新」ではないが、「日本」の姿が揺れている今こそ、自らのアイデン ティティーを明確にするために、過去を振り返ってみることが重要なのかもしれない。


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